養い親が、変更されました
ゆるゆると、意識が戻る。
暖かくて、心地いい。
瞬くと、無機質な真っ白な天井が視界いっぱいに広がる。
(ここ……どこ……)
そんな疑問が浮かぶのと同時に、穏やかな甘い声がセシリアの鼓膜を揺らした。
「お目覚めですか? セシリアさん」
声のするほうに視線を向けると、赤い髪のきれいな女性が優しい目で自分を見ている。
誰だろう、とぼんやり思うセシリアに、彼女は穏やかな口調で言う。
「まだ、ゆっくりしていらしてくださいな。ブラッドリーさまを呼んで参りますわね」
そう言うなり、優雅な所作で立ち上がって出ていくと、彼女はすぐに白衣を着た男性とともに戻ってきた。
明るい金髪にブルーグレーの瞳を持つ、背の高い壮年の男性だ。
彼は軽く片手を上げると、セシリアの枕元に椅子を寄せて腰を下ろした。
「セシリア。気分はどうだ?」
よく通る低い声で問われ、ゆるりと瞬く。
頭の中に霞が掛かっているようで、上手くものを考えられない。
額に男性の大きな手が触れてきて、それが不思議と心地よかった。
「まだ少し、熱があるな。――おまえはあれから、丸一日寝てた。何か、欲しいものはあるか?」
丸一日。
あれから、とはどういうことだろう。
自分はなぜ、そんなに長い間眠って――。
(……っ)
そこまで考えたとき、曖昧だった意識が唐突に冴えた。
腹筋だけでベッドから跳ね起き、驚いた顔をしているブラッドリーの白衣を掴む。
「姉さん、は……っ」
ひどく掠れた声での問いかけに、ブラッドリーはすぐに答えた。
「無事だよ。今は、ここの情報部の連中が、二十四時間体制で護衛してる。もちろん、旦那と子どもも一緒にな」
「……子、ども?」
思わず目を瞠ると、ブルーグレーの瞳がわずかに揺れる。
「ああ、知らなかったのか。おまえの姉夫妻には、今年二歳になる子どもがいる。エミルという名前の男の子だ。おまえの、甥だな」
甥、と呟いた途端、視界が歪んだ。
濡れた感覚が頬を伝って、生ぬるい雫が顎から滴り落ちていく。
「……なんだ、これ」
戸惑いながらも、自分が泣いているらしいことは理解する。
しかし、意味がわからない。
レノックス伯爵家で、泣くことに何も意味がないことを知ってからは、どれほど辛く苦しいことがあっても、自分の目から涙が溢れてくることはなくなったのに。
放っておけば、そのうち止まるのだろうか。
鬱陶しいな、と思っていると、ひんやりとした感触が目元に触れた。
濡れたタオルを手にしたブラッドリーが、穏やかな声で言う。
「感情を抑圧する必要がなくなって、いろいろと箍が外れているんだろう。しばらくは、体がしたいようにさせてやれ」
そういうものなのだろうか。
よく、わからない。
しかし、姉が無事であったこと、子どもも生まれて、幸せな家庭を作っていることは理解した。
心の底から安堵が溢れて、それが涙となっているのだろうかと、ばかなことを考える。
「セシリア。レノックス伯爵と彼の嫡男は、おまえに対する虐待及び脅迫、マスターに関する王家への虚偽申告その他諸々の罪状で、すでに捕縛されている」
「え……?」
瞬くと、睫毛に引っかかっていた雫がまた落ちた。
「罪状が罪状なだけに、まだ公表はされていない。ただ、レオナルドとユージィンが、めちゃくちゃ王宮に圧力を掛けているからなあ。最低でも爵位の剥奪、領地財産の没収。そのうえで、国外追放になるか死罪になるかは、連中の運次第ってとこか」
ブラッドリーの言葉を咄嗟に理解できず、セシリアは首を傾げる。
それは、つまり――。
「レノックス伯爵家の、連中は……もう、姉さんに、ひどいことはできない?」
「ああ。念のため、王宮からの最終結論が出るまでは、おまえの姉夫婦の護衛は継続する予定らしいが……。国王も、レノックス伯爵家のやりようには相当腹に据えかねていたようだし、そう甘い判断が下されることはないだろう」
は、と吐息が漏れた。
ずっと全身を押しつぶすようだった重りが突然外されて、呼吸が楽になったような心地がする。
涙が、止まらない。
なぜだか体が震えてきて、シーツの上に落ちていた腕を持ち上げると、重みのある布の塊が引っかかった。
見慣れたジャケット。白銀のラインからして、レオナルドのものだろうか。
なぜこんなものがここにあるのだろうと思ったけれど、考えるのも億劫で、そのまま膝を引き寄せる。
「ふ、ぅ……っ」
抱えた膝に顔を埋めて泣いていると、大きな手が頭に触れた。
「ずっと、辛かったな。……でも、もう大丈夫だ。大丈夫なんだよ、セシリア」
辛かった。苦しかった。痛かった。
ずっと、早く死んで楽になってしまいたかった。
(父さん……母さん……)
セシリアが、両親を食い殺した呪詛に縋ってまで守りたかった姉を、呪詛対策機関の人々はたった一日でレノックス伯爵家の脅威から解放してしまった。
結局、自分はまた何もできないままだ。
ばかみたいにレノックス伯爵家の連中に従って、ここの人々に迷惑をかけてばかりの、愚かな子ども。
「ごめ……なさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
ずっと、拒絶してきた。
彼らのことを、嫌いなままでいたかったから。
自分ばかりが辛いような顔をして、優しい人々にひどい言葉ばかりをぶつけてきた。
なのにどうして、彼らはセシリアを助けてくれるのだろう。
わからない。
自分には、彼らの優しさを受け取る資格なんて、少しもないのに。
「……セシリアさん。謝らないでくださいな。あなたは、何も悪くないのですから」
クローディアの声とともに、華奢な手が背中に触れた。
「悪いのは、あなたをこんなふうに泣かせるレノックス伯爵家の人々です。大丈夫。レオナルドもユージィンも、彼らがあなたにしてきたことを知って、本当に憤っておりましたもの。きっと今頃、大人げなく大暴れしていると思いますわ」
思わず顔を上げると、クローディアがにこりとほほえむ。
「本当は、私も同行したかったのですけれど……。ふたりから、私にはここであなたを守っていてほしい、と請われてしまいましたの。そのほうが、安心して思う存分好きなようにできるから、ですって」
男の子って、いくつになってもこれですから――と、呆れたように言う彼女の顔は、たしかに優しく笑っているのに、なぜだか落ち着かない心地になる。
「ねえ、セシリアさん。私、レオナルドとユージィンとは、子どもの頃からお付き合いがあるのです。それでも、あのふたりがあんなに怒っているところなんて、本当にはじめて見ましたわ」
クローディアの手が、セシリアの手に重なった。
「彼らも、私も、コンラッドも。あなたが理不尽に傷つけられるようなことがあれば、これからも必ず怒りますし、その相手を全力で排除いたします。それだけは、覚えておいてくださいね」
「え……?」
どうして、と思ったのが伝わったのだろうか。
少し困った顔をして、クローディアが言う。
「だってあなたったら、ご自分のことを大切にするのが、とてもお下手なんですもの。そばにいる私たちが、代わりにあなたを大切にして差し上げなければならないでしょう?」
「……すまない。意味がわからない」
困惑するセシリアに、彼女はコロコロと軽やかに笑った。
「そうですわね。まずは、そのお言葉遣いからでしょうか。あなたは、望んで殿方のように振る舞っているわけではないのでしょう? もうレノックス伯爵家から何か言われることもないのですし、お好きなようになさってよいのですよ」
突然そんなことを言われても、だ。
「あなた方の前では、ずっとこうだったから……。おれが今更女のように振る舞っても、気持ちが悪いだけだろう」
「あら、そんなことはございませんわよ? 何より、私たちがどう思うかは問題ではありませんわ。あなたご自身が、これからどうしたいかでございましょう?」
答えに窮していると、ブラッドリーがそうだぞ、と頷く。
「前にも、言っただろう。おまえは、おまえのしたいようにしていいんだ。何しろおまえは、まだ十五歳の子どもなんだからな。女の格好をしたきゃ、そうすればいい。呪詛と戦いたくないなら、そう言っていい。姉さんに会いに行きたいなら、行けばいいんだ。誰も、それを咎めたりしない」
「姉さんには、会わない」
ほかのことはともかく、それだけはハッキリしている。
「姉さんにとって、おれは死んだ人間なんだ。子どもも生まれて、幸せに暮らしているなら……それを邪魔するようなことは、したくない」
「……そうか」
いつの間にか止まっていた涙の跡を、ブラッドリーが拭っていく。
それから少し考えるようにした彼が、右の拳で左の手のひらをぽんと叩いた。
「じゃあおまえ、僕の子どもになるか?」
突然告げられた意味不明な言葉に、セシリアは目を丸くする。
「ブラッドリー。何をいきなり、とち狂ったことを言い出すんだ?」
「ナチュラルに人を頭おかしい判定するんじゃない。――ホラ、レノックス伯爵が断罪されたら、おまえとの養子縁組も解消されるだろう? そうしたら、誰が未成年の水使いであるおまえの後見になるかで、また王宮がちょっとした騒ぎになるわけだ」
セシリアは、首を傾げた。
「そういうものなのか?」
「そういうものなんだ。ただ、今はレノックス伯爵家の前例があるから、王家の目が相当厳しいことになってる。貴族側にとっても、おまえを利用して何かしでかすんじゃないか、って目で見られるのは、遠慮したいところだろう。で、そういう疑心暗鬼でドロドロの状態が続くってのも、またよろしくない話なんだな、これが」
なんだかよくわからないけれど、自分という存在のせいで、王宮で面倒なことが起きかねない状況だということだけは理解できた――かもしれない。
(生まれてから十一歳までは平凡なパン屋の娘で、そこから今までは貴族の戦闘用奴隷をやっていたからなあ。正直、雲の上のことはそっちで勝手にやってくれ、という感じなんだが……)
他人事のようにぼんやりと話を聞いているセシリアに、ブラッドリーが言う。
「その点、僕は貴族社会の面倒なアレコレとは縁切りしている、一介の医者だ。ただし、身分だけは公爵家の三男という、大変煌びやかな看板を持っている。おまえの養い親となるには、かなりお買い得な物件だと思うぞ」
お買い得、とセシリアは呟く。
「その……おれの養い親となることは、ブラッドリーにとって何かメリットがあるのか?」
レノックス伯爵家の暴走ぶりを見る限り、水使いの養い親となることは、貴族階級の人間にとって某かのメリットがあるのだろうとは思う。
しかし、ブラッドリーは医者という自分が選んだ道を、これほどしっかりと歩んでいるのだ。彼が貴族社会と縁を切っているという以上、少なくともレノックス伯爵家が求めていたようなメリットを求めてはいないのではなかろうか。
公爵家の三男というなら、それなりの資産もすでに持っているのだろうし、彼がセシリアを引き取る理由が思いつかない。
しかし、ブラッドリーは至極あっさりと言ってのけた。
「メリット? ああ、ちょっと楽しそうだよな」
「……は?」
想定外の答えに目を丸くしたセシリアの代わりに、クローディアが眉根を寄せてツッコんだ。
「楽しそう、とはなんですの、楽しそうとは。何かもうちょっとこう、マシなことは言えませんの?」
「いや、大事なことだろう? 僕はこれでも、おまえたちのことを結構気に入っているんだ。もしセシリアが王都から遠く離れた家の子どもになったら、ろくに顔を合わせる機会もなくなるんだぞ」
たしかに、呪詛対策機関に所属できるのが成人年齢の十八歳からである以上、今後少なくとも三年近くは、彼らと接する機会がなくなるわけだ。
そう考えると、なぜだか少し胸の奥が苦しくなった。
あら、とクローディアが軽く持ち上げた指で頬に触れる。
「それは……レオナルドが、ちょっと可哀相ですわね……」
(……なんで、レオナルド?)
首を傾げるセシリアをよそに、ブラッドリーがそうだろう、と頷く。
「何より、セシリアのメンタルケアを考えても、これまでと違う環境にいきなり移すことは推奨できない。その点、僕の養子になれば、適当な理由を付けてここに出入りすることも可能だろう。マスター同士の交流はもちろんだが、事情を知っているおまえたちがコイツに世間を教えてやるのは、悪くない話じゃないか?」
「まあああ! それは、素晴らしいですわ! いえ、ブラッドリーさまの養子になるか否かは、セシリアさんのお気持ち次第なのですけれど!」
満面に笑みを浮かべたクローディアが、セシリアの手を握ってくる。
「セシリアさん。ご存じの通り、ブラッドリーさまは少々変わったところもございますが、お医者さまとしてはとても信頼のできる方ですわ。もちろん、今すぐにご決断いただきたいとは申しませんけれど、よかったらぜひ前向きに考えてみてくださいませね!」
セシリアは、判断に困った。
――『僕の言葉はありがたい神の言葉だと思って、畏れ敬いながら黙って従え』、と言い放てるほどの強すぎるメンタルは、果たして『少々変わったところ』という表現ですませていいものなのだろうか。
「その……正直、話がいろいろと急に進みすぎて、上手く考えがまとまらない。ただ、おれが生きていることを、姉さんには知られたくない。それは、今この状況で願ってもいいことなんだろうか?」
ぎこちなく口にした問いかけに、クローディアがブラッドリーを見る。
その視線を受けた彼が、軽く首を捻って通信魔導具を取り出す。
「そうだな。ちょっと、確認してみるか。――やあ、親愛なる国王陛下。そちらはどんな様子かな? 我らが水使いの少女から、ちょっとしたお願い事があるそうでね。少々話を聞いてもらえるとありがたいんだが」
(……国王陛下?)
てっきりレオナルドかユージィンに繋いだとばかり思っていた通信相手の正体に、セシリアは目を丸くした。彼女の手を握っていたクローディアも、びしりと硬直している。
ブラッドリーの通信魔導具から、相手の声が聞こえてきた。
深い響きの、落ち着いた男性の声だ。
『――ブラッドリー。おまえには、いろいろと言いたいことがあるのだがな。今は、水使いの少女からのご要望を聞かせてもらおうか』
「ああ、うん。彼女は、自分が生きていることを、唯一の肉親である姉君には知られたくないそうなんだ。今回の件にどういう形でケリをつけるにせよ、この点だけは配慮してもらえるとありがたい」
少しの間、沈黙があった。
やはり無理な願いだったのだろうかと不安になったとき、国王の戸惑った声が返ってくる。
『……それだけか?』
「ああ。彼女は目を覚ますなり、何よりもまず姉君の心配をしていた。当然だろう? 彼女はほんの子どもの頃から、姉君のためだけに命がけで戦ってきたんだ。レノックス伯爵家が、もう姉君にひどいことはできないと知って、随分長い間泣いていたよ。まったく、十五歳の子どもにあんな泣かせ方をするような連中は、揃って地獄に堕ちるべきだよねえ」
冷ややかな笑い混じりの声に、国王がなるほど、と低く呟くように言う。
『了解した。水使いの少女に、ご要望は承知した。こちらで万事よきように手配するゆえ、どうぞ心安らかにお過ごしください、とお伝えしてくれ。……実はちょうど今、私の目の前にレノックス伯爵とその嫡男がいるのだがね。何か、彼女から彼らに伝えたいことはあるだろうか?』
その言葉とともにブラッドリーの視線を向けられ、セシリアはきゅっと唇を噛んだ。
――彼らに言ってやりたいことなら、いくらでもあった。
けれど、なぜだろう。
レノックス伯爵家の人々が、すでにセシリアに対して何もできない状態にあるとわかった今、彼らに対するあらゆる感情が鈍麻してしまった気がする。
どうでもいい。ただ、これ以上彼らと関わり合いになりたくない。
「……特に、ない。ただ、連中の顔を思い出すと、吐き気がする。彼らが二度と、おれの前に姿を現すことがないなら、それでいい」
「だ、そうだ。よろしく頼むよ、国王陛下」
ああそれから、とブラッドリーがふと思い出したというように口を開く。
「彼女の体には、数え切れないほど多くの傷跡があった。中でも酷かったのは、左肩と右脇腹の裂傷、右大腿部の獣の爪痕と左足首の咬傷だよ。どれも、女の子の体に残っていいものじゃない。これから僕が治療していくつもりだけれど、その費用はレノックス伯爵家の資産から出してもらうってことでいいんだよな?」
『……もちろんだ。金に糸目をつけず、最高の治療を施して差し上げろ』
ますます低くなった声での返答に、セシリアは首を傾げた。
「今痛んでいるわけでもないのに、なぜ傷跡の治療が必要なんだ?」
ブラッドリーが、やんわりと頷く。
「うん。その傷跡が消えている頃には、おまえがそのことを喜べるようになっているといいと思うよ。――というわけで、国王陛下。これからそっちで風使いと炎使いが暴れるかもしれないけれど、あとのことはよろしく頼む」
『うむ……。すでに暴れているが、まあ……この程度で済むなら、安いものか』
何やら疲れた声をした国王が、深々と息を吐いた。
……レオナルドとユージィンは、国王の御前でいったい何をしているのだろう。
『ではな、ブラッドリー。水使いの少女には、くれぐれもご自愛くださるようお伝えしてくれ』
「ああ、わかった」
あっさりとブラッドリーが通信を切ると、それまで黙っていたクローディアがキリッとブラッドリーを睨みつけた。
「ブラッドリーさま……。貴族社会と縁を切られているとおっしゃっておきながら、国王陛下と直接お話しできるお立場を保たれているというのは、ほとんど詐欺ではないかと思います」
「そんなことを言われてもなあ。陛下は俺が生まれたときから、兄貴たちと一緒になって可愛がってくれてた兄貴もどきだし。俺が医者になるって言ってそっち系の学校に進むと決めたときも、親父の説得を手伝ってくれたし。いくら国王だからって、そんな相手と縁を切る必要もないだろう?」
なんだか、よくわかるようなわからないような理屈である。
半目になったクローディアが、セシリアを振り返った。
「セシリアさん。国王陛下を顎で使えるブラッドリーさまの養子になっておけば、この国で怖いものはございませんわ。改めまして、このお話をお受けすることを、心からおすすめいたします」
やたらと真剣な顔で言う彼女に、ブラッドリーが笑って続ける。
「そうだぞ、セシリア。国王陛下云々はともかく、貴族社会と縁切りしている僕の子どもに対して、生半可な覚悟で縁談を申し込める貴族はそういないはずだ。おまえが女性の水使いである以上、今後そういった問題は避けて通れないだろう? それに煩わされるのがイヤなら、サクッと僕の養子になっておくことをおすすめするぞ」
「了解した、ブラッドリー。よろしく頼む」
縁談、という言葉に鳥肌を立てたセシリアは、すかさずブラッドリーに右手を差し出す。
この国の水使いが女性であることが明らかになった以上、彼女の『所有権』を得るなら養子縁組よりも、縁談を組むほうが確実だ。
冗談ではない、と顔を強張らせた彼女と握手をしながら、ブラッドリーが首を傾げる。
「養子縁組が成立したら、僕のことはお父さまと呼ぶように。――縁談は、そんなにイヤか?」
「ああ。レノックス伯爵の嫡男に、訓練中に胸や尻を触られることがあってから、男にそういう目で見られるのが気色悪くて仕方がないんだ」
そう言った途端、ブラッドリーとクローディアの顔から表情が抜けた。
しばしの沈黙のあと、クローディアがおもむろに通信魔導具を取り出して口を開く。
「レオナルド、クローディアです。たった今、確認が取れました。セシリアさんに性的ないやがらせをしていたのは、レノックス伯爵の嫡男、ジュリアンです。そのせいでセシリアさんは、殿方からそういった視線を向けられることが、気色悪くて仕方がないとおっしゃっています」
ですから、と彼女は低く鋭い声で言う。
「私からも、お願いいたします。――ジュリアン・レノックスに、自身の不埒な振る舞いを、全力で後悔していただいてくださいな」
『……了解』
今まで聞いたことのない、やたらとおどろおどろしいレオナルドの声に、セシリアはぎょっとしてブラッドリーを振り返る。
彼女の養父となることが決まった彼は、どこか遠くを見ながら呟いた。
「ここまで、見事に運がないとはなあ……。アイツ、何かに呪われてるんじゃないのかね」
(運? ……なんのことだ?)
ブラッドリーが何を言いたいのかはよくわからないけれど、自分たちの仕事で、それはちょっとシャレにならないと思う。




