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「…………」
「…………」
控え室の空気は、どこか現実味を欠いていた。私たちはただ並んで、呆然とベンチに腰を下ろしている。
ついさっき終えたばかりの双輪試走。その余韻がまだ頭と体の奥にこびり付いて離れない。胸の奥はざわざわしているのに、手足は鉛のように重くて上手く動かせない。
「……莉愛ちゃん……大丈夫?」
隣で詩乃ちゃんが天井を見上げたまま、力の抜けた声で私に問いかける。
「うん……でも、なんか……あまり覚えてない気がする……」
本当にそうだった。必死で、夢中で、ただ前へ前へと進んでいた。どの道を走ったのか、どんな風に魔法を使ったのか——思い出そうとしても、頭の中が白く霞んでいる。
「……分かる」
詩乃ちゃんも小さく笑うように答えた。複数のコースを一気に突破するなんて初めての経験。体力も頭も全部使い切って、余裕なんてどこにもなかった。
だからこそ、達成感がじわじわと押し寄せてきて胸の奥が温かくなる。
「……後で記録の映像を見たら、思い出すかな?」
ふと口にすると、少しだけ笑みが漏れる。コースごとに設置されていた記録用の撮影機。きっとあの映像を見返せば、今日の自分たちがどんな顔で、どんな声で走り抜けたのかをきっと思い出せる。
最初に見たあの双輪試走の映像みたいに。
「そうだね……取り敢えず、制服に着替えてくるね……」
まだ夢の中にいるような表情のまま、詩乃ちゃんがゆっくり立ち上がる。
「大丈夫っ? 手伝おうか?」
思わず声をかける。疲れているのは私も同じはずなのに、詩乃ちゃんの足取りが少しフラついて見えて心配になる。左脚の義足も、心なしかカタカタ揺れているように見える。
「大丈夫〜」
ヒラヒラと手を振って、詩乃ちゃんは更衣室へと消えていった。背中を見送りながら、私の中にじんわりと実感が芽生える。——双輪試走が、終わったんだって。
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「お待たせ〜」
制服に着替えた詩乃ちゃんが戻ってきた。さっきまでのぼんやりした様子が少し薄れて、表情も明るく見える。私はベンチから立ち上がり、詩乃ちゃんと並んで歩き出した。
「それじゃあ、教室に行こうかっ」
「うんっ!」
控え室を出て長い廊下の先にある鏡へ向かう。鏡を抜けていつもの階段の踊り場へ出ると、廊下はざわめいで満たされていた。
どの教室からも笑い声や歓声が漏れ聞こえてくる。どこかの扉が開いた瞬間に「うわぁーっ!」と大きな声が上がるのが聞こえて、思わず私たちは顔を見合わせた。
「私たちのも……もう流れてるのかな?」
「そうかもねっ、行こっかっ」
詩乃ちゃんも、同じように少し照れ笑いを浮かべている。
通り過ぎる教室をチラリと覗くと、スクリーンにクラスメイトのレース映像が映し出されていて、その度に生徒たちが身を乗り出し、手を叩きながら盛り上がっていた。
大声で名前を呼んだり、「すげーっ!」と叫んだり。まるで応援席にいるみたいな騒ぎだ。
その光景を横目に見ただけで、胸の奥が一層そわそわする。——きっと、私たちの教室もこんなふうに賑わっているんだ。そこに自分の名前が呼ばれていたら……。
鼓動が早まるのを誤魔化すように、私は歩幅を速めた。詩乃ちゃんも同じ気持ちなのか、自然と足音が弾んでいた。
教室に着くと、カナタと拓斗が自分の席に座っていた。カナタは壁にもたれかかり、机に頬杖をつきながら無造作に足を組んでスクリーンを見つめている。拓斗は椅子に浅く座り、少し眠そうにしながらもジッと映像に集中している。
二人共スクリーンに夢中だったみたいだけど、私たちに気付くと振り返って迎えてくれる。
『お疲れ様、二人共』
「お疲れ」
「お疲れ様〜っ!」
軽やかに交わされる声に、少し胸が温かくなる。緊張と疲労で張り詰めていたものが、労いの一言でふっとほどけるみたいだった。
「お疲れ様っ」
私も少し遅れて声を合わせた。スクリーンには、私たちの前に走ったペアの映像が流れていて、クラス中の視線が釘付けになっている。
「あっ! 次、私たちだよ、きっとっ!」
詩乃ちゃんが弾む声を上げると、そのまま自分の席にちょこんと座った。私は一瞬立ち止まる。自分はどこに座ろうかと迷った時だった。
『莉愛、疲れたでしょ? 座りな』
カナタが立ち上がって、自分の椅子を差し出してきた。
「えっ!」
思わず声が裏返る。断ろうと口を開くよりも早く、カナタは当然のように自分の机に腰をかけ、長い足を組んで壁に背を預けた。その仕草は少し乱暴で、でもどこか気取らない。
お行儀は良くないけど、周りを見渡せば同じように友達の机に腰掛け、夢中でスクリーンを見上げている生徒も何人かいて、少し安心した。
(先生もいないし、まいっか)
心の中で小さく呟いて、私はカナタに感謝を告げてから壁を背にして椅子に腰を下ろした。
スクリーンには巨大迷路の中で右往左往するペアの姿。笑いと声援が教室のあちこちから湧き起こり、その熱気に包まれながら私は画面を見つめた。
『迷路のコース、あってよかったね』
カナタの声が頭上から届く。その声音には、どこか私のために安心しているような響きがあった。
双輪試走のコースは、七つのコースを順番に突破してゴールを目指すものだった。そのコースは、七賢者が毎年決めているらしい。
「うんっ!」
迷わず頷く。胸の奥からじんわりと湧き上がる感謝の気持ちを抑えきれず、私は心の中でそっと祈る。
(どちらの賢者が選んでくださったか分かりませんが、ありがとうございます)
私は心の中で、巨大迷路コースを選んでくれた賢者に感謝した。
すると廊下から、ドドドッと足音が響いてきた。勢いよく迫ってくるその音は、私たちの教室の前でピタリと止まる。
次の瞬間、勢いそのままに玲央くんが飛び込んできた。
「ハァッ、ハァッ……俺らのはまだっ!?」
額に汗を光らせ、肩で息をしながらも、目はキラキラと輝いている。思わず私は、その無邪気なワクワクの顔に圧倒される。こんなに疲れているのに、どうしてこんなに楽しそうに笑えるんだろう。
「お疲れ様。次、私たちで、その次が玲央くんたちの番だよ」
私が答えると、玲央くんは弾けるように笑った。
「よーしっ、間に合ったぁ!」
その声には、本当に安心したような響きがあって、前髪を汗で濡らしながらかき上げる仕草も、何だか子供っぽくて憎めない。
「……何で玲央は、そんな元気なんだよ……」
低い声が続いて、視線を向けると優ちゃんが教室に入って来ていた。玲央くんとは対照的に、疲労の色を隠そうともしないで肩を落としたまま歩いて来た。足取りの重さに、疲れが滲み出ていた。
優ちゃんはそのまま自分の席に辿り着き、詩乃ちゃんの後ろの席にストンと腰を下ろした。机に突っ伏しそうなほど、ぐったりとしている。
「優っ、借りるぞー!」
玲央くんが元気いっぱいに宣言し、迷いなく優ちゃんの机に腰掛ける。カナタがやっていたように、当然のように。
「……俺が見えねぇだろ……」
優ちゃんがぼやき、仕方なさそうに椅子を机の横にずらして腰掛ける。その姿を見て、私は心の中で「仲がいいんだな」と思わず微笑んでしまった。
でも——
「優ちゃんっ、口調が男の子になってるよ?」
詩乃ちゃんが、私の代わりに指摘してくれた。カナタと拓斗も、驚いたように視線を向ける。
「あぁ、今は疲れたからいいの……」
優ちゃんは、玲央くんの腰掛ける机に肘をつき、頬杖をついた。ぐったりしているはずなのに、どこか様になっていて、無造作に足を組んで座っているのに、その姿は妙に綺麗だった。
『……莉愛たちの番、始まるよ』
カナタの機械混じりの落ち着いた声が、ざわめく教室の中で不思議とはっきりと耳に届いた。その言葉に、私の胸の奥が一気に高鳴る。さっきまでの疲れが嘘みたいに吹き飛んで、思わず息を呑む。
私たちはスクリーンへ顔を向けた。
「わーっ、楽しみっ! さっきのことあんまり覚えてないんだよねっ!」
「何でだよ……」
詩乃ちゃんの言葉に、拓斗が呆れたように、でも小さく笑いながらツッコむ。
そして、私たちの双輪試走がスクリーンに映し出された——
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