23
魔械掲示板には、最速タイムランキングの最新のトップ10が浮かび上がっていた。淡い光の粒が宙を舞い、やがて形を結ぶ。
そこに映し出されたのは、私たちがさっきまで挑んでいた巨大迷路コースのランキング。だけどその一位から十位までを埋め尽くしていたのは——
詩乃ちゃんと私の名前だった。
「…………えっ」
あまりに現実味がなくて、声が喉に引っかかった。さっきまで夢中で走っていた時のタイムが、全部ランクインしたらしい。
「ええぇぇぇぇぇぇぇ!?!?」
隣から爆発みたいな声が響き、思わず体が反る。視線を向けると、詩乃ちゃんは目をまん丸にして口をパクパクさせていた。
「えぇー!? 私たちが一位っ!? っていうか全部私たちじゃんっ!」
「そ、そうだね……」
詩乃ちゃんの慌てっぷりを見ていたら、胸のざわめきがスッと引いていった。
誰かが大騒ぎしていると、不思議と自分は冷静でいられる。そんな言葉を本で読んだことがあったけど、本当にそうだなって思った。
「すごいねっ! すごいよ莉愛ちゃんっ!」
興奮した声と一緒に、両肩をブンブンと揺さぶられる。だけど私はその揺れの中でも掲示板から目を離せなかった。
一位から十位まで、ほんのコンマ数秒の違いで並んでいる。
そして一位のタイムには大きく「2分02秒41」と刻まれていた。この記録は、巨大迷路コース歴代最速記録に並びそうな記録だった。
「……二分台……」
思わず小さく呟く。ついこの間まで、ゴールどころかタイムアウトが当たり前だったのに。あの時の自分からは想像もできない数字が、そこに確かに存在していた。
「もう少しインコースを狙えば、二分台も切れるかも……っ莉愛ちゃん?」
詩乃ちゃんが不思議そうに覗き込んでくる。そこで気付いた。自分の目から、熱い雫がポロポロと零れ落ちていることに。
「莉愛ちゃんっ、どうしたの? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
——あの日まで私はただ不安でいっぱいで、できない自分が悔しくて迷惑ばかりかけて……それでも泣くのは甘えだと思って、我慢していた。
でも——
そんな私に、カナタは手を差し伸べてくれた。
詩乃ちゃんは、私を信じて目一杯走ってくれた。
新しい発見に、新しい魔法とも仲良くなれた。
その全部が繋がって、今こうして数字に現れている。
胸の奥から溢れ出すのは、苦しかった日々の記憶と、やっと前を向けた自分への小さな誇り。
そして支えてくれた人たちへの、どうしようもないくらい大きな感謝だった。
止めようと思っても、涙は零れるばかりだった。胸の奥が熱くて、呼吸も上手く整わない。私は両手で口と鼻を覆って、小さくしゃくりあげながら泣いた。
「ヒック……ヒッ……グスッ……」
視界は滲んで、掲示板の光がぼやけて揺れる。自分でも情けないくらい止まらない涙に、心の奥では「こんなところで泣いちゃだめだ」って必死に思うのに、身体がまるで言うことをきいてくれなかった。
「莉愛ちゃん……」
隣から聞こえる声は、驚きじゃなくて、優しい響きだった。その優しさに触れた瞬間、胸に込み上げる想いが抑えられなくなる。
「詩乃、ちゃん……グスッ、ありがとう……」
「ちゃんと言いたい」と「今すぐ言いたい」が頭の中でせめぎ合って、結局言葉は涙に濡れながら飛び出した。カッコ悪くても、泣きながらでも、どうしても伝えたかった。
詩乃ちゃんは、そんな私を笑ったり責めたりしない。ただ背中をゆっくり撫でながら、優しく微笑んで答えてくれた。
「こちらこそだよっ。莉愛ちゃんっ」
その笑顔に胸がじんわり温かくなって、涙の奥から笑みが零れた。泣き笑いしながら見つめ合う。二人で同じ気持ちを共有できたことが、何よりも嬉しかった。
——でも、その瞬間。
耳に飛び込んでくるざわめきが、不意に現実を思い出させた。
(そうだ。私たち今、人集りの真ん中にいるんだ)
その事実に気付いた途端、胸の奥が熱くなって、恥ずかしさがドッと押し寄せてくる。
「と、取り敢えずここから出ようかっ」
詩乃ちゃんがそう言って、私の肩を抱いて人集りをかき分けてくれる。私はまだ涙の名残を袖で抑えながら、俯きがちに歩いた。
でもその心の奥には、泣いてしまった自分を後悔する気持ちよりも「一緒に笑ってくれる人がいる」ことの安心感が、しっかりと根を下ろしていた。
人集りから少し離れた廊下は、窓から差し込む光で眩しいほどに明るかった。私と詩乃ちゃんはそこで足を止め、しばらく深呼吸をしていた。
「カナタくんにも、お礼を言わないとねっ。私も言いたいっ!」
詩乃ちゃんが、いつもの調子で明るく笑ってくれる。
「……うんっ……言いたい……」
涙を袖で拭い、しゃくりあげもようやく落ち着いてきた。声に出した途端、その気持ちはどんどん大きく膨らんでいく。
——カナタに言いたい。
——カナタに伝えたい。
……カナタに、会いたい。
そう思った瞬間、胸の奥がドクンと鳴って顔が熱くなるのが分かった。涙を拭いた袖口をそのまま口元に押し当てて、思わず顔を隠す。
何でだろう。胸がこんなに苦しいのに、同時にすごく温かい。悲しいんじゃなくて、カナタのことを考えると不思議と心がじんわり満たされていく。
でも、どんな言葉で言えばいいんだろう。この感謝を、この想いを。考えれば考えるほど、胸がギュッとして、余計に言葉が見つからなくなる。
だけど——どうしても伝えたい。この気持ちは、ちゃんと。
「……んっ? あっ!」
不意に声を上げた詩乃ちゃんに目を向けると、廊下の先に視線を向け、パッと手を振っている。
その視線を追った瞬間、私の心臓は跳ねた。
晶くんと拓斗、そして——カナタ。制服姿で並んで歩いてくる三人。カナタは着替えた後だからか、ワイシャツの腕を捲って羽織りを脇に抱えていて、少しラフな雰囲気だった。
(——カナタっ!)
さっきまで、胸の中で何度も何度も「会いたい」と繰り返していた人が——今、目の前にいる。
それだけで、現実と気持ちが一気に重なって、胸の奥が耐えきれないほど熱くなった。
喉が詰まり、視界が滲む。溢れそうになる感情を抑えきれず、涙がまた溢れ出す。
カナタは私と目が合った瞬間、その目を大きく見開いた。
一拍遅れて、カナタは小走りでこちらへ向かってくる。迷いのない、その真っ直ぐな動きが——どうしようもなく胸を締めつけた。
気付けば、私も走り出していた。
『っ! 莉愛、どうしたのっ!? 何で泣いて——』
「……っ!」
言葉なんて、もう追いつかなかった。考えるより先に、体が動いていた。
私は、そのまま思い切りカナタに抱きついた。
肩に顔を埋めると、カナタの体温が一気に伝わってくる。温かくて、しっかりしていて、少しだけ骨張った感触。
近過ぎるほど近い鼓動が、安心を連れてくるのに——それが逆に、涙を加速させた。
『っっ!?』
チョーカーから、驚きに詰まった声が漏れる。
それでも、次の瞬間には慌てた腕が私の体を受け止めていた。
ぐらりとした私の体が、逃げ場のないほどしっかりと支えられる。不安定だった心まで、同時に抱き留められた気がした。
『……えっと……莉愛?』
いつもの、機械混じりの落ち着いた声。それだけで、胸の奥に溜まっていた熱が、じわりと広がる。
言わなきゃ。
伝えなきゃ。
あの日も、ずっと私に寄り添ってくれた人に。
「カナタ……ありがとう……」
『!』
声にした瞬間、胸の奥が甘く震えた。
私の気持ちを理解したのか、カナタの腕が僅かに動く。
背中に添えられた手の平が、優しく、そっと叩かれた。
その仕草が、言葉よりも雄弁に伝えてくる。
——受け取ったよ、と。
『莉愛が頑張ったんだよ。僕は、少し手伝っただけ』
あまりに真っ直ぐで、当たり前みたいに言うから、思わず涙の残るまま、笑ってしまった。
カナタらしい。
いつだって、自分のことは後回しで、私を肯定してくれる。
——その優しさに、私は何度も救われてきた。
だから、もう一度だけ、ちゃんと伝えたかった。
私はカナタの肩に預けていた顔を、ゆっくりと上げる。
視線が重なった、その瞬間。冷たさと温かさが同時に宿るカナタの目が、真っ直ぐに私を捉えていた。
深い色を帯びたその瞳は、いつものように優しい。
それでいて、どこか——私の奥まで見透かしているみたい。
「それでも……ありがとう」
感謝を重ねると、カナタの目尻が、ふっと下がった。
口元が見えなくても、今、カナタが微笑んでいるのが分かる。
『……どういたしまして』
たったそれだけの言葉なのに、
胸の奥に、じんわりと、温かく染み渡っていった。
「……ふふっ」
気付けば、自然と頬が緩んでいた。
カナタが、私の「ありがとう」を確かに受け取ってくれたこと。それだけで、心の中に小さな灯が——またひとつ、静かに灯った気がした。
「ねぇねぇ、三人共っ! 私たち、すごいんだよっ!」
詩乃ちゃんが弾む声で叫ぶと、拓斗の腕をグイッと引っ張り掲示板の方へと勢いよく走って行った。
「分かった分かったって……」
口ではそう言いながらも、拓斗は抵抗せずに詩乃ちゃんに引かれていく。もう詩乃ちゃんの性格を分かってきたのかもしれない。
その様子を、私とカナタと晶くんの三人で見守っていた。
「……二人の邪魔をしたくないけど、人が見てるしそろそろ行こっかぁ」
晶くんの穏やかな声に、私はハッとして周囲を見渡す。掲示板の前ほどではないけど、いつの間にか私たちの周りにも小さな人集りができつつあった。
(っっ!? 見られてる!?)
慌てて抱きついていた手をパッと離す。温もりが一瞬で遠ざかり、急に冷たい空気が腕に触れた。
「ごごごご、ごめんねっ、カナタっ! つい気持ちが昂っちゃってっ!」
思わず早口で謝ってしまう。顔が熱くて、耳まで真っ赤になってる気がする。
『……ううん、大丈夫だよ』
カナタは落ち着いた声でそう答えると、抱きつかれた拍子に落とした羽織を拾い、何事もなかったように魔械掲示板の方へ歩いて行く。
その後ろ姿を見つめながら、胸に手を当てて変に高鳴る鼓動を必死に抑え込もうとした。
すると——晶くんが不意に、私の耳元に顔を近付けて囁いた。
「莉愛ちゃん、莉愛ちゃん」
「ん? なぁに?」
小さな笑みを含んだ声。素直に問い返すと、晶くんは笑いを堪えるような表情のまま続けた。
「カナタの耳、見てごらん」
「……耳?」
思わず首を傾げる。晶くんはコクリと頷いたが、その頬は笑いを堪えきれずに僅かに震えていた。
私は言われるままに、カナタの耳へ視線を移す。髪に隠れてはっきりとは見えないけど——
窓から入った風に小さく靡いた髪からチラリと覗いたその耳は、火がついたみたいに真っ赤だった。
「っ!」
息が止まり、思わず晶くんの方を見る。晶くんはもう堪えきれず、ニヤニヤと笑いながら囁いた。
「カナタ、めっちゃ照れてるでしょっ……」
言葉に合わせて小さく笑う晶くん。その声に釣られて、胸の奥が急にくすぐったくなる。
もう一度カナタの背中を見る。真っ直ぐ歩いて行くその姿は、いつもの冷静さそのものなのに、耳だけが赤くて。
(カナタが、照れてる)
私が抱きついたから? それとも、みんなの前だったから? 理由は分からない。でも——
その照れが伝染したみたいに、胸の奥がくすぐったくなる。気付けば私まで頬が熱くなっていた。
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