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18

 重厚な扉に手をかけると、ギィ、と低い音を立てて開いた。途端に外のざわめきがスッと遠ざかり、代わりに静かな空気が押し寄せてくる。


 中は想像以上に広かった。高い天井まで伸びる本棚が規則正しく並んでいて、そのひとつひとつが圧倒的な存在感を放っている。


 緑の教会の図書室とは違って、この図書棟には意外なほど多くの生徒がいた。だけど誰一人として無駄な声を上げることなく、それぞれが真剣に本にかじりついている。


 ページを捲る小さな音や、ペン先が紙を走る微かな響きだけが静けさを縫うように散らばっていた。人の数は多いはずなのに、不思議なくらい心地いい静かさだった。


(すごい。これだけ人がいるのに、こんなに静かなんだ)


 思わず息を潜める。足音ひとつすら場を乱してしまいそうで、背筋が自然と伸びた。


 見上げれば、木の梯子と目的の高さまで運んでくれる魔械(マギア)の梯子がいくつも取り付けられ、本棚を自由に昇り降りできるようになっていた。


「……すごい……」


 思わず声が漏れる。呼吸すら整えたくなるほどの静謐さと本の匂いに包まれて、鼓動が少しだけ早まって体がそわそわする。


 だけど隣のカナタは、落ち着いた様子でゆっくりと歩き出していた。まるでこの光景にもう慣れているかのように。


『どの辺りだったっけなぁ……』


 何気なく言うその言葉に、私はまた心を掴まれる。気付けばカナタの横顔を見つめて、視線を追って本棚に移した。


「私、こんなにたくさんの本を見るの、初めて……どこから見たらいいのか、迷っちゃうね」


 自分の声が小さく響いて、すぐに静寂に溶けていく。


 カナタはどうやら目当ての本があるらしく、本棚をなぞるように視線を流していた。その合間にチラリとこちらを振り返り、私がついて来ているかを確かめる。


 その仕草が妙に丁寧で、置いていかれる不安を抱かせないところが、らしいなと思わせる。


 すると——


『!』


 カナタの目がパッと見開かれた。次の瞬間、音もなく梯子を登り、棚の上段から一冊の本を取り出す。


 その手付きは獲物を見つけた研究者みたいに確信に満ちていて、思わず見惚れてしまった。


 慣れた手付きで降りてきたカナタの手元には、直線を組み合わせただけの不思議な模様が表紙に刻まれた本があった。


「……これ、何の本?」


 囁くように尋ねると、カナタは答えずにそっとページを開く。そこに広がったのは——


「! ……迷路の本?」


 私の言葉に、カナタは静かに頷いた。中には幾何学模様のように複雑な迷路がいくつも描かれていて、思わずページを覗き込んでしまう。


 やがてカナタは本をパタンと閉じ、迷いなく歩き出した。慌てて小走りで後を追う。図書棟の静けさの中、離れてしまうのがなぜだかとても怖くて、距離を詰めずにはいられなかった。


 辿り着いた先にあったのは、大きな箱型の魔械(マギア)機器だった。カナタは迷路のページをペラペラ捲り、目的のページを開いたまま魔械(マギア)機器の上部の蓋を持ち上げる。その中には一面の鏡が広がっている。


 次の瞬間、カナタは迷路のページをその鏡にピタリと合わせるように置き、蓋を閉じた。


「そっ、そんなことして大丈夫っ!?」


 思わず小声で詰め寄る。本をそんな置き方をしたら、すぐに司書に怒られるに決まってる。背表紙が痛んでしまうかもしれないのに。


 だけどカナタは私の心配をよそに、小さく、だけどはっきりと頷いた。その眼差しは確信に満ちていて、何もかも計算済みだと言わんばかりだった。


(どうしてそんなに迷いがないの?)


 胸の奥に小さな不安と、そして同時にカナタへの信頼がじわりと広がっていった。


 カナタは迷いなく魔械(マギア)機器のボタンを何度か押した。無機質な機械音が響き、しばらく待つと本を挟んだ隙間から柔らかな光がじわじわと漏れ出してきた。


(何これ?)


 胸が高鳴る。まるで秘密の仕掛けを覗き込んでいるようで、声を出すのさえ(はば)かられる。


 光が落ち着くと、カナタはまた蓋を開けて本を捲り同じように置いて蓋を閉める。そんな動作を何回か繰り返した。


 やがて魔械(マギア)機器の横から紙が吐き出されていたようで、そこには五枚の紙があった。カナタはそれを集めると、当たり前のように私に差し出した。


「えっ……これ、私に?」


 問いかけても、カナタはただ静かに頷くだけだった。


 そしてカナタは本を取り出し、また梯子を登り元の本棚へと戻していった。その所作はとても慎重で、誰にも気付かれないように、痕跡を残さないようにしているみたいだった。


 戻ってきたカナタは、言葉ひとつ発さず図書棟の扉を指差し、吊り目気味の瞳が私を捉える。


(もう行こう、ってこと?)


 その無言のサインに、少しドキドキしながら私は小さく頷いてカナタの後をついて行った。


 重厚な扉を押し開けた瞬間、冷んやりとした空気がまた頬を撫でる。図書棟特有の静けさから解放されたようで、肩の力が少し抜けた。


『それじゃあ……教室に行こうか』


 唐突に言葉を発したカナタに、私は少し驚いた。だけどその声音はいつもの機械混じりだったけど、不思議と柔らかくてどこか安心させる響きがあった。


「うん、分かった」


 自分でも驚くくらい落ち着いた声が出て、少しだけ胸を張る。二人並んで渡り廊下を歩く足音が、冷たい空気の中に小さく響いた。


 そして鏡の前に立ちそれぞれ義手とマスクを鳴らすと、合図もなしに二人同時にその中へ飛び込んだ。


(何が始まるんだろう)


 胸の奥にざわめく期待と不安を抱えたまま、鏡の向こうへと身を委ねた。

 鏡の先は見慣れた景色だった。いつもの階段の踊り場。階段を登った先には教室の並ぶ廊下。


 今の時間は六時間目。双輪試走の準備の時間だから、教室には人影も(まば)らで、廊下もひっそりと静まり返っていた。


 私たちは足並みを揃えて歩き、教室に入る。カナタは迷うことなく私の席に向かい、その後ろの玲央くんの椅子を引き寄せると、私の椅子と向き合うように机の横に置いて腰を下ろした。


 その自然さに、まるで最初からそう決めていたみたいに思えて、胸が少し高鳴った。


 私はその後に続いて自分の席に腰を下ろし、机の上にさっき受け取った五枚の紙をそっと並べた。


 白い紙に描かれた複雑な線が、不意に現実感を帯びて見えて、思わず息を呑む。


「……迷路の本なんてあったんだね」


 呟くと、カナタは足を組んで紙を一枚手に取り、静かに目を細めた。


『ね。僕もここで初めて見たよ』


 カナタは私の机で頬杖をつきながら、淡々とした言葉で答えた。でもその横顔は、少し楽しげに見えた。


 私も紙に視線を落とす。そこに描かれた迷路は、どこか双輪試走のコースに似て複雑で細かい作りをしていて、胸の奥がざわりとした。


『莉愛は、迷路自体は苦手なの?』


 その声に顔を上げると、カナタは視線だけ私に向けながら、何気ないようでいて真剣に問いかけてきていた。


「ん〜……どうなんだろう……」


 言葉に詰まる。迷路だけを落ち着いて取り組んだことなんて、これまでなかった。得意かどうかなんて考えたことすらなかった。


 その迷いを見透かしたように、カナタは小さく頷いた。


『うん、だと思って印刷してみたんだけど……ちょっとペンを使って、書いてやってみてごらん』


 促される言葉に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。期待されているような気がして、少し恥ずかしい。


 だけどその期待を裏切りたくなくて、私は机の中から筆箱を取り出し、いつも授業で使っているペンを取り出した。


 紙に描かれた迷路のスタート地点に、そっとペン先を置く。黒いインクが紙を掠める感覚に、なぜか心臓が跳ねた。


 上下、左右。慎重に線を進めていく。分かれ道に差しかかる度に、深呼吸して勘を頼りにペンを滑らせる。


 ——気付けば、行き止まりにぶつかったのは、たったの二回だけだった。


 思わずペンを止めて顔を上げると、隣で見守っていたカナタが、ふっと小さく頷いた。


『うん、別に苦手じゃなさそうだね』


 その言葉に胸がくすぐったくなる。だけどすぐに、弱気な自分が顔を出す。


「ん……でも、偶然かもしれないし……」


 誤魔化すように呟いて、次の迷路を手に取る。するとカナタは何も言わずに、私の手元をジッと見つめてくれていた。


 その静かな眼差しに背中を押されるような気がして、私はまたペン先を紙へと走らせる。


 二枚目、三枚目。行き止まりに当たったのは一度きり。四枚目、五枚目になると、迷いなくゴールへ辿り着いてしまった。


 ペンを置いた瞬間、手の平がじんわりと汗ばんでいることに気付く。信じられなかった。


(私、ミスしないでゴールできるんだ)


 思わず胸の奥でそう呟く。今まで「自分は向いていない」と決めつけていたものを、静かに塗り替えるような感覚。ノーミスで辿り着いたゴールの線が、何よりもその証明に思えて、心臓がまだ速く打っていた。



ここまで読んでくださりありがとうございます。もし少しでも面白いと思っていただけたら、感想や評価で応援していただけると嬉しいです。

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