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「ラン様って、七賢者の中でも本当に姿を見せない方だよね」
京司先輩が、ふと思い出したようにそう言った。
「俺たち、四歳の時に一度だけお目にかかったらしいんだけど……さすがに覚えてなくてさ」
そう言いながら京司先輩は少し首を傾げて、記憶を探るような仕草をした。その間に隣にいた京香副寮長がふわりと口を開いた。
「一応、噂だけどね。『従者』がいらっしゃらないからだって言われてるの。情報としては、まあまあ有力みたいよ」
「……従者?」
詩乃ちゃんが反応すると、京司先輩が頷いた。
「そう。賢者の側近っていうか……お世話したり、護衛したり。実際は、仕事の補佐もする秘書みたいな役割が多いらしいんだけどね」
“従者”———
それぞれの賢者の“色”に合わせて、“◯色の従者”と呼ばれている存在。私も、お父さんから名前だけは聞いたことがある。
でも……ラン様には、従者がいない。
もしかしたら、他の賢者たちよりも危ない場面に関わることが多くて、だから簡単に護衛なんて就けられないのか……
もしくは、従者の護衛がいないから表に出られないのか……
あるいは、護衛が必要ないくらい自分の力で全部こなせてしまうからなのか……
私は、何となく胸の奥が冷んやりとするような不思議な感覚を覚えた。
藍の賢者。ラン様——
きっと、私たちがまだ知らない“何か”を、その背中にたくさん背負っている人なんだ——
「えっ、でも……ラン様って、授業の先生で来てくれるんですよね?」
芽依ちゃんが、小首を傾げながら尋ねる。
すると、京香副寮長は頷いた後、ほんの少しだけ声の調子を下げて言った。
「他の賢者の方々は、学園に来て、実際に教壇に立ってくださるよ。でも……ラン様だけは別。いつも『向こう側』からの授業になるの」
「向こう側……?」
私たちが思わず同じように首を傾げると、京司先輩が軽く笑った。
「って言っても、ただの遠隔授業だよ。画面越しってこと。でもね、それでも空気が変わるんだ。言葉にし辛いけど……教室の空気がふっと静かになるというか」
「「へぇ〜……」」
私たちは声を揃えたけど、どこか腑に落ちない気持ちが残った。
ただ画面の向こうにいるのに、空気が変わるって……。
私はふと、目を閉じたくなった。ラン様という人物の輪郭が、返って曖昧になっていくような不思議な感覚。
姿を見せない。従者もいない。
だけど遠くからでもその存在を届けられる。
存在しているのに、確かにそこにいるのに、触れようとした瞬間、ふっと消えてしまいそうな……。
そんな、夢の端っこにいるみたいな存在。
——まるで、現実に溶けた幻のような人。
その存在の輪郭が曖昧である程に、逆にこっちの意識は深く惹かれてしまう……。
私は、ぼんやりと考えていた。
遠くにいるのに、言葉が届いてくる。
姿は見えないのに、心に残るものがある。
(言葉って、届き方で全然違うんだなぁ)
ふと、胸の奥が静かに震えた。
さっきの演劇でも感じた“言葉じゃない何か”が、今自分の中でかすかに共鳴した。
——ねぇ、カナタ。
私は、胸の奥にそっと語りかける。
声には出していない。でも、その名前を心に浮かべた瞬間、不思議と意識の奥がふわりと揺れた。
(今なら、届く気がする)
ただ、話したかった。
言葉じゃなくて、“気持ち”で。
さっきまでの不思議な話や、あの演劇の余韻が、心のどこかを静かに開いてくれたような気がしていた。
私は、詩乃ちゃんに声をかけようとしたけど、楽しそうにみんなと話し込んでいた。
(勝手にいなくなるのは、ダメだよね)
迷いながら周りを見渡すと、ふと京香副寮長と目が合った。その視線に、私は少しだけ勇気をもらって、京香副寮長まで歩く。そして、小さく声を落として耳元で伝えた。
「すみません、少しだけ席を外してもいいですか……?」
京香副寮長は、すぐに私の顔を覗き込んだ。
「あらっ、体調でも悪いの?」
その声に、私は慌てて首を横に振る。
「あ、いえっ……ちょっとだけ、他の寮の子と……菊理で話したくなって……」
伝えながら、自分で言った言葉に少しだけ顔が熱くなる。何だか、少し照れくさかった。
京香副寮長は、私の言葉にふっと安心したような微笑みを浮かべた。
「そう? それならよかったっ。もう玄関扉は閉めちゃってるけど……中庭なら静かだし、お話しするにはちょうどいい場所だよ」
その声には、どこか見守るような優しさが滲んでいた。
「そうなんですねっ。ありがとうございます、行ってきます」
私は軽く頭を下げてお礼を言うと、目立たないように気を付けながら、大広間をそっと後にした。
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一階に降りて、私は中庭へ続く入口を探して歩き出す。
ロビーを抜けて食堂を通り過ぎたその先、談話室に出るとガラス張りの景色の向こうに中庭が広がっていた。
夜の闇に包まれたその空間の中心に、立派な梅の木が静かに立っていた。
昼前にエレベーターホールから眺めたものと違って、魔法で淡く光る花弁が、まるで空気の中で浮かんでいるように見える。花一つ一つが、そっと光を灯しているようで辺りは幻想的な雰囲気に包まれていた。
中庭へ続くガラスの扉をそっと開いた。すると、ふわりと鼻先をかすめたのは、梅の花の優しい香りだった。ほんの少し冷たい夜の空気と一緒に流れてきて、思わず深呼吸したくなる。
私は辺りを見渡しながらゆっくりと歩いて、中庭の片隅に置かれていたベンチに腰を下ろす。
木の優しい温もりと、アイアンでできた猫足の装飾。可愛らしさの中に、どこか落ち着く雰囲気があるベンチだった。
私は、胸元にかかる菊理をそっと外す。
手の平に乗せて、魔法石を二回タップして静かに目を閉じる。さっきのように、カナタのことを心の中でゆっくりと思い浮かべた。
二度目の呼びかけ。それなのに、胸の奥がまたざわついてくる。
何だろう、落ち着かない。だけど嫌な感じじゃなかった。
そしてそっと、カナタの名前を呟いた。
(今度は出てくれるかな? 歓迎会で忙しいかな?)
ドキドキしながら、菊理の魔法石が強く光り出すのを待つ。
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(ん〜、やっぱり忙しいか)
さっき程は待っていないけど、それでもふっと溜息を漏らしてしまうくらいの時間が過ぎていた。
(忙しいのに、ずっと呼び出してるのは悪いな)
そう思って、菊理の通信を切ろうとしたその時——
[——莉愛っ!]
「へぁっ!?」
魔法石が強く光ったと同時に、カナタの機械混じりの声が菊理から聞こえて来た。思わず肩を跳ねさせて、間の抜けた声が口から溢れる。
「び、びっくりしたぁ……」
[あっ、ごめん。話せる場所まで走ってたから、つい勢いで……]
菊理の向こうから、少し息を切らせたカナタの声が返ってくる。
「あ……そうだったんだ。わざわざ出てくれたんだ。……ごめんね。歓迎会の最中だったでしょ?」
少し申し訳なさそうに問いかけると、通信の向こうから、ふっと安堵したような声が返ってきた。
[もう終わるところだったから、平気だよ]
カナタの声は、息を切らせながらもどこか楽しげで、聞いているうちに、私の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。
「……あの、……昼間にも私、連絡しちゃってたんだけど、忙しかった?」
小さな声でそう尋ねると、ほんの少し間を置いてカナタが答えた。
[えっと…………うん、ちょっとだけ、忙しかった……かな]
(やっぱり、忙しかったんだ)
胸の奥がキュッとなった。申し訳なさが募って、思わず言葉が出る。
「ごめんなさい。しつこくしちゃって……」
するとすぐに、カナタの声が慌てたように跳ねた。
[えっ、いや、違うよ! 全然迷惑じゃなかったし……連絡、嬉しかった。ありがとう]
その言葉に、胸のキュッとした痛みがそっと解けていくのを感じた。
私は、抑えていた気持ちが溢れるように、ぽつぽつと話した。
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