猫と和解せよ 7
「どうして猫を殺したの?」
朝、笈川真咲が下駄箱を開けたら、その紙が置かれていた。反応を窺っている生徒たちの気配も感じる。
「……」
真咲の肩越しに長い腕が伸びて、真咲より先に紙をつまみ上げた。
陽向だ。
これ以上悪意のあるいたずらがないのを確認し、陽向はその紙切れを握りつぶした。
「確認しておきたいんだ」
スラックスのポケットに紙切れを突っ込み、陽向が言った。
「おれはピエロになる気はないんだ。だからこれだけは知っておきたいんだ」
「あなたが殺したわけじゃないよね、あの猫を」
しかし、陽向が言おうとした言葉を先に口にした生徒がいる。
真咲を挟んで片方に陽向。
そしてもう片方に、大きなセルフレームメガネに長い髪の生徒。笈川真咲も背は低い方じゃないが、長身のふたりに挟まれて圧迫感がある。あっと真咲は思った。陽向も思った。
この子、ドライフードの子!
こいつ、7不思議の理科棟から見下ろしていた生徒!
「確認だよ」
セルフレームメガネの生徒が言った。
「笈川真咲、あなたを助けろと私の裕美がご所望だ。私は裕美が願うことならなんでも聞くんだ。だけどもし猫を殺したのがあなたなら、私はむしろあなたをぶちのめす」
そういえばこの生徒は忍者刀のように背中に鉄パイプを背負っている。なんなの、この子。戸惑いながらも真咲には不思議な既視感がある。
「あなた、だれ」
真咲が言った。
「おまえ、だれだよ」
裕美の名前を出され、陽向も警戒している。
「一年三組、森岡祥子」
えええっ!
「さあ、答えるんだ、笈川真咲。毒餌を置いてあの猫を殺したのあなた?」
「違う」
真咲の言葉に、にいっと森岡祥子が笑った。
「よろしい。それでは張りきってあなたを護るとする。なあ、陽向!」
「待てよ、だから、おまえ誰なんだよ!」
「おいおい、こんなに近くで見ても私が誰だかまだわからないのか? ファーストキスの相手を忘れるなんてひどいじゃないか、陽向」
「はあ!?」
のちに陽向は思った。
やっぱり剣道を続けておくべきだった。そうであれば、こんな無様なことにはならなかったろう。
森岡祥子は両手で陽向の顔をつかんだ。
そして唇を押しつけてきたのだ。陽向の唇に。
陽向は森岡祥子を突き飛ばした。
朝の生徒玄関だ。人が多い。さきほどまでは不穏な空気だったのが、今は別方向に噴き上がっている。
ぺろり、と森岡祥子は唇を舐めた。
「どうだ思い出したか、陽向!」
陽向は崩れ落ちた。
「その様子だと、おまえ、まだ二度目のキスだな! 喜べ! 私もこれが二度目のキスだ!」
そして森岡祥子は高笑いを上げたのだった。
ねえ、私はいったいどこにいったの。
笈川真咲は思った。
「一年三組の南野陽向が、朝の昇降口で濃厚なラブシーンを演じたらしい!」
「ほんとにキスしたらしい!」
「見たかったー!」
「見たかったー!」
桜吹雪の中にたたずんでいるのは、夢キス事件の工藤志津子さんだ。
夢にさえ、出てきてくれないのに……。
夢ですら、キスしてくれないのに……。
あなたは他の人とキスしたのですね……人前で……堂々と……朝から……。私、あなたの物語の中で、踊る侍女や魚どころか珊瑚にもなれませんか……。
さみしげな笑顔に涙が光っている。
「太刀川ー!」
太刀川先輩の二年生の教室に飛び込んできたのは例によって生徒会長だ。
「泣くなよー、太刀川ーー!」
「なんです、生徒会長」
「気をしっかりもてよー、太刀川ーー!」
「だから、なんなんです」
「知らないのか。今朝、生徒玄関で南野陽向がキスしたらしいぞ」
太刀川先輩は動きを止めたが、それ以上の動揺は見えない。
「おっ、さすが県指折りの剣士だねー。乱れないなー」
「授業が始まりますよ、生徒会長。受験生でしょう」
「その気の強さがまたかわいいんだよなー。ま、昼休みは生徒会室に来い。私の情報網が相手の事を調べ上げているだろうさ。じゃあな、太刀川ー」
鼻歌交じりで生徒会長は教室を出て行った。
平然としているようには見える。
それでも実際には激しく衝撃を受けている太刀川先輩だ。
「陽向が……キスを……?」
ギュッと唇を噛んでしまう。
当然、フェスティバルは一年三組も巻き込んでいる。
担任の藤森先生も朝のホームルームの間じゅうニタニタとご機嫌だったし、よそのクラスからわざわざのぞきに来ている生徒も出入り口にあふれている。
陽向は頭を抱えて机に突っ伏している。
オカメインコ高橋さんはおびえて近寄ってこない。来るわけがない。ちらと顔を合わせた委員長林原さんの視線は、なんとなく軽蔑するような感じだった気がする。
そして裕美は。
「陽向ちゃん。ひとりで先に登校しちゃったと思えば、朝からご活躍だったようですね」
裕美はどうなのかわからない。突っ伏しているので表情を確認できない。先ほどから陽向の机の前に立っているのはわかっているのだけど。
「あのさ……裕美」
「なんでしょう、色男」
「裕美は覚えている……?」
「なにをでしょう、色男」
「鏡屋敷の冒険」と、陽向が言った。
裕美の返事がない。
陽向は顔を上げた。裕美の顔が輝いている。
「思い出したんですね、陽向ちゃん!」
裕美が言った。
「しょうこさんを!」
いたんだ。
裕美が机で呼びかけた相手は。想像上の友達とかじゃなかったんだ。
しょうこ――森岡祥子。
小学生の頃だったと思う。夏だったと思う。突然現れた変な子。
「私は森岡祥子だ!」
「裕美! おまえを私の嫁にしてやる!」
「馬鹿だな、陽向! 喜べ、おまえも私の嫁だ!」
「おまえ初めてのキスだな、陽向! 喜べ、私も初めてだ!」
わあああああ!
うわああああ!
「実はですね、陽向ちゃん。しょうこさんは学校に来ているんですよ。なぜ裕美さんにそれがわかるかはナイショですけど」
ごめん。
それに関しては裕美の勘違い。そのしょうこはおれなんです。
「ちょっと心配だったんですよね。もしかしたら陽向ちゃんは、しょうこさんを忘れちゃったのかなって。リアクションがいつも微妙でしたから」
忘れてました。
ていうか、あいつのこと名前で呼んだことなかったじゃないか。「野球帽の子」とか「高笑い」とか。裕美だってそうだったろ。
「ていうかですね、陽向ちゃん。陽向ちゃんはごまかそうとしていますね」
「……」
「しょうこさんの話題でごまかそうとしていますね。朝に生徒玄関でキスしたって相手はだれですか。うふふ。裕美さんにはこっそり教えなさい」
その森岡祥子だってばあああーーーー!!!!
私を守るとか言っていた陽向は朝以来顔を見せない。
あのドライフード女もだ。
なにがなんだかわからない。
体育のあと、制服の胸ポケットに入れていた生徒手帳までがない。今はとりあえずそれが気になる。
「笈川さん、あの……」
更衣室からは最後に出たつもりだったのに、あとを追いかけてきた子がいる。ああ、どこにも要素がないよっちゃんて子だ。
「ごめんなさい。笈川さんの言うとおり、私があの子たちを引き取っていればこんなことにならなかったのに……」
お人好しだな、この子。
そんなことを言うために私を待っていたのか。
「笈川さんに迷惑をかけちゃうこともなかったのに……」
「ねえ」
真咲が言った。
「私と話していると、あなたも私の仲間だとみなされるよ」
ビクリと、よっちゃんは体を震わせた。
「そんなわけがないと思う? あなたは猫を殺された当事者なのにって思う? 人を悪者にしたいときは、どんな理不尽だって通っちゃうのよ」
もう一度「ごめんなさい」とだけ言って、よっちゃんは小走りで離れていった。
ねえ、おまえたち。
どうしてそう思った?
くすっと、真咲の唇に浮かんだのは微笑だ。
私が殴り返さないなんて、なんで思った?
残念でした。
私は怒っています。おまえたちに復讐します。覚悟しなさい。
真咲は楽しそうに歩きはじめた。
■登場人物
佐々木裕美 (ささき ゆみ)
県立五十嵐浜高校一年三組。小動物。安楽椅子探偵。
南野陽向 (みなみの ひなた)
県立五十嵐浜高校一年三組。態度はふてぶてしいがかわいいものが好き。裕美の保護者。
藤森真実先生 (ふじもり まさみ)
県立五十嵐浜高校教師。二八歳独身。
美芳千春先生 (みよし ちはる)
保健室の先生。藤森先生の友達。
森岡祥子 (もりおか しょうこ)
裕美や陽向のクラスメートなのだが、一度も登校してこない。そして裕美と陽向にとっては知っている名前でもあるらしい。謎の存在。
林原詩織 (はやしばら しおり)
一年三組暫定委員長。裕美や陽向と同じ中学出身。中学時代には成績トップだった。
高橋菜々緖 (たかはし ななお)
裕美や陽向と同じ中学出身。本を読むのが好きでおとなしかったのだが…。
笈川真咲 (おいかわ まさき)
裕美や陽向と同じ中学出身。華やかで美人で、ヒエラルキーのトップに君臨した女王。
太刀川琴絵 (たちかわ ことえ)
五十嵐浜高二年生。中学生の頃から県大会常連の剣士。生徒会副会長だが立候補した覚えはない。
田崎真佐子 (たさき まさこ)
一年六組。真咲と同じクラス。あだ名がよっちゃん。
リコ
中学校時代の笈川真咲の取り巻きの一人。
工藤志津子 (くどう しづこ)
裕美や陽向と同じ一年三組。「夢キス」事件の書き込みをした人。
龍馬
太刀川先輩の飼い犬。柴犬。道端に落ちていた毒の餌を食べて死亡した。
南野太陽 (みなみの たいよう)
陽向の兄。ハンサムだが変人。
林原伊織 (はやしばら いおり)
林原詩織の兄。ハンサムだが変人でシスコン。




