9.ミレイナ、アリスタ国へ戻る(1)
ひとり暮らしの生活は気ままなものだ。
朝、小鳥のさえずりで目を覚ましたミレイナは、まず井戸の水をくみに行った。
バケツいっぱいの水を持って家の前に着くと、台所に置いてある籠の中から、先日収穫したばかりの土付きのラングール人参を手に取る。
それをゴシゴシと洗って、皮をむいてからスープの中にジャカイモや玉ねぎと一緒に投入した。
「今日は晴れているから、魔法石を採りに行こうかなー」
元気に声を上げて窓から外を眺める。
雲ひとつない蒼穹は、まるであの事件があった日のようだ。
ミレイナは籠を持って一時間ほど歩き、アリスタ国の国境付近にある草原へと向かった。
長年の勘で周囲を見渡すと場所に当たりをつけ、屈んでその場を掘り始めた。地面に埋まっている魔法石を探しているのだ。
「見つけた」
今日も順調に魔法石を探し当て、五個目の魔法石を見つけたところで不意に地面に影が映る。バサリと羽ばたく音が聞こえてミレイナはハッと上空を見上げた。
(なんだ。鳥か……)
大空には、二羽の鳥が悠然と飛んでいた。ラングール国からアリスタ国のほうへ渡ってくる渡り鳥だ。
(私ったら、何を期待しているのかしら。おかしいわね)
ミレイナはゆるゆると首を振ると、視線を移動させる。
そこに見覚えのある草を見つけ、草の根元を丁寧に掘り起こす。ラングール人参だ。
「帰ったら、おやつにしようかな」
ミレイナはそれを魔法石の入っている籠に入れると、また元きた道を辿って自宅へと戻っていった。
誰もいない自宅はシーンと静まりかえっている。
元気よく「ただいま!」と呼び掛けたが、当然返事はない。
持っていた籠をテーブルに置き、井戸の水で今日見つけた魔法石を綺麗に洗う。泥の落ちた魔法石は虹色に鈍く光っていた。この大きさであれば、それなりの額で売れるだろう。
全ての魔法石を洗い終えたミレイナはそれを丁寧に拭くと、次に収穫してきたラングール人参を洗った。
包丁で皮をむいてスティック状にすると、何も付けずに一口囓った。
「うん、美味しい」
独特の甘みがあり、歯ごたえもよい。ミレイナの大好きな味だ。
それなのに──。
「なんとなく味気ないな……」
ミレイナははあっと息をつくと、座っていた椅子の背もたれにもたれかかった。
ジェラールに帰りたいと告げたあの日、ジェラールはひどくショックを受けたような顔をした。
それでも、ミレイナの意志を尊重してくれた。
「本当に帰るのか?」
帰国当日、何回聞かれたかわからない問いを、また聞かれる。
ミレイナは「はい」と一度だけ頷いた。
魔獣係の役目を終わり、もうこれ以上ラングール国に留まる必要はない。あの魔獣達が立派に竜人達の従獣として活躍する姿を見届けられなかったのは残念だし、せっかく仲良くなったリンダと別れるのは辛い。
けれど、ミレイナは元々アリスタ国民なので、ここにいるべきではないのだ。
「私はアリスタ国民です。元いた場所に戻ります」
「……そうか。お前が戻りたいと本気で願うなら、その願いを聞き入れよう」
ジェラールは片手を伸ばしてミレイナの頬に触れると、その肌をなぞるように指を滑らせる。空色の透き通った瞳でミレイナを真っ直ぐに見つめてきた。
「俺が連れてきてしまったから、送ってやる」
まばゆい光と共に、ジェラールの姿は一瞬にして銀竜へと変わった。ミレイナが一度だけ見た、あの美しい竜だ。
「凄い……」
ミレイナは驚き、ジェラールの姿を見上げる。
大きな体は、優に五メートル以上はある。首を大きく曲げないと顔を見ることができないほどだ。
全身が輝く白銀の鱗に覆われており、頭には立派な二本の角が生えている。そして、こちらを見つめる瞳は人間の姿のときと同じ水色だった。
(綺麗……)
ラングール国に来てからというもの、たくさんの竜の姿を見てきた。けれど、これほどまでに美しく雄々しい竜はいなかった。
ミレイナが見惚れていると、ジェラールは少し屈むような仕草をした。
「乗れ」
ジェラールの言葉に、ミレイナは驚いた。送ってくれるとは聞いていたものの、まさかジェラールに乗って送ってもらえるとは思っていなかった。てっきり初めての日と同じように、ゴーランの背に乗るのだと思っていたのだ。
「陛下に乗ることなど、恐れ多くてできません」
「気にするな。ゴーランよりこちらの方が早い」
ジェラールは竜王として忙しい身だ。
そう言われてしまうと、断ることも難しい。
ミレイナはおずおずとその背によじ登り、跨がった。白銀の鱗は触る自分の体温より少しだけひんやりとして、思いのほか触り心地がよい。
「行くぞ」
返事する間もなく、体がふわりと浮くような感覚がした。そして急激に地面が遠くなり、代わりに視界が開ける。
「わぁ……」
初めて見るラングール国の空からの景色は、ただただ壮観だった。
眼下に広がる王宮を中心に扇状に広がる城下町。そして、背後にはどこまでも森が広がっている。遠方の山の稜線は遥かふもとまではっきりと見え、そこには湖が広がっていた。
「凄い。竜人の皆さんはいつもこんな景色を見ているのね……」
「いつもというわけではないな。普段から竜化するのは男だけだ。女は滅多なことでは竜化しない」
「そうなのですか?」
ミレイナは意外に思った。竜人たるもの、男女問わず竜化すると思っていたのだ。けれど、言われてみれば女性で竜化した竜人を見たことがない。
「あ、だから──」
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」
ミレイナはジェラールの背に乗ったまま首を振る。ジェラールは少し首を捻ってこちらを見たが、何もいわなかった。
いつだか、リンダが男性の背に乗せてもらうデートは竜人にとって特別なものだと言っていたのを思い出す。女性は滅多に竜化しないからこそ、二人で空からの景色を見るのはなおさら特別なものなのだろう。
(『あなたは特別な存在です』だったっけ……)
ミレイナはリンダの言葉を反芻する。
たしか、背中は無防備なのでそこに乗せるということは特別な愛のメッセージがあると言っていた。
(陛下もいつか、愛した人をこうやって乗せるのかな)
今ミレイナが乗せてもらったのは、ただ単に時間の制約の問題だ。けれど、ジェラールも愛する人をこうやって背に乗せて飛ぶ日がくるのだろう。
(気になる女性がいるって聞いたし、きっとすぐね)
ジェラールが愛する人と結ばれる。
とてもめでたいことなのに、ミレイナは胸に痛みを感じて視線を伏せる。けれど、またすぐに顔を上げて辺りを見渡した。
いつの間にか、遥か前方には町が見えていた。アリスタ国だ。
ミレイナは背後を振り返る。どこまでも続く森の向こうに、小さくラングール国の王宮が見える。
もう二度と見ることがないであろう景色を、しっかりと目に焼き付けた。




