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時間差勇者  作者: 稲荷竜
3章 異世界生活一回目
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75話 時系列不明

 何もない空中に、穴が開いていた。


 その穴はどうやら俺にしか見えないものらしい。どんなに歩いても、どれほど速く走っても、一定の距離でついてきて、視界の隅にちらつき続ける。


 穴の先は真っ暗闇で、最初のころは、そんなものが常に見えている場所にちらついていることがストレスでたまらなかった。


 そんなものに、ふと『手を入れてみよう』だなんて思ってしまったのは、多分、俺が疲れ果てていたからだと思う。


 異世界転移をした。


 混乱した。恐慌した。それでもって、希望した。


 俺はもともといた世界に自分の居場所なんかないと感じていたんだ。


 親しい相手だって、一人もいなかったし――


 自分になんらかの才覚があったとして、それを発見するのも、それを伸ばすのも、それを認めさせるのも、何より、自分で認めるのが、面倒で面倒でたまらなかった。


 俺はありのままでいたかった。

 ただ、俺が俺であるだけで、認められたかった、のだろう。


 だから世界が変わってくれたことを前向きに捉えられた。この世界ならきっと、俺が当たり前のようにできることだけで、評価をしてもらえると思った。つまらない人生が楽しくなるものだと、そういう夢を見た。


 夢でしかなかった。


 俺は元の世界で俺を守ってくれていたたくさんのものの存在に今さら気づかされる羽目になる。

 両親。学校。親戚。社会制度。

 戸籍、身分、ある程度の金銭。


 何ひとつ『自分』と『生命』を保証してくれるもののない世界に立たされて、どうにか命をひどく削りつつも糊口をしのぐ職業を見つけて、あくせく必死に働いて、どうにか自分を生かせるだけの収入を得る。


 俺は特別な存在でもなんでもなかった。

 本気でやらなければ死ぬような状況に充実感などあるはずもない。

 生きるだけで精一杯の俺には夢を見る余裕もなくって、精神はすり減って、死ぬことさえ考えられない。


 どうやら俺は、この世界の一番最底辺に組み込まれてしまったようだった。


 明日死ぬかもしれないし、死んだって誰も気にしない。


「父さん、母さん……」


 うざったいとしか思っていなかった両親のことを、毎日のように思い出す。

 木製のタコ部屋で、他の冒険者のいびきを聞きながら、乏しい財産を抱きしめるようにして、臭くて薄いブランケットで体を包む。


 限界だった。


 何もかもがくすんで薄汚れていく。比喩ではなく世界が色あせていくような感覚があった。景色の明度が落ちている。気分の暗さがそのまま視界に現れているようだった。


 そんな中で、例の穴が、やけに、きらめいて見えた。


 誘われるように手を伸ばせば、肘から先が穴の中に消える。


 その瞬間に、理解した。


 これは、アイテムストレージだ。


 この穴の中には都合のいいことしかなかった。収めたものは腐らないし古びない。容量は少ないが、様々な拡張性を秘めていることを確信した。


 それからというもの、希望を抱いて生きることができるようになった。


 魔石掘りの重労働の間も、抱いた夢を描きながら過ごせば辛くはない。


 ある日のことだ。


 俺はアイテムストレージの容量を十分に拡張できたと確信すると、その中に、自分ごと入った。


 そこは空腹もなく疲れもない理想の場所なのだ。


 ただいるだけで生存が保証される楽園なのだ。


 危険な重労働とも、必死にかき集めた乏しい貯金を奪う相部屋の連中とも、俺たちの仕事をピンハネする偉そうな市民階級とも、これでおさらばできる。


 俺は、何にもなりたくなかった。

 俺は、何もしたくなかった。

 でも死にたくはなかった。ここで死ぬのは環境に負けたみたいで悔しいし、自分で自分の命を断つほどの勇気もない。

 考えてしまうのは『もし、死ぬつもりだったのに、生きながらえてしまったら?』だ。高い場所から飛び降りて、生きながらえてしまったら。胸を刃物で突いて、生きながらえてしまったら。

 半端に死ねなかったら、そこからの人生は、死ぬより辛く苦しいのではないか。


 イヤな想像ばかりしてしまう悪癖があった。俺には何をしてもうまくいかないような未来予想図がフッと頭に浮かんでしまう余計な機能が搭載されている。


 ……それは、本当に、くだらない妄想でしかなくって。


 俺は『情報をきちんと正しく収集・整理して、それをもとに推論を練る』という、本当の想像力を持っていなかった。


 くだらない、都合の悪い妄想から逃げて、都合のいい妄想にすがった。


 俺はアイテムストレージへの入り方を間違えた。


 つまりはそれが、全部の始まりだった。

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