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2  蝶使いの少女と少年戦士  ②

 留衣がコハク鏡の前に立つと、アメ色の板に彼女自身の姿がうつる。

 となりに立つエルメリア。

 それ以外は、何も見えない。


 ふいに映像が消え、白い雲のようなものがわき立った。

 視界が真っ白になるにつれ、声にならない叫びが頭にひびく。


「白いものが見える。苦しんでるみたい」

「病に苦しむアシュタリエンの姿かしら。わたしにも時々見えるけど。ふーん」


「何、ふーんって。リッシアのオークは病気なの?」

「コハク鏡から映像を読みとるのは、訓練された神官しかできないはずなんだけど。そう、オークは病気よ。案内するわ。来て」


 エルメリアの後について階段をのぼり、ほら穴のような出口から出ると、神殿の最奥の部屋だった。

 振り返ると壁から木のコブが突き出し、下にぽっかりと穴があいている。

 その穴から、留衣たちは出て来たのである。


「ここは、リッシアでただ一つの魔界への出入り口なの。ふだんは神官たちが厳重に管理してるんだけど、今はちょっと時期が悪くて――――」


 口ごもるエルメリアに連れられ、白い石を積み上げた神殿から外に出ると、見たことのない世界が広がっていた。

 はかなげな水色の空。うす紫にたなびく雲。色とりどりの薔薇が咲き乱れる大地。

 エルメリアが、優雅におじぎをして言う。


「リッシアへ、ようこそ」

「あ、はい。おじゃましてます」


 留衣は、驚きの目でその場をぐるりと回った。

 神殿は水色の空を背景に白いギリシャ神殿のようにそびえ、おびただしい数の色あざやかな蝶が、見わたす限りの薔薇から薔薇へと渡っていく。


「蝶が、いっぱいいる」

「花蜜を集める使役蝶よ」


 太陽は西にかたむき、午後の風が葉ずれの音をかなでながら、薔薇の濃厚な香りを運んでくる。

 花々の向こうに見覚えのある樹木が立ち、あれがアシュタリエンなのかと胸をおどらせた。

 亜門邸にあるオークよりも大きく立派だが、やはり葉が少ない。

 

 木もれ日が裸の枝からこぼれ落ち、幹を白く照らしている。

 その白さにハッとして、留衣は幹に歩み寄り、目を近づけた。

 祖父がけずり取っていた、木に寄生する白カビに似ている。

 

 幹だけでなく根も白いものにおおわれ、地面までが白っぽい。

 白い部分に手を触れると、カビではないとわかった。

 氷だ。地下世界の根と同じく、アシュタリエンが凍りついている。


「この国で『白呪はくじゅ』と呼ばれる病気よ」


 エルメリアがため息まじりに言い、留衣は祖父から聞いたオークの森の話を思い出した。

 はるかな昔、妖精が人間界を離れこの世界にやって来た時、広大なオークの森があったという。

 妖精の先祖はオークの森で暮らし、やがて森を出て新しい国を作るようになった。


 この世界では、オークのない土地で植物は生育しない。

 オークの根のおよぶ範囲内でのみ植物が育つという、不思議な世界である。


 オークはさし木では根がつかず、種から苗木を作って育てる。

 実がなり種がとれるのは百年に一度で、待てなかった新国家は森のオークを植え替え、国土を広げた。


 森は小さくなり、森に住む妖精と新国家との間でいざこざが起こる。

 奇妙なことに植え替えられたオークは実をつけず、森のオークに実がなる頃には苗木を作るための種をめぐって、戦争さえ起こるようになった。


 心ある者は妖精郷へと旅立ち、残った妖精は戦争を続け、その間に森のオークは『白呪』にかかり、すべて枯れてしまったという。


 オークの種――――ドングリのことだ。


(おじいちゃんは、ドングリから苗木を作りたがってたっけ……)


 しかし、果たせなかった。

 亜門邸のオークは、一度も実をつけなかったのだ。


「こちらのオークに付いてるのはカビではなくて、氷なんだね」


 留衣が言うと、エルメリアは顔をしかめた。


「そう、氷よ。とうとうアシュタリエンまでが、『白呪』にかかって凍りついてしまったのよ。大昔から、この病気には治療法がないと言われているわ。しかも今ではオークだけでなく、妖精の間でも病気が――――。くわしい話は、王宮で聞くといいわ。わたしも一緒に行くから。蝶に乗ったことある?」


 いきなり尋ねられ、留衣は目をぱちくりさせた。


「蝶を乗り物だと思ったことがないんだけど」

「今から思ってね」


 エルメリアは緑の皮袋に手を突っ込み、植物の茎で作られた草笛を取り出して吹いた。

 鈴が鳴るような音色が薔薇におおわれた大地にひびき渡り、視界のすみを大きな白い蝶がよぎる。


 羽音と共に、人の身長の三倍ほどありそうな真っ白な蝶が堂々とした姿で下りて来て、留衣はぼう然とした。

 純白の羽から、金色に輝くりん粉が舞い落ちる。

 雪のような触角をくるりと回し、蝶は黒一色の目を留衣に向けた。


(きれい――――)


 目の前にいる巨大な生き物は、姿は蝶だが虫には見えず、怖ろしいほど美しい。

 白い氷から彫り出された彫刻のようだ。


「シェーラ。王宮までわたし達を運んでね」


 エルメリアが言うと、シェーラの純白の唇が優雅に動き、言葉をつむいだ。


「承知しました、エルメリア様」

「チョウチョが、しゃべってる……」


 留衣は口をあんぐりと開け、あわてて閉じた。

 シェーラの触角が、ぴくりと跳ねる。


「私たち王室蝶を、人間界の蝶のような下等生物と一緒になさいませんように」

「言葉に気をつけてね、留衣。シェーラは誇り高き王室蝶なんだから。わたしが、そう育てたんだけど」

「育てた……羽化前の状態から?」

「当然でしょ」


 ほこらしげなエルメリアの横顔を、留衣はまじまじと見た。

 蝶の羽化前といったら――――。


 こんな巨大な蝶の羽化前はどんな怪物だと想像する留衣の心中を察することなく、エルメリアは足を折りたたんだシェーラの背によじのぼる。


「手を出して。引き上げてあげる。そのチビちゃんについては、ティリアン王子に聞いてみるから、連れて行っていいわよ」


 意外にも蝶はフエルトのような優しい手ざわりで、さわやかなレモンの香りがした。


 首輪をつかむとシェーラはゆっくりと飛翔し、花の香りのする風に吹かれ、広大な花園をおもわせるリッシアの上空を飛んだ。



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