塗れ衣
文乃の退職や婚約者の話は、サナトリウムで瞬く間に広がっていった。
「鈴木さん、おめでとうございます!」
「素敵な方なんですってね」
「どんな人なの? 教えてよ」
休憩室に入ると、何人もの同僚が文乃を取り囲んだ。文乃は愛想笑いを浮かべながら、当たり障りのない返事をする。
「ありがとうございます。でも、まだ正式には……」
「もう事務長が知ってるんだから、正式も何もないわよ!」
「年上の方なんですってね。落ち着いた紳士的な方なのかしら」
「お金持ちだって聞いたわよ。黒塗りの車で迎えに来たんですって」
噂は尾ひれがついて、どんどん膨らんでいく。文乃は笑顔を保つのに必死だった。そんな相手ではないけれど、だからといって詳細を知られたくない。不幸だと思われたくなかった。
「幸せになってね、文乃さん」
長澤婦長が優しく文乃の肩を叩いた。文乃は感謝の言葉を返したが、胸がつかえた。もちろん、全員が祝福ムードだったわけではない。
ある日、文乃が廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえてきた。
「結局、顔がいいだけよね」
聞き覚えのある声だった。文乃は足を止める。
「そうよ。男に取り入るのが上手なのよ、あの子」
「C病棟から来たばかりなのに、もう辞めるなんて。最初から腰掛けのつもりだったんじゃないの」
「お金持ちと結婚できるなんて、羨ましいわよねぇ」
声には明らかに皮肉が込められていた。
「でも、本当にあの子、何も盗んでないのかしら」
「さあ。前から怪しいと思ってたのよね」
「美人だからって、疑われないと思ってるんじゃない?」
文乃は息をのんだ。自分が盗難犯だと疑われている。そんな声が聞こえてきて、足がすくんだ。
静かにその場を離れようとしたが、床がきしんだ。
「あら、誰かいる?」
慌てて歩き出したが、背中に視線を感じた。振り返ると、数人の看護婦が文乃を見ていた。彼女たちの顔には、明らかな敵意があった。
その日から、文乃の周りの空気が変わった。
休憩室に入ると、会話が途切れる。文乃が近づくと、わざとらしく話題を変える。すれ違いざまに、聞こえよがしに嫌味を言われることもあった。
「いいわよね。すぐに辞められて」
「私たちは、ずっとここで働かなきゃいけないのに」
「お金持ちと結婚できる人は違うわね」
文乃は耐えた。あと少しで、ここを出られる。そう自分に言い聞かせた。
しかし、事態は思わぬ方向へと動いた。
ある日の午後、文乃が薬品棚の整理をしていると、横田看護婦が近づいてきた。
「文乃さん、ちょっといい?」
横田は文乃に忠告してくれた先輩だ。文乃は笑顔で振り返った。
「はい、何でしょうか」
「あのね……」
横田は周りを気にしながら、声を潜めた。
「気をつけたほうがいいわよ。あなたのこと、よく思ってない人たちがいるの」
「え?」
「あなたが退職するって聞いて、面白くないみたい。特に、ずっとここで働いてる人たちは……」
横田の言葉に、文乃は胸が締め付けられた。
「私、何か悪いことしましたか?」
「いいえ、あなたは何も悪くない。ただ……妬みよ。あなたは若くて綺麗で、お金持ちと結婚する。それが許せない人たちがいるの」
横田はため息をついた。
「本当に気をつけてね。何かあったら、すぐに私に言って」
「……はい。ありがとうございます」
文乃は感謝したが、不安が募った。
そして数日後、事件が起きた。
文乃が休憩室に入ると、数人の看護婦が険しい顔で待っていた。
「鈴木さん、ちょっといいかしら」
先輩の看護婦が、腕組みをして文乃を見据えた。
「はい、何でしょうか」
文乃は嫌な予感がした。
「あなた、懐中時計を盗んだ?」
突然の質問に、文乃は目を見開いた。
「はい?」
「とぼけないで。奥森様の懐中時計よ。金の鎖がついた高価なものだったわ」
「いえ! 私は何も」
「やっぱりあなただったのね。奥森様の懐中時計を盗んだ犯人」
先輩の看護婦は、確信に満ちた目で文乃を見た。
「いえ! 違います! 私は盗んでいません!」
文乃は必死で否定したが、周りの看護婦たちの目は冷たかった。
「さっき、はいって言ったじゃない」
「え? それは、何でしょうかって意味で」
「はいってさっき言ったでしょ! 自分で認めたじゃない!」
完全な言いがかりだった。悪魔の証明を押し付けられ、文乃は窮地に立たされた。
「そんな違います。私は何も盗んでいません」
「じゃあ証拠は? 盗んでいない証拠を出しなさいよ」
「そんな証拠、あるわけがないじゃないですか!」
文乃もかっとなって言い返した。これは罠だ。最初から結論ありきで、自分を犯人に仕立て上げようとしている。
「あなたね、そんな態度だから疑われるのよ」
別の看護婦が口を挟んだ。
「だいたいあなたは生意気なのよ。いっつもすましていい子ちゃんなふりをしているから悪いの」
「……それって、八つ当たりですか?」
文乃の言葉に、看護婦の顔が歪んだ。
「違うわよ。正当な怒りよ。犯罪者に対するね」
「私は犯罪者なんかじゃありません!」
「証拠がないなら、犯人じゃないって証明もできないわよね」
堂々巡りだった。文乃は唇を噛んだ。
その時、休憩室のドアが開いた。松田婦長が数人の看護婦を連れて入ってきた。
「どうしたの? 騒がしいわね」
婦長の登場に、先輩の看護婦が勢い込んで説明した。
「婦長、大変なんです。文乃さんが奥森様の懐中時計を盗んだんです!」
「え?」
婦長は驚いて文乃を見た。
「違います! 私は何も……」
「さっき自白しました! 私たちみんな聞きました!」
「そうです! はいって言いました!」
次々と声が上がる。文乃は青ざめた。
「文乃さん、これは本当なの?」
婦長の問いかけに、文乃は首を振った。
「違います。私は何も盗んでいません。はいと言ったのは、はい、何でしょうかという意味で……」
「言い訳はいいわよ。とにかく、私たちは文乃さんが自白したのを聞いたんです」
先輩の看護婦が断言した。周りの看護婦たちも頷く。
婦長は困った顔をした。
「でも、証拠は? 実際に盗んだところを見た人は?」
「証拠なら、文乃さん自身がはいと認めたことです」
「それは誤解で……」
文乃の弁明は、もう誰の耳にも届かなかった。
結局、この騒ぎは事務長の耳にも入り、文乃は呼び出された。
「鈴木さん、これはどういうことかね」
事務長の厳しい目に、文乃は震えた。
「私は何も盗んでいません。誤解なんです」
「しかし、複数の証言があるんだ。君が自白したと」
「それは言葉の行き違いです」
「しばらく、謹慎してもらおう」
事務長の言葉に、文乃は愕然とした。
「でも、私は」
「真偽はともかく、騒ぎを起こしたことは事実だ。反省の意味も込めて、一週間の謹慎処分とする」
文乃は何も言えなかった。言葉を失い、ただ頭を下げるしかなかった。
寮に戻る道すがら、文乃は涙をこらえた。濡れ衣だ。完全な濡れ衣。でも、誰も信じてくれない。文乃は、自分の部屋に閉じこもり、一人で泣いた。
「とんでもないことをしでかしてくれたな」
阿部は不機嫌そうに葉巻を吸った。
いつもの料亭の奥座敷。文乃は阿部の正面に座り、俯いていた。謹慎処分が解けて最初の土曜日。文乃は憂鬱だった。きっと阿部も、周りと同じように自分を疑っているのだろう。
「私は盗んでなんかいません」
答えながら、文乃は深い失望に包まれていた。心のどこかで、この人は私の味方だと思っていた。あれだけ強引に、理不尽に、自分を手に入れた男。でも、もしかしたら、この人だけは無条件で自分を信じてくれるのではないか。そんな淡い期待があった。
結局この人も私を信じてくれないんだ。
文乃の目から、涙がこぼれそうになった。歯を食いしばって堪える。泣いたら負けだ。ここで泣いたら、本当に惨めになる。
「……そうだろうな」
阿部の言葉に、文乃は顔を上げた。
「え?」
聞き間違いだろうか。文乃は目を瞬かせた。
「お前は物を盗むような人間じゃない」
阿部は淡々と言った。葉巻の煙をゆっくりと吐き出す。
「本当に……そう思ってくださるんですか?」
文乃の声が震えた。
「ああ」
阿部は短く答えた。その目には、揺るぎない確信があった。
「でも、さっきとんでもないことって……」
文乃は混乱していた。阿部は眉をひそめた。
「お前は物を盗むような人間じゃないことはよくわかっている。とんでもないことというのは、問題を起こしたことだ」
「い、意味が分かりません」
文乃は呆然とつぶやいた。阿部はため息をついた。
「お前を嫁にもらうことを、反対している親族もいる」
阿部は葉巻を灰皿に置いた。
「特に、母方の親戚どもだ。連中は、俺が若い娘を囲うことに反対している」
「……」
「お前が看護婦として真面目に働いている。それが、連中を黙らせる材料だったんだ」
文乃は初めて知った。阿部が、自分のために動いていたことを。
「でも、謹慎処分を受けた。たとえ濡れ衣でも、その事実は消えない」
「そんな……」
「その馬鹿どもに付け入る隙を与えたんだ。お前は抜けている」
阿部の言葉は厳しかったが、文乃を責めているわけではないことが分かった。むしろ、困っているようだった。
「そんなの、不可抗力です。私は何も……」
「わかっている」
阿部が遮った。
「わかっているが、面倒だろ」
そう言って、阿部は文乃を抱き寄せた。文乃は驚いて身を固くする。
「あの……」
「じっとしていろ」
阿部の腕の中で、文乃は戸惑っていた。いつもなら、こうして抱き寄せられた後は、夜の行為が始まる。でも今日は違った。阿部はただ、文乃を抱きしめているだけだった。
「なぜ、ですか?」
文乃は小さく聞いた。
「なぜとは?」
「あなたは今まで自分の好きな通りしてきたのでしょう? 周りがどう思おうと、気にしなかったのでは……」
文乃の問いに、阿部は少し考えてから答えた。
「俺だけでなく、周りからもお前を受け入れてもらいたいだろう」
「え?」
「俺の今までの根回しを水の泡にするなよ」
至極当たり前のように言われた言葉に、文乃は困惑した。
私を受け入れる?
文乃は阿部の顔を見上げた。阿部は相変わらず無表情だったが、目だけは文乃を見つめていた。
私はそんなこと望んでない。望んでいないのに、なぜこんなに心はざわつくの?
文乃の胸に、複雑な感情が渦巻いた。
「あなたは……私のために、そんなことを?」
「当たり前だ」
阿部は簡単に言った。
「お前は、俺の女になる。それなら、周りにも認めさせなければならない」
「でも……」
「お前は、俺に売られたと思っているだろう」
阿部の言葉に、文乃は息をのんだ。図星だった。
「違うのか?」
「……そう思っていました」
文乃は正直に答えた。阿部は苦笑した。
「半分は当たっている。だが、お前の父が俺に頼んだのは事実だ。俺が無理やり金を貸したわけじゃない」
「それは……」
「それに、俺はお前を妾にするつもりはない。正式に嫁にもらう」
阿部は文乃の頭に手を置いた。
「だから、周りにも認めてもらう必要がある。お前が盗人だという噂が立てば、それは困るんだ」
阿部の言葉を聞いて、文乃は複雑な気持ちになった。
少しだけ嬉しいと思ってしまった。自分を無条件に信じてくれたこと。それから、周りに認めさせるために動いてくれていたこと。
この男は何なの?
阿部は文乃を強引に奪った。犯した。でも同時に、文乃のために動いている。矛盾しているようで、でも確かに、この男は文乃のことを考えている。
「あなたは……優しいんですね」
文乃は思わずつぶやいた。阿部は眉をひそめた。
「優しい? 俺が?」
「はい」
「お前、頭を打ったか?」
阿部は本気で心配そうに文乃の額に手を当てた。文乃はくすっと笑った。
「笑うな。真面目に聞いているんだ」
「ごめんなさい。でも、あなたは優しいと思います」
「……馬鹿なことを言うな」
阿部は居心地悪そうに視線を逸らした。その様子が、なぜか可笑しくて、文乃はまた笑った。
「本当に、どうしたんだ?」
「いえ、何でもありません」
文乃は首を振った。抱き寄せられ、胸に顔をうずめられる。阿部の心臓の音が聞こえた。規則正しく、力強い鼓動。
文乃はおずおずと、阿部の髪に指をからめた。振りほどかれるかと思ったが、阿部は何も言わなかった。
きつく、隙間がないように埋まった体。恋人同士ではないはずなのに、親密な時間が流れる。
「ありがとうございます」
文乃は小さく呟いた。
「何がだ」
「信じてくださって」
「……当たり前だ」
阿部は素っ気なく答えた。でもその声は、いつもより少しだけ優しかった。
しばらく沈黙が続いた。文乃は阿部の腕の中で、不思議な安心感を覚えていた。この男の腕の中なら、世界中を敵に回しても大丈夫な気がした。
「なあ、文乃」
阿部が口を開いた。
「はい」
「あやは、酒が飲めなかった」
突然の話題転換に、文乃は目を瞬かせた。
「洋酒入りのチョコレートもダメで真っ赤になったが、お前は父親に似たのか?」
阿部が文乃を見下ろす。文乃は少し考えた。
「父は下戸なので、母方の祖父だと思います」
「下戸の杜氏か!」
阿部は短く笑った。珍しく声を出して笑う阿部を見て、文乃は少し驚いた。
「あやにチョコレートを渡したら、倒れてしまって大騒ぎになってな。あやの父から怒鳴られた」
珍しくやわらかな口調で話す阿部を、文乃は静かに見つめた。
文乃には全くなじみのない母親の話。この男は、母のことをこんなに覚えているのだ。
「お母さんのこと、好きだったんですね」
文乃の言葉に、阿部は目を伏せた。
「……ああ」
短い答えだったが、そこには深い感情が込められていた。
「私はお母さんの代わりじゃないんですよね?」
文乃は確認するように聞いた。阿部は文乃を見た。
「お前は、お前だ」
阿部は断言した。
「彩乃に似ている。でも、お前は彩乃じゃない。俺が欲しいのは、お前だ」
その言葉に、文乃の胸が熱くなった。
私を見てくれている。母の面影ではなく、私自身を。
文乃は、初めて阿部に対して素直な感謝の気持ちを抱いた。
「なんでそんな浮かない顔をしているんだい?」
直樹がワゴンを押す文乃に声をかけた。
文乃は謹慎が解けてから一週間。仕事に復帰したものの、周囲の視線が痛かった。盗難犯として疑われたことは、すぐには消えない。廊下をすれ違うたびに、ひそひそと囁く声が聞こえる。休憩室に入ると、会話が止まる。
それでも文乃は、いつもの笑顔を保とうとしていた。誰にも弱みを見せたくなかった。
「あら、そうでしたか?」
文乃はとっさに笑顔を作ってごまかす。口角を上げ、目を細める。完璧な、作り物の笑顔。
が、声をかけたのが直樹だと気づいて、少し困った顔になった。
この男は、他の患者とは違う。妙に観察眼が鋭い。文乃の嘘を見抜く目を持っている。
「そうかな。鏡を見てみるといい」
直樹は文乃の顔をじっと見つめた。
「いつもの笑顔じゃないよ。目が笑っていない」
「そんなことありません」
文乃は否定したが、声に力がなかった。
「無理してるだろ」
直樹はワゴンの脇に立ち、文乃の進路を塞いだ。
「あの、どいてください。仕事中なんです」
「ちょっとだけでいい。話を聞かせてよ」
「患者さんが待っていますから」
文乃は冷たく言い放った。直樹から距離を取ろうとワゴンを押すが、直樹が金具を押さえる。
「ねえ、何があったの?」
真剣な目で聞かれ、文乃は動揺した。
「何も……ありません」
「嘘だ」
直樹は断言した。
「ここ一週間、君を見てた。笑顔が硬い。歩き方も違う。何かに怯えているみたいだ」
「そんな……」
「周りの看護婦たちの態度も変わった。君を避けている。何かあったんだろ?」
直樹の観察力に、文乃は驚いた。この男は、こんなに自分のことを見ていたのか。
「ちょっと、疲れているだけです」
文乃は苦笑した。
「患者さんも疲れないように休んでくださいね」
話を逸らそうとするが、直樹は食い下がった。
「疲れてるだけじゃないだろ。傷ついてる」
「……」
「誰かに何か言われたのか? それとも、婚約者との関係がうまくいってないのか?」
ずけずけと踏み込んでくる直樹に、文乃は苛立ちを覚えた。
「あなたに関係ないことです」
「関係あるよ」
直樹は即答した。
「僕は君のことが好きだ。君が傷ついてるのを見るのは辛い」
「やめてください。そういうこと、軽々しく言わないで」
文乃の声が強くなった。
「軽々しく? 本気だよ」
「本気なら、もっと……」
文乃は言葉を飲み込んだ。言ってはいけない。この男に心を許してはいけない。
「もっと?」
直樹が首を傾げる。
「何でもありません」
文乃はワゴンを引いた。今度は直樹も離してくれた。
「ちょっと待って」
背中に声がかかる。
「本当ですよ。許可なく外出はしないでくださいね」
文乃は振り返らずに言った。
「昨日大変だったんですから」
「あれは僕じゃないだろ」
直樹の声に、少し笑いが混じった。
昨日、新しく入所してきた患者が行方不明になる騒ぎがあった。看護師や職員総出で深夜まで探した。心を病んだ患者で、議員の愛人の娘だそうだ。たびたび自殺未遂を起こしているらしい。結核の罹患が発覚し、精神病院から移動したばかりだった。
文乃は謹慎中だったが、人手不足で捜索に駆り出された。そのまま、なし崩し的に謹慎が解かれた形になった。
「病院から病院へ。檻から檻へ。そりゃあ小鳥は空を飛びたくなるだろう」
直樹の言葉に、文乃は足を止めた。
「……知っているんですね」
文乃は振り返った。患者は崖下で発見された。ついに完遂してしまったのだ。
「ああ。可哀想に」
直樹は目を伏せた。
「誰も彼女を救えなかった。病気も、心も」
「……」
「ねえ、ふみちゃん」
直樹が文乃を見た。
「きみは? 大丈夫か?」
真剣な顔で聞かれ、文乃は目を瞬かせた。
「わかりません」
思わず本音が出た。文乃は慌てて口を押さえた。
「わからない、か」
直樹は少し笑った。
「正直でいいね。無理に大丈夫だって言わなくて」
「……」
「息抜きに二回目のデートをしない?」
直樹の提案に、文乃は首を振った。
「それは、出来ません」
「なんで? 健全だっただろ?」
「ええ。でも婚約者がいますから」
この時、初めて文乃は阿部のことを婚約者と認めた。声に出してしまうとなんだか妙に実感があった。
婚約者。私には、婚約者がいる。この男ではなく、阿部が。
「でも幸せには見えないけど?」
直樹の言葉が、文乃の胸に刺さった。
「それは……」
どう答えていいのか、文乃にはわからなかった。
幸せ? 私は幸せなのだろうか?
阿部は文乃を信じてくれた。周りに認めさせるために動いてくれている。でも、それは幸せと呼べるものなのか?
「きみは今まで自分で何かを選んだことはあった?」
直樹の問いに、文乃は息をのんだ。
「え?」
「話をしていて思ったんだ。ふみちゃん。きみはずっと我慢してきたんじゃないか?」
「私が?」
「ああ」
直樹は一歩近づいた。文乃は後ずさりする。
「こんなにかわいいんだからさ、もっと自信満々で愛されていいはずじゃないか。で、もっと高慢ちきでさ、わがままな子になるはずなんだよ」
「何ですかそれ」
文乃はぷっと吹き出した。でも、少しずつ心臓が早くなっていた。
「きみは僕の想像と全然違った」
直樹は真面目な顔で続けた。
「普通の子が普通に過ごしてきた幸せを味わってないんだろうな」
「や、止めてください」
文乃は顔を背けた。この男の言葉は、文乃の心の奥底に触れてくる。
「ねえ。きみはもっと幸せになっていいんだよ」
直樹の声が優しい。
「僕と幸せになろうよ」
「でも私は……」
あなたを好きじゃない。
その言葉を言おうとして、文乃は躊躇した。
本当に? 本当に好きじゃないの?
自分の心が分からなくなった。
「いいよそれでも」
言葉に出さなかったのに、直樹は文乃の心を正確に読み取っていた。
「それでもいい。きみが選んで。自分が一番幸せになる方法をさ」
「私が……」
文乃は呟いた。
そんな資格があるのか。そもそも、このまま阿部と一緒になることが私の幸せじゃないのか。
「本当に幸せだったら、そんな顔はしていない」
直樹は文乃の肩に手を置いた。
「心に従ってさ。自分で決めるんだ」
直樹の言葉は、甘い毒のようだった。
「考えておいて」
そう言って、直樹は去っていった。
文乃はその場に立ち尽くした。
心に従う。自分で決める。
そんなこと、今までしたことがあっただろうか。
いつも、誰かに決められてきた。親戚の家に預けられたのも、看護学校に行ったのも、阿部の妻になるのも。
全部、自分の意志ではなかった。
「私は……」
文乃は自分の手を見つめた。
「私は、何がしたいんだろう」
答えは出なかった。ただ、胸の奥がざわついていた。




