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檻の中の鳥

「逃がすか。バカな女だ。ここまで来たんだ。もう逃げられないのはお前もわかっているだろう?」

 声には嘲笑がこもっていた。そのまま抱きすくめられて身動きがとれない。文乃がもがいても覆いかぶされびくともしない。

「お願いします……い、いやです。どうか……」

 恐怖が胸をせり上がる。大きな声を出そうとしたのに、か細いような声しか出ない。

「どうか、なんだ?」

 阿部の動きが止まった。文乃はそこに希望を見た。

「お願いします! 父の借金は何としてでも返します。ですからどうかっ! どうか、このまま何もしないでください……」

 聞いて届けてくれるかわからないが、文乃は必死で訴える。

「は」

 返ってきたのは乾いた笑いだった。

「は、ははははは!」

 笑いは大きく、嘲笑となる。阿部は片手で目を覆い、のけぞりながら笑い続けた。思った反応と違い、文乃は戸惑う。

「あの、」

 それきり文乃は言葉を紡げない。阿部はひとしきり笑った後、冷たい目で文乃を見据えた。

「何でもするんだろ? それが今だ。お・ま・えが、たった今、何でもするって言ったんだ。その言葉を守るんだな」

「ち、ちがい……」

「何が違う?」

 文乃の反論を阿部が遮る。

「脱げよ」

 阿部が短く命じた。文乃はびくっと震えた。阿部は目を細めて、繰り返す。

「脱げ。自分から服を脱ぐんだ」

 文乃は固まったまま、動けない。阿部は文乃のブラウスに手をかけ、胸元のボタンを長い指先でなぞる。

「ここまで来ておいて、俺から逃げられると本気で思っていたのか?」

 奇妙に優しい声だった。阿部は丁寧な手つきで文乃のブラウスの左右を持つ。

「おめかしが台無しだな」

 阿部はそのままブラウスを引きちぎった。

「っう!」

 胸元のボタンがはじけ飛び、文乃の淡いピンクのブラジャーがあらわになった。恐怖でガタガタと震え出した文乃に、阿部は淡々と告げる。

「自分で脱がないからだ」

 文乃の頬に涙がつたい始めた。屈辱と恐怖で、文乃は浅い息を吐く。

「最後まで俺に脱がせて欲しいのか? ボロボロの格好で寮に戻ることになるぞ」

 阿部に聞かれ、文乃はぶんぶんと首を振った。震える手で、残ったボタンに手をかける。

「そこに寝ころんで、自分から股を開け」 

 結局文乃は自分の意志で、阿部を受け入れるしかなかった。文乃の身体を這い始めた阿部の手が、首筋にかかる酒臭い吐息が、彼女を蹂躙していく。

 文乃が解放されたのは夜の明けきらぬ早朝だった。一睡もさせてもらえないまま、何度も何度も、文乃がどんなに泣き喚こうが、阿部は止めなかった。声はかれはて、体中がべたべたして痛かった。特に股の奥の、重く鈍い痛みが、自分がもう昨日の昼までの清らかな身ではないことをこれでもかと伝えてくる。文乃は一人タクシーに乗せられ、サナトリウムの入り口で降ろされた。戻って来れた。文乃はサナトリウムの門灯を見てほっと安堵した。このまま誰にも会わずに、自分の砦に籠りたい。そう思ってよろよろと歩を進める。

「ずいぶん楽しんできたようだね?」

 背中からふってきた声に、文乃はぎくりとしてその場に縫い付けられた。ゆっくりと振り向くと、直樹が居た。同じくどこかから朝帰りした直樹はジャケットがだらしなくよれている。まるで一晩床に脱ぎ散らかしてきたようだった。

「婚約者が居たのに、秘密にして男をたぶらかすのが、ふみちゃんの趣味なのかい? ああ、激しいのも好きそうだね」 

 文乃は羞恥に顔が歪んだ。抵抗したせいでお気に入りだったブラウスは破れて歪んでいたし、プリーツのスカートはしわだらけだった。それをこんな風に言われるなんて、許せなかった。直樹からは日本酒独特の饐えて甘ったるい臭いがした。情事の名残が見える浅ましい姿も同じなのに、文乃は自分だけが汚れたような気がした。

「吐き気がする。あなたみたいに自堕落で遊び人は最低よ。あなたが出歩くことで誰かに病気をうつすことが想像できないの?」

 文乃は自分の痛みを転嫁して、直樹になすりつけたかった。勝手な男は女を汚しても自分は汚れない。女は損だ。力では男に勝てず、逃げることしか出来ない。逃げ道も封じられれば出来ることはない。文乃はみじめでくやしかった。

「ははは、こりゃ手ひどく言われちゃったなぁ」

 文乃の予想に反して、直樹は楽しそうに笑った。

「は? 何で笑えるの? そもそもあなた、私が好きじゃなかったの? それなのに、違う女とそういうことをしてきたの?」

「そりゃ君もだろ。君が婚約者と出かけたと聞いて、君への未練を断ち切りに夜のお店へと繰り出したわけさ」

「そんなの不潔よ」

「そうかな? 商売として成り立つ以上、これは正当なことだよ」

「でも」

「君には関係ないだろ」

「だって、あなたは」

「婚約者が居るなら早くそうだと言えよ」

 「違う、婚約者なんかじゃない!」

「へえぇ? じゃあ君は婚約者じゃない男と寝てきたんだ?」

「違う!」

「違わないだろ。男の臭いをそんなにもぷんぷんつけて。朝までお楽しみだったくせに何言ってるんだよ」

「お楽しみなんかじゃ」

「じゃあ何だよ?」

 聞かれて答えられなかったから、文乃はごまかした。

「相手に結核をうつしたらどうするつもり?」

「君が心配することじゃない。娑婆には無症状の患者も居るんだ。どこで感染するか分からないし、運が悪かっただけだ。むしろ商売女を辞められて助かるだろ。死が救いになる」

「最低!」

「誉め言葉をどうも。激しいセックスが好きならぜひ僕と試してみるかい?」

「あ、あ、あんたなんか死んじゃえ!」

 文乃は直樹の頬をひっぱたいた。そのまま痛む身体を無理やり奮い立たせ、走り去った。自室に戻り、布団にくるまって文乃は泣いた。いつの間にか寝てしまって、起きたのは昼頃だった。恐る恐る部屋を出ようとすると体のあちこちが痛い。ふと部屋のドアの隙間から紙片が差し入れられているのを見つけた。紙片には、「婚約者の方より本日は休ませて欲しいと連絡を受けています。寝ていて大丈夫よ」と婦長からの走り書きがあった。「追伸、素敵な方ね!」という文字を見て、文乃は思わず紙片をびりびりと破いた。のろのろと布団へ戻ると、身体の痛みと臭いが気になった。汚れたままの体だったことを後悔する。この場所は、この部屋全部が昨日までは自分の宝物だった。布団も清潔で良い匂いがしていたのに、自分が汚してしまった。薄汚れた体のまま、使ってしまった。お風呂に入りたいし、布団も洗いたい。いいえ、いっそ自分ごとこのまま捨ててしまいたい……涙がとめどなくあふれた。

 その日以降、毎週土曜日になると阿部と会うのが文乃の強制的な日課となった。妾でなく、花嫁として、三か月後に辞めることも決まった。直樹とはあの夜以来、患者と看護師の関係に戻った。最初にあった時、文乃は看護師の立場としては、謝らなければと思っていたが、直樹は拍子抜けするほど他人行儀になって夜のことをおくびにも出さなかった。そのまま文乃は、それを受け入れ、心の奥底にあの夜のことを沈めてしまった。土曜日の夕方、阿部が直接迎えに来ることもあれば、人を寄こすこともあった。決まってどこかの料亭で食事をし、夜を共に過ごす。夜を越えるごとに、諦めに染まり、こんなものかと慣れていくことが怖かった。数時間の我慢で終わるのだし、看護師時代に習った性暴力の被害者の状態よりはずっとマシだ。自分の心はすり減っていくが、それも最初よりはマシになっていく。帰ってから布団で枕を濡らす時間が目に見えて短くなっていたし、昨日はついに泣かなかった。

 布団も結局捨てずにシーツを洗っただけだ。布団を一そろい買おうとして、金額にひるんだこともあるし、お金を節約して逃げる資金をためようかとも考えた。逃げるってどこに? あの男から逃げられる? もうすべてを暴かれて汚されたのに逃げても無駄。自暴自棄になる気持ちで、あの男との夜を思い出す。


「先生、荒れてんな」

「失恋したからか?」

「うるさい」

「冗談だろ、怒るなよ」

 直樹は荒れていた。あの夜のことが忘れらない。自分でも驚くほど、文乃に心を惹かれていて、文乃の様子がショックだった。どう見ても、望んで事に及んだわけじゃない。それは直樹もわかっていた。それでもああいう軽口を叩いたのは、文乃が自分以外の男に抱かれたという事実が、途方もなく面白くなかったからだ。


「聞いているのか?」

「え? あ、なんでしょうか」

 肩を掴まれ、文乃は目を瞬かせる。阿部の言葉をずっとぼんやりと聞き流していた。

「来週で退職してもらうと言ったんだ」

「来月では?」

「予定が早まった」

「でも、引き継ぎとか、片づけとか」

「話は通してある。片づけは必要ない。全て新しいものを買い与えるから捨てていけ」

「そんな」

 文乃は言葉を飲み込み、言い返すのを止めた。どうせ自分の意見など何一つ叶わないのだから。それでも自分の部屋に戻り、ほっとするのと同時に涙がこぼれた。一つ一つ自分で買った宝物だ。安いものばかりだが、愛着がある。でも、こんな汚れた自分には似合わないものなのかもしれない。何度目かの夜を阿部と過ごした後で、文乃は痛みよりもただ行為が終わったことへの安堵を覚えた。その時はそれ以上何とも思わなかったのだが、次の夜に自分の体が阿部を受け入れて、痛みなく行為が終わった後に、のろのろとでも身支度を整えられた時、ふと気づいてしまったのだ。この関係を受け入れている自分の姿に。痛みはなかった。さらに次の夜、文乃が行為の前に自分の股に手をやると、湿り気を帯びていた。そんな気がしたのだ。これから行われる行為の準備を自分の体がしている。体を許しているからだろうか? 文乃は混乱した。そしてその日の夜、自分が快楽を拾い始めたことに、さらに驚いた。

「女の体になってきたな」

 口数の少ない阿部が、ポツリと漏らした。薄い唇を片側に歪ませ、酷薄な笑みを浮かべている。言い返そうとして、深く突かれて文乃は言葉を飲み込む。そのままリズミカルに突き上げられると、自然と嬌声が漏れそうになった。絶対に声を出さない、そう決めて文乃は歯を食いしばったのだ。今だって泣きながらも、自分の荷物を捨てることを受け入れてしまっている。どうにでもなれ、そんな諦めの気持ちでいっぱいだった。


 仕事中、文乃は直樹から物陰に引っ張り込まれた。ぐらりと体がかしぎ、文乃はめまいがし、自分が倒れるところなのかと思った。次の瞬間、直樹の顔が眼前に迫っていて、自分が抱き寄せられ、直樹の腕の中にいることが分かった。

「……ちょっと何をするんですか!」

 文乃は驚いて目を瞬かせ、何とか腕の中から出ようともがく。が、びくともしない。

「本当に幸せなのか?」

「え?」

「辛そうに見える」

 直樹は、文乃の様子をずっと見ていた。周りから祝福され、笑顔で返す文乃。普段通りに振舞っているから、ほとんど誰も気づかないが、直樹は文乃の強がりが見えていた。

「私は幸せですよ」

 にっこりと微笑んで見せたが、直樹は顔をゆがめた。

「笑顔が嘘くさいんだよ」 

「は?」

「心から笑ってないだろ。わかるんだよ」

 文乃は、阿部から外堀を埋められた後、幸せな花嫁として振舞っていた。阿部から言われたわけではない。せめてもの矜持だった。どうせこの職場から離れて、地元に帰れば二度と会うことのない人たちだ。この人たちの中だけでも、不幸になりたくない。かわいそうな自分だと思われたくなかった。

 「そ、それはあなたに関係のないことです! 放してください!」

「もうすぐ辞めるんだって?」

「だからあなたに関係ないって言ってますよね?」

「俺にしたら?」

「は?」

「優良物件だと思うけど」

「何を言って……!」

「少なくとも激しくしても痛くはしない……っつつ!!」

 文乃は思い切り足をけり上げ、直樹の太もものきわどい位置に当たった。直樹は思わずといった感じで、距離を取る。

「あんたなんか! あんたなんか! 死ねばいい!」

 文乃は叫び、そのまま泣き出した。

「あんたたち男はなんなのよ! 私は、私は……」

「ごめん」

 文乃が泣いている間、直樹はおずおずと文乃の背中をさすり、落ち着くまで黙ってそばにいてくれた。少し経って、涙が乾いてきて、文乃は直樹を見つめた直樹の視線から、自分への好意を改めて感じ取れる。この男も私のことが好きなのね。私の何がいいのかしら? うぬぼれではなく、単純に疑問だった。顔か、態度か。でもこの男にはつらく当たることが多かった。それでも好きなのなら。

「あなたは私の顔が好きなの?」

 思わず聞いてしまった。

「え、いや。違う。いや、あの、そうだね」

 直樹はどもりながら真っ赤になり、小さく肯定する。

「そう」

 文乃にとってその答えは特出すべきことではなく、ただそうなんだと思っただけだった。

だが、直樹は違った。はああと大きくため息をつくと、頭を振った。

「違うんだ。最初は顔に惹かれた。可愛い子だなって。でも違うんだ」

 片手で顔を覆いながら、もう片方の手を待てというように文乃の前に突き出す。

「裏表のギャップを暴きたいんだよ」

「は?」

「じゃあ、もし、私を連れて逃げてって言ったら、逃げてくれるの?」

「ああもちろん」

「嘘つきね」

「嘘じゃないよ。本気本気」

 即答する直樹に文乃はくすっと笑った。直樹に期待するほど、直樹のことを信じてはいなかった。一時は確かに心を惹かれそうになったことはある。あの夜の暴言のことが無くても、婦長の言葉のほうがずっと信じられるし、女性を自殺未遂させて平気な男なんて対象外だった。でもそんなクズ男なら利用しても良いのかしら? あの男だって、私じゃなくて母の面影を追っているんだから。

「今度、デートしましょ。それであなたのことをもっと知りたいわ」

 流し目を送り、にっこりと微笑む。

「本当か! わかった!」

 目をぱちくりさせた後、嬉しそうに笑う直樹に少し罪悪感が刺激されたが、無視した。利用される人生よりも利用する人生が良い。文乃は自暴自棄になっていた。一人で逃げる度胸もなく、でもどうしようもなく自分自身が嫌で、自分が恥ずかしかった。

「どこに行きたい?」

「そうね、どこがいいかしら」

「映画を見て、カフェはどうかな。それから海を見て、夜はバーに行こう」

「あなた、外出しても大丈夫なの?」

 当然のように外出するつもりの直樹に、文乃は苦笑した。

「きみのためなら」

 直樹は文乃の目を見つめながら、文乃の手を取り、手の甲に恭しくキスをする。外国の俳優のようなしぐさで、文乃は自分が直樹の手を振り払わなかったことが意外だった。直樹の距離の近さが、いやではなかったし、自分を喜ばせようとする姿に新鮮な興味を感じていた。

「映画に、カフェに、バー。素敵なデートコースね」

「そうだろう」

 得意げな直樹が、若々しく感じる。阿部だったら、どうだろうか? いつもの料亭で静かに食事をする以外、自分をどこに連れて行ってくれるのか、想像もできない。

「そうそう、門限までには帰れるのかしら?」

「きみが望むなら仕方がない。最初のデートだからね」

「ふふふ」

 さっきとは打ってかわって不満そうな顔をしたが、それも面白かった。阿部とは違う。

直樹は私を尊重してくれる。若くて軽いのに、一生懸命紳士的にふるまおうとする姿は可愛くさえ思える。老舗の料亭で夕飯を食べ、当然のように夜を過ごす、阿部のただれた関係とは違う健全な関係だ。これならば大丈夫。もし阿部に見つかっても大丈夫だ。そこまで考えて、文乃は頭を振って意識の外へ追いやる。私が誰と出かけようと私の勝手でしょ。


 直樹とのデートは思ったよりもずっと楽しかった。最初こそ、申し訳なさと居心地の悪さを感じていたが、直樹は同世代で、快活で、女たらしだ。インテリで話がうまい好青年で、清潔感があり、文乃を恭しくお嬢様のように扱う。悪い気はしなかったし、冗談も面白くて、楽しくなった。思えば年の近い男性とデートするなんて初めての経験だ。二人で映画を見て、カフェに寄って、クリームソーダを飲みながらさっきの映画の話をする。普通の、年頃の女の子がする経験が、文乃にとってものすごく新鮮だった。直樹も文乃への好意を隠さず、だからと言って、強引に迫らず、紳士的な距離を保ってくれた。


「ほかの男と会うな」

 阿部にいつもより激しく抱かれた後、ポツリと呟かれた。煙草をふかしながら、無造作に封筒を投げる。畳の上に、直樹と文乃の写真が何枚か転がっていく。

「ごめんなさい。違うんですそういう関係ではなくて」

「報告は受けている」

「じゃあなぜ?」

「会った事実には変わりないだろう」

 ただでさえ表情の乏しい阿部だが、少しだけ怒りをにじませているのがわかった。

「そうですね、ごめんなさい」

 言い訳せずに素直に謝る文乃。阿部のまとう空気は相変わらずかたいままだ。しばらく居心地の悪い時間が流れ、文乃はそろそろと洋服に手を伸ばす。全裸でいることが恥ずかしかった。


「そのまま、こっちへ来い」

「え?」

「酌をしろ」

「あ、はい」

急いで着替えようとすると、阿部が

「そのままだと言っただろう」

とさらに不機嫌な声を出した。

「そのまま、って服を……」

 言葉を失う文乃を見て、阿部は頭をかきむしる。

「ああ、くそ! お前はどこまでも俺のものにならないんだな」

「え?」

「お前は俺ではなく、若い男がいいんだろう? 何度も身体を重ねているのはこの俺だぞ」

「い、いいえ」

 か細い声で反射的に答えた。阿部は食事台を倒しながら、文乃を強く抱きしめる。ころころとお銚子が転がり、酒がこぼれた。

「お前は俺のものだ」

 強く、きつく抱きしめられて、文乃は言葉が出なかった。


「来週は会えない」

  別れ際に、阿部が文乃を抱き寄せながら短く言った。心なしか残念そうな響きだったが、文乃はほっとしていた。

「そうですか。お気をつけて」

 社交辞令的に言った言葉だったし、返事は期待していなかったが、阿部はほんの少し眉をあげる。

「土産が欲しいか?」

「え、あ、はい。いえ」

 思わぬことを聞かれて文乃はあやふやに返事をした。特に欲しくはないが、聞かれたことに驚いてとっさにはいと答えてしまった。

「そうか」

 阿部は文乃の頭をくしゃっとなでる。大きな手で阿部の顔はよく見えなかったが、口元が珍しく笑っていた。

 次の会食の夜。

 文乃の体に果てた後、阿部は思い出したようにカバンを探った。文乃は阿部の背中を見ていた。歳の割には筋肉質でよく鍛えられているが、無数の生傷がある。わき腹をえぐるような深い傷もあった。この男の人生は、明るい側だけではないのだろうな。文乃はぼんやりと考える。黒い噂の絶えない男だし、強引なこともたくさんしてきたのだろう。

「ほら、土産だ」

 ポンと手のひらに乗せられたのは、小さな漆塗りの櫛だった。螺鈿で蝶の細工がしてある。

「好みがわからんから、女の好みそうなものにした」

「……あり、がとうございます」

「どうだ? 好きか?」 

 探るように聞かれ、文乃はあいまいにほほ笑んだ。

「きれいだと思います」

「そうか」

 ほんの少し、阿部の口元がゆがんだ。満足げに見えたのは気のせいだったのか。すぐにまたいつもの仏頂面に戻った。

 この男は何だろう? 

 帰り道、文乃はぼんやりと考えた。私のことを好き、というよりは執着しているように思える。定期的にあって、食事をし、抱かれる関係で、近い将来は夫婦として暮らす相手。気持ちに折り合いさえつけられれば、恵まれた境遇だ。どこか冷静な自分がそう分析していて、それも嫌だった。初めこそ乱暴だった行為も、慣れてしまえば、どうってことない。耐えられる。だからこのまま受け入れるしかない。



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