再会
「もしかして、僕の悪い噂を聞いたの?」
「え?」
直樹は文乃に不意打ちをかけた。曲がり角で強引にワゴンの前に立ちふさがる。動揺させ、自分のペースに巻き込むつもりなのだ。
「あの、どいてください。仕事中なんです」
文乃は一瞬面食らったものの、愛想笑いを浮かべてワゴンを引いた。方向転換して直樹をやり過ごすためだ。直樹は薄く笑いながらワゴンの金具を押さえる。
「なんか、先輩から言われたんじゃない? あの男と関わるなって」
「いえ、特にそんな」
「誤解なんだ」
上目遣いでへの地に眉を下げ、しおらしく見せるように。直樹は演技をした。
「え?」
「僕じゃなくて、別の人。僕は川路さんの恋人じゃない」
「あ、いえ、あの私、本当によく知りませんし、とにかく仕事中ですから」
文乃の笑顔がひきつる。
「そうだね、ごめん。ただ誤解されたままだと嫌だから」
直樹は両手を上げてワゴンから大人しく離れた。文乃はホッとしてワゴンを押す。誤解も何も私には関係ない。そう言葉に出してしまえは、きついだろうか? 文乃は自問し、何も言わないことを選んだ。
「川路さんは、僕の友人と恋仲でね。でも上手くいかなかったんだ。本当にただそれだけ。可哀想なことになったけど、相手は僕じゃないから」
直樹は文乃の背中に話しかけ続けた。文乃は無視を貫く。
「横田さんだっけ? 僕に言い寄ってくるのは彼女だよ。夫がいる身だけどね」
「先輩が?」
思わず振り返ってしまった。横田は文乃に忠告してくれた先輩の看護婦だ。まさかとは思うが、いけしゃあしゃあと打ち明け話をしてくる態度はまるで本当のことに聞こえる。
「ああ、それで僕の悪い噂を吹聴しているんだ」
困るんだよなぁというように、直樹は頭を手で押さえる。やや芝居がかった動きに文乃は警戒心を強める。
「そんな、先輩に限ってそんなことは」
「そう思うだろ? しっかりした人だけど色恋は別さ」
「そう、ですか」
理路整然と言われると、一瞬わからなくなる。だがすぐに文乃は自分を立て直した。
「ですが、いずれにしても私には関係ありませんから」
にっこりと笑顔で直樹を拒絶し、歩を早めた。直樹はそれ以上追ってくることはなく、諦めたようだった。
文乃が男性から好かれることを好まない女性看護師や、患者も多かった。美しくて目立つのはもうどうしようもないことで、控えめにしていれば清楚ぶっている。にこやかに愛想よくふるまえば、男に媚を売っている。不愛想にすれば、お高くとまっていると言われるのだ。経験則として、文乃は全ての人に好かれるのは無理だと割り切っていた。それならば、そつなくこなすしかない。多少物が無くなったり、連絡が来なかったり。その程度なら仕方がない。比較的落ち着いている今のバランスを保ちながら、文乃は目立たず、静かに過ごすことを選び続けた。陰から嫉妬の炎にさらされていると気づかないまま。文乃が小さな嫌がらせに反応しないことで、面白くないと思っている女性たちが居たのだ。一人の女性が休憩室で、文乃の悪口を言うと連帯してもりあがる。こうして悪意の種は芽吹いた。
「お高く留まっていて面白くないのよね」
「今度ちょっと懲らしめてやりましょう」
文乃のあずかり知らぬところで、文乃を陥れる計画が進められていた。
「何これ」
「誰が持ってきたのかしら?」
ある時、文乃が休憩室に入ると何やら騒がしかった。聞けばテーブルの上に、患者のものと思しき貴重品が置いてあったという。高価な鼈甲の櫛だが、文乃には見覚えがあった。たまたま文乃と一緒に休憩に入った長澤婦長も顔色を変える。
「これ、あの患者さんのよね? 一昨日亡くなった」
「ええ、C棟の安江さんのものだと思います」
安江さんはC棟の女性患者で、新人看護婦だった文乃をよく可愛がってくれた。高齢で髪が薄くなった安江さんは、もう鼈甲の櫛を挿せなかった。戦死した夫からもらったという唯一の贈り物だそうで、手元に置いて愛おし気に眺めていた。その事実を長澤婦長も文乃も知っているからこそ、顔がこわばっていく。
「誰が持ってきたのかしら? 誰か何か聞いてる?」
それでも文乃も婦長も誰かが間違って持ってきてしまったのだろうと考えた。例えば患者の衣服に入っていたまま、洗濯されてしまって、それを誰かが遺失物として休憩室に置いたのかもしれない。結局、誰も名乗り出ず、櫛は遺族へと返され、そのまま日々に忘れ去られていったものの、文乃は何とも言えない気持ち悪さを覚えた。次の事件が起こったのは、それからまた一月ほど経った頃だった。洗濯室の棚の奥に、患者の貴重品らしき、ネックレスが置いてあった。発見したのは文乃の同期の看護婦だ。彼女はすぐに婦長に知らせたが、後から文乃に内緒話をした。
「なんでこんなところにって思ったわよ。だってどう考えてもおかしいわよね」
ネックレスが見つかった棚は、普段予備の洗剤を置いておく場所だ。患者の衣類を洗濯する際に、ポケットから貴重品が見つかることは、ままある。その時に遺失物を置く専用の籠があるのだ。そこに入れず、わざわざ人目につかないところに置く。その意味は一つだろう。
「盗むつもりだったのよ!」
「そう、ですよね」
先輩の看護婦に、文乃は渋々と肯定した。ずっと明言を避けていたが、認めざるを得なかった。
「この前のネックレス、A棟の患者さんのものらしいのよね」
自分によくしてくれた安江さんのものが盗まれそうになったことにも、胸がざわついたが、続いた言葉に文乃は戦慄した。
「前はC棟、今度はA棟。どちらも詳しい看護婦って限られているのよね」
それは文乃を含めて数名のみだ。
「あなた、何か心当たりはない?」
即答できずに息をのむ。どうにか言葉をひねり出す。
「いいえ」
「そう?」
先輩の看護婦は探るような目で文乃を見た。気づくと休憩室に居たほかの看護婦たちも会話をやめ、文乃を見ていた。
「所属が決まっていても忙しいときは臨時で手伝うこともありますし、まだ盗難事件だと決まっていませんから」
笑顔で言い切ったが、少し声が震えてしまった。自分が犯人と疑われている。もちろんそれは根も葉もないことで、濡れ衣なのだが、それを証明する手段が無いのだ。とにかく隙を見せないようにしよう。文乃は笑顔を深め、心の中で決意をした。
患者の貴重品の盗難騒ぎは、それからも断続的に続いていたが、看護婦の休憩室や洗濯室から見つかることはもうなく、ある時は勘違いであったり、またある時は永遠に見つからなかったして、日々の雑事に紛れ、文乃も緊張を解いていった。相変わらず直樹からは時々ちょっかいをかけられ、そのたびに先輩の看護婦から睨まれることがあるが、その程度だ。このまま穏やかな日が続けばいいのにと願いながら、文乃は明るい空を見上げる。青い空の端に、黒い雲が急速に広がっていくのが見えた。
夕立がきそうね。不安を掻き立てるような雲の広がりに、自分の心の奥底に沈めた思い出がよみがえりそうになる。ぶるっと身震いをして、何も考えないようにしたが、ダメだ。あの日も、よく晴れていたのに夕立になった。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
無意識につぶやくと祈るように頭を下げる。謝って許されることではないとわかっているし、ここにあの男はいないのだが、それでも。本当は自分に非があることを、認めたくなかった。あの雨の日。ずぶ濡れになった私は正気を失っていた。あの男との間に、少しだけ芽生え始めていた何かを粉々にぶち壊したのだ。
「鈴木さん、お父様たちがいらっしゃっているそうよ」
「え?」
A病棟で働き始めて半年ほど経った頃だった。文乃は先輩の看護婦に呼び止められた。
「私の父がですか?」
空耳だろうかと思って聞き返すと、先輩の看護婦は笑顔でうなずいた。
「ええ。うちの病院に他に鈴木文乃が居れば別だけど。あなたみたいな奇麗な子は一人しか居ないわよ。お父様たち、こっちに用事があったそうよ」
「そう…なんですか?」
文乃はいまいち信じられなかった。
父が、あの父が、この時期に? 今まで手紙すら寄こさなかった人が? それに父たちとは、誰ときたのだろう? もしかして東京の親戚の叔母さんも一緒に来たのだろうか?
「あなたを驚かせたいからって、内緒にしてたみたいよ」
文乃の浮かない表情を見て、先輩の看護婦は優しく文乃の肩を叩く。
「どういう事情だか知らないけど上京してからずっと会ってないんでしょ? 文乃さんあなた学生の頃からお盆も正月も帰らないって聞いたわよ。あなたのお父様、田舎から出てこられたんでしょ。仕事が終わるまで待ちますっておっしゃってたけど……ほら、今日はもう早引けしていいわ。行ってらっしゃい!本部の応接室で待っているから」
ちらっと時計を見ると、四時だった。先輩の言葉に、だんだんと父が来ているという実感が沸く。
「ありがとうございます! 行ってきます」
文乃が明るい笑顔でお礼を言うと、先輩もつられて微笑んだ。
「せっかくなら寮によっておしゃれしてきたら? 通り道だし。外で一緒にご飯でも食べてきなさいよ」
「そうですね。久しぶりに父と水入らずで楽しんできます」
上京したのが十五歳の冬で、すでに文乃は十八歳になっていた。文乃と父はほぼ三年ぶりの再会になる。最初に感じた違和感はすっかり消え去り、文乃は父に会える喜びをかみしめた。
文乃は寮に寄ってお気に入りのワンピースに着替えると、口紅をひき、軽くおしろいをはたいた。気がせいてしまうが、久しぶりに会う父に自分をよく見せたい。もとの作りが良いから、薄づきの口紅だけでも見違える。
「夕飯を、御馳走してあげなきゃ」
文乃はヘソクリを貯めている古いクッキーの缶から、紙幣をごそっとつかんだ。少し迷ったが、特に明確な目的があって貯めていたお金でもない。父に都会の美味しいものを食べさせてあげよう。嬉しさで胸が苦しくなりながら、文乃は、本部の応接室へと急いだ。先に事務室へ寄って挨拶をし、文乃は応接室のドアをノックする。
「鈴木文乃です」
文乃が名乗ってドアをあげると、逆光の中に三人の男性のかげが見えた。一人は事務長、もう一人は父だ。三人目が誰だかわかった瞬間、文乃の身体はびくりと震えた。なんでこの男がここに? 文乃はすっかり父が叔母と来たのかと思っていたが、別の人物だった。文乃が絶対に会いたくないと思っていた男だ。目があった瞬間、忘れたい過去がよみがえる。なんで? 父が連れてきたの?応接室の床に縫い留められたように固まった。
「鈴木さん待っていたよ。素敵な婚約者が居るんだね。積もる話もあるだろうから、私は席を外すよ」
事務長がそう言ってタバコを吸うしぐさをした。
「こ、婚約者?」
事務長の言葉に動揺して、目を見開いた。
「三年も前から決まっていたなんて知らなかったよ。鈴木さんはプライベートのことを全然話してくれないもんな」
文乃の顔色に気付かず事務長は、軽口を叩く。
チラッとテーブルを見ると、ほぼ空のコーヒーが三つ。どうやら事務長は今まで父たちの相手をしてくれたらしいが、とんでもない勘違いをしている。
「あの、その……あの人は婚約者ではなくて……」
「鈴木さん照れないの! 鈴木さんは年上好きか。どおりで同世代には目を向けないわけだ」
文乃は間違いを訂正しようとしたが、事務長はにやにやと訳知り顔に笑いながら出て行ってしまった。文乃と父、例の男が三人だけ応接室に残ると、ピリッとした緊張が走る。
沈黙を破ったのは文乃の父だった。
「文乃、久しぶりだな。もう二年になるか」
「三年ぶりよ。お父さん、どうしたの急に?」
男の存在と婚約者という言葉が気になりつつも、文乃は父に笑いかけた。
「顔が見たくなったんだよ」
ウソだ、という言葉を文乃は飲み込んだ。だったらなぜこの男が隣に居る? 文乃の父は、記憶にある姿よりも痩せて猫背になって、目が忙しなく泳いでいる。口調は穏やかなのに隠し切れない悲しさがあった。
「えぇと、それは嬉しいんだけど」
文乃は言葉を選びながら、視線をさまよわせた。何をどう話し始めればいいかわからないし、そもそもこの男はなんでいるのか。婚約なんて拒否したはずだ。男が居る前で、父に問いただしていいのかもわからない。文乃の視線に気づいた男が、文乃の父にむかって軽くあごをしゃくった。言え、と短くうながしているようだった。文乃の父は深く大きなため息をつく。
「実はな、お父さん、借金をしたんだ……それをこちらの阿部様が肩代わりしてくださった」
「え?」
「春の作付けがうまく行かなくてな……苗が全部だめになったんだ」
「誰からも、あまり苗をもらえなかったの?」
「遅霜が降りたからな」
「そ、そんな話は知らなかったわ。毎日ニュースを見てたし、新聞だって読んでたのに」
文乃は力なく呟く。文乃の部屋にはテレビはないが、社員食堂ではテレビがつけっぱなしで、だいたいはニュースが流れていた。寮のロビーに置かれた新聞を、欠かさず読んでいた。父からの便りがない分、文乃が故郷の状況を知る数少ない手がかりだったからだ。
「田舎の遅霜なんて、ニュースにもならないよ」
父親が自虐的に笑う。
「そう、大変だったわね」
文乃は目を伏せた。
「それでな、文乃」
文乃の父は勢いよくその場で、文乃にむかって土下座をした。
「本当にすまない!」
「ちょ、ちょっとお父さん?!」
額をカーペットにこすりつけ、文乃の父は
「もう俺にはこれしか道が無かったんだ! 本当に、本当にすまない!!」
と繰り返す。文乃は父を立ち上がらせようと駆け寄ったが、父は頑なに顔をあげない。父の頬には涙がいく筋も伝っていく。文乃はだんだんと事情が飲み込めてきた。父が男と一緒に来た理由。男が婚約者だと名乗った理由はつまり。
「……ああ、もしかしてそういうこと。私が借金のかたで売られたわけね」
「借金のかたとは人聞きが悪い。俺がずっと君のことを愛していることは知っていただろう。婚約者の父親が困っている以上、助けるのは当然だ」
「よくも抜け抜けと」
文乃のつぶやきを阿部が否定する。婚約者を気づかうように聞こえる言葉だが、文乃には白々しいとしか思えなかった。あんなに傷つけたのに、それなのに。後悔から恐怖がせりあがってくる。この男は私を許さない。
「もし本当に愛しているなら私たちをそっとしておけば良かったのよ」
「欲しいものは手に入れる主義なんだ。誰かから盗られる前にな」
「すまん、文乃。本当にすまない」
念仏のようにすまないと唱え続ける父親に、文乃は途方にくれる。父親の背中は記憶よりもずっと小柄で、細かった。背中に肩甲骨が浮いている。頭のてっぺんは薄く隙間だらけで白髪交じりの灰色だ。父親としても苦渋の決断だと分かっていた。
「お前が、あの日決めたことだぞ」
男は自分の目じりを指でなぞる。それは2人だけの秘密だ。あの日の熱がよみがえる。
「こ、この卑怯者っ!」
羞恥にさいなまれ、男の頬を叩こうとするが、阿部との身長差で空振った。阿部から逆に腕を掴まれると、そのまま腕ごと身体をなぎ払われた。
「ああ!」
文乃はよろけて父親のすぐわきに倒れ、腰をしたたかリノリウムの床に打ち付けた。驚いて父親が助け起こそうとする。
「さて行くぞ」
阿部は自分が文乃を邪険にしたにもかかわらず、手を差し出した。
「どこへ?」
文乃は父にしがみつき、阿部を睨む。
「食事だ。一緒に夕飯を食べようじゃないか」
阿部が唇をゆがませて笑う。……食べられる。 文乃は、その笑みにどうしようもない嫌悪と恐怖を抱いた。阿部は少しつやのある漆黒のスーツに、がっしりと筋肉質な身体を包んでいる。肌は浅黒く、顔だちは怜悧で整っている。年齢的な衰えは一切感じさせない。
かつて会った時よりもただ漢としての凄みを増しただけだ。得体のしれない鬼。それが今の文乃にとっての阿部だった。
「行くぞ。待たされるのは好きじゃないんだ」
文乃がいつまでも動かないため、阿部は差し出した手を下ろした。阿部は文乃に背を向けて歩き出す。ついてくるのが当然、という態度だ。二歩、三歩進んで、阿部は止まった。振り返りもせずに低い声で警告する。
「痛い目に合わないと、自分の立場がわからないようだな?」
「い、行きなさいっ」
阿部の警告に、文乃の父が文乃をせかす。文乃は父と阿部の背を見比べ、泣きそうな顔で立ち上がる。文乃は父に一度頭を下げると、阿部の後へと続いた。
本部の正面玄関にはタクシーが待っていた。阿部が言葉少なに、行き先を指示する。会話はなかった。30分ほど車を走らせただろうか。次第に日が落ちていく。当にこれはあの男なのだろうか。鼻をくすぐる香水の香りはかつて嗅いだものと同じ。ワンピース越しに太ももに伝わる体温はひどく文乃を緊張させた。黄昏時となり、うすぼんやりした暗がりになった頃、タクシーは目的地に着いた。大きな日本庭園のある三階建ての料亭だった。たくさんの人が出入りをして、煌々と明かりがついている。人がいることにほっとした。阿部は慣れているのか大股に進んでいく。女中が挨拶して、奥へ奥へと案内してくれる。
文乃は、阿部の背中から視線をさまよわせる。歩調が遅れがちになり、距離が開いていくが阿部は振り向かなかった。男盛りの自信がみなぎり、それはピンと伸びた背筋に表れている。気おくれがする。自分が感じている感情をうまく表現できなかった。この人と、私はどうなるんだろう?
「ここだ」
迷路のような回廊の奥座敷へ入り、阿部と二人きりの会食が始まる。にぎやかだった表側と違い、急に静かだ。どっかりと上座に座った阿部が鋭い目で挑発的に文乃に座れと促す。文乃は蛇に睨まれた蛙になった気がした。食べられる。逃げたい。でも逃げられない。文乃が座ったことを確認すると、阿部は視線を一瞬だけ左に動かした。文乃もつられる。何のこともないふすまだが、固く閉じられている。文乃は隣にも客室があることに安堵した。誰かが居るなら、この男も滅多なことは出来ないはず。食事だけだ。
「酒は飲めるな」
「飲んだことはありません」
「じゃあ今日が初めてだな」
目にも美しく趣向の凝らされた前菜は一口で消えて味も分からなかった。冷たい、醤油味、小さい。貧弱な感想しか浮かばない。それでも揚げたての天ぷらは美味しく、温かな煮物椀にほっとした。ほぼ無言で会話はない。冷酒をつがれるまま、ちびちびと舐めるように呑んだ。締めの鮨をつまむと水物の梨が出た。添えられた黒もじに刺して口に含むと冷たい甘さで舌がしびれる。いつのまにかずいぶんと酔いが回っていた。気を付けて帰らなければ、と文乃は思った。それでも食事が終わったことで気が楽になった。後は帰るだけ。無様な真似をさらさず、何かされる前に帰ればいい。
「御馳走様でした」
そう言って立ち上がったが足がおぼつかない。阿部の浅黒い顔には酔いの色は見えなかったが、かわりに目に奇妙な熱が見えた。いつの間にか阿部が文乃のすぐ前に立っている。
文乃の心臓が鼓動を早める。喉がひどく渇く。阿部は文乃に向かっておもむろに手を伸ばす。文乃は後ずさりしてふすまにぶつかった。逃げ道がない。そうだ隣の部屋の人に助けを求めよう。回らない頭で考えた。隣の部屋は静かで声は聞こえなかったから、誰も居ないかもしれない。でも、とにかく違う部屋に逃げよう。ふすまを後ろ手に開けて振り返ると薄暗かった。文乃と阿部の身体越しに照明がふすまの奥を照らす。突き当りの和室だ。真ん中に二組の布団が敷かれていた。
「ひっ」
布団はぴたっと隙間がない。文乃は部屋と阿部の意図を察した。逃げなければ。踵を返したが、鼻先をしたたかかたいものにぶつけた。両肩を掴まれ、阿部がすぐ後ろでたちはばかって文乃の逃亡を防いだことに気づいた。




