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サナトリウム

「今日も暑いな」

 文乃は乾いた洗濯物を運びながら、汗を拭う。雑用は本来、看護婦である彼女の仕事ではない。ただ時間が空いた時、余計なことを考えすぎないように無意識に仕事をしているだけだった。

「鈴木さん、よろしくお願いしますね」

「はい長澤婦長! 頑張ります」

「あなたには期待しているのよ。若い子の嫌がるC病棟に希望を出してくれて本当に助かるわ」

「いえ、私もその方が助かるんです」

 このサナトリウムではA、B、Cと病棟が分かれていた。C病棟は末期患者の終末ケア専門病棟だった。給金が少しだけほかの病棟より良い。文乃は自身の容姿から男性から言い寄られることが多い。いつか家族を持ちたいとは思っていたが、すぐに恋愛をしたいとは思えない。高齢の老人が大半を占める職場は文乃にとっては願ってもない場所だった。

「あなたは可愛いものね。モテるでしょう」

 助かると言った文乃の言葉に、長澤婦長が冗談で返し、文乃は少し顔を赤くする。何と答えて良いものかと迷い、正直に白状した。

「そう、ですね……でも、厄介事も多いんです」

「そうなの? まあ、それだけ目立てばねぇ。でも、ここの患者さん達ならきっと大丈夫よ。お年寄りばかりだからね」

「……はい!」

 モテないと否定しようにも、実際に文乃はよくモテた。すらりと細いが病的ではなく、芯の通った白百合の花のようだった。道行くものの目を引かずにはいられない、匂い立つ色香は天性のものだ。長澤婦長も文乃の事情を聞いているのだろう。文乃の肩を優しく叩いて労わった。文乃はぱっと花が咲いたように笑う。生い立ち故、文乃には美しくちやほやされたものにありがちな傲慢さがない。慎ましく働き者であったから、文乃は長澤婦長の予言通り、患者達から孫のように可愛がられていた。


 文乃としては穏やかに過ごせればどこでも良かった。本当に居たいところにはもう戻れない。件のサナトリウムは贅を尽くした洋館建築で、赤い煉瓦が照葉樹の濃い緑に映えていた。サナトリウムは結核治療所を指す。この頃は結核の特効薬は未だ世に出ておらず、遠くアメリカで治験段階だと、文乃は授業で聞いている。サナトリウムは結核患者の終末を少しでも幸福に過ごさせ、外に出ないように隔離するため、彼らを囚える美しい檻だ。ただ文乃にとって、職員寮の狭い個室は、自分だけの大切な砦となった。三ヶ月も経つと文乃もすっかり仕事に慣れてきて、恋愛の絡まない職場の気楽さにほっとしていた。ただ、今度は別の悩みが出てきたのだ。

「鈴木さん、寿命だからしょうがないのよ」

「私、最後までちゃんとお世話できたでしょうか……」

「もちろんよ」

 片付けられたベッドを見て、文乃は涙ぐむ。末期病棟ゆえ、容態が急変する患者も多く、常に死は身近にあった。別れは仕方がないものだと理解しつつも、感情が追い付かず、ふさぎ込む日が増えた。故郷に帰れないまま、文乃は筆不精であまり便りもよこさない父親のことも心配だった。連絡を取りたくても自分からとってもいいものかわからない。他人行儀な暑中見舞いは送っているのだが、返事は無い。そもそも父と自分はそこまで愛にあふれた幸せな親子じゃない。あの噂もどうなったのかわからない。沈静化してればいいが、そうでなければ……父はあの日のことを一度も聞いてきたことが無かった。それをいいことに文乃も未遂なのか既遂なのか話していない。ただ文乃たちの中では無かったことになっている。

 経済的には自立出来つつあっても、文乃には心の寄る辺がなく、どうしようもない焦燥を駆られていた。音沙汰が無いのはあの男も同じだ。阿部の沈黙も不気味だった。あんな風に恥をかかされてそのままにしておく男ではないはずだ。でも。あの時の私はどうかしていた。阿部のことを考えると、文乃はどうしていいかわからなくなった。私の居場所を知らないのだから、あの男が現れることはないし、連絡しようもない。もう結構経つし、私を諦めて誰か別の人と結婚したかもしれない。あの男が本気を出せば、私の居場所なんかすぐわかるはず。それなのに。 


「ねぇ、ちょっといいかしら?」

「なんでしょうか?」

「あのね、お手伝いに行って欲しいの」

「え?」


 仲の良かった患者を見送る日々が続くと、文乃がどんなに気丈に振る舞っているつもりでも、心配する人が出てきた。長澤婦長もその一人だ。笑顔が明らかに減ってきた文乃を心配し、長澤婦長が提案したのは配置換えだった。

「吉岡さんってわかる? 産休に入るのだけど鈴木さん、少し吉岡さんの代わりにお手伝いに行ってくれないかしら?」

「吉岡さん……A病棟ですか?」

 あまり面識がない相手ですぐには思い出せなかった。A病棟は敷地内でも一番の海寄りにあり、建物が大きく立派で、働いている職員の数も段違いに多いのだ。

「ええ。しばらくでいいから。代理の方、決まっていたんだけれどねぇ、おうちの事情でこれなくなってしまったの。代わりを見つけるまでの短い間だけよ」

「そう、ですか」

 A病棟は軽症者が多いため、患者の年齢層も若い。長澤婦長は、文乃が成人男性をあまり得意としないことは分かっていた。難色を示すだろうことも予想がついたが、文乃は困っていると理由をあげて説明されると弱いことも年の功で見抜いていた。案の定、迷い始めた文乃にもう一押しとばかりに婦長は続けた。

「普段だったら新しい方が来るまで何とか回せたんだけれど、園田さんも産休に重なってねぇ。それにこの前、例の集団感染の患者さんがどっと来たでしょう?」

「……わかりました。私でお役に立つなら」

 婦長は真面目で優しい文乃を我が子のように、むしろ反抗期の息子よりもずっと可愛く思っていた。文乃の性格を逆手にとって、本人が望まない配置へと押しやってでも、文乃には潰れて欲しくはなかった。A病棟は人死が少なく、文乃と同世代の患者も職員も多いのだ。きっと気分転換になるはず、と婦長は考えていた。

「ほんの少しの間だから、お願いね」

 婦長の親切心と文乃の決断が、人生の歯車を回し出す。

「可愛いね! 新しい子? どこ担当しているの?」

「新人さんかい?」

「鈴木さん、無視していいですからね」

 文乃がA病棟の松田婦長に着いて、病棟内を回るとさっそく男性患者から声がかかる。慣れた様子で松田婦長はあしらうが、文乃は面食らってしまった。雰囲気が全く違うのだ。静謐なC病棟と比べ、A病棟は建物も人も、雑然として明るい。病院ではなく、洋風の湯治宿や保養所のようだと、文乃は思った。


「9時の見回りのときは患者さんはまだそれぞれのお部屋で寝ていることが多いのだけれど、10時の点滴とお薬の時間は娯楽室やら中庭やら好き勝手に移動しているのよ」

「それはまた大変ですね」

「本当に。探しまわらなきゃいけないんだから嫌になるわ」

 松田婦長は心底うんざりした口調で、眉をしかめる。C病棟は日がな一日、ほとんどベッドの上から動かない老齢患者も多かった。さらに多くの患者達は、孫のように可愛がる文乃が困らないように、みんな行儀よくベッドで待っていてくれたのだ。だから文乃は点滴と投薬で悩んだことは無かった。

「鈴木さんはまず顔と名前を一致させるところから頑張ってね」

「はい」

 覚えられるだろうかと不安がよぎるが、文乃は笑顔で返事をした。

 それから数週間が経ち、文乃はかなりA病棟へと馴染んできた。A病棟は贅を尽くした洋館建築で、赤い煉瓦が照葉樹の濃い緑に映え、美しかった。よく手入れされた庭は整然とし、窓辺のすだれに朝顔がつるを伸ばす。窓を開ければ眼下に広がる穏やかな遠浅の海に溶けゆく水平線。発達していく入道雲が夕立の予感をさせ、濃く青く遠い空の高さが時間の流れを狂わせる。

 ドイツで提唱された転地療養を継承し、結核療養は空気が奇麗かつ温暖な海浜で栄養をとるという。特効薬がなかった頃、自己免疫にだけ頼るという意味でも、終末を少しでも幸福に過ごさせるという意味でも、豪華な檻に隔離されていた。俗世と隔絶し別荘地で過ごし、刹那の享楽に生きる。若く軽症者も多いため、文乃の居たC病棟の静謐さとは全く違った賑やさで、文乃はそれが虚勢を張っているように見えていた。

「今度は指輪ですって。持ってこなければいいのにね」

 松田婦長が休憩室で記録をつけながらため息をつく。隣でお茶を飲んでいた看護師が、せんべいを一枚摘まみながら、

「どうしても、手元に置きたかったんでしょうよ」

と他人事のように言った。どうしても手元に置きたかった、というフレーズは、文乃も何度か聞いたことがある。物が無くなった時、その「物」が本当は持ち込むべきものでない時に、よく聞く言葉だった。

「思い出の品とか、形見だったんでしょうか」

それならば、理解できる。そう思って聞いてみると、松田婦長が苦笑した。

「ううん、おしゃれ用ですって」

「まあ、それは」

文乃は言葉を濁した。

「俗世を捨てられないのよね。だから治そうとするんでしょうけど」

 隣の看護師が二枚目のせんべいに手を伸ばす。しばらく休憩室にはせんべいを嚙む小気味よい音だけが響いた。

 その頃、サナトリウム内では、たびたび貴重品の盗難事件が起こっていた。病室には鍵はかからないし、大部屋では薄いカーテンのみがプライバシーの防壁だ。高額な現金や宝石などの貴重品は持ち込まないというのが大原則なのだが、どうしても外したくない結婚指輪や腕時計などは肌身離さず持っておくのが習わしだ。

「おしゃれ用なら置いてくればいいのにって思わない? 治ったらいくらでもおしゃれできるんだから」

「そうなんだけどねぇ。気が滅入るから、おしゃれしたいのだそうよ」

「でも結局、身に着けないで仕舞っておいて盗まれたんだから意味ないじゃない。私からすれば、どっちもどっちなのよね。盗まれる方も盗むほうも」

 松田婦長と看護師の会話を聞きながら、どちらかと言えば盗むほうが悪いのでは、と文乃は思ったのだが、口には出さなかった。たちが悪いのはA病棟の入院患者にはそこまで貧しい者が居ないことだった。多くは中唐で善良な人々で、ごく一部のだれかがスリルを求めて盗むのだ。有り余る時間を潰すのには賭け事に興じるのも有用だった。花札、麻雀、サイコロ賭博とその時々の流行りはあったが、娯楽室で、病室で。賭け事に興じる患者たちの姿は、日常的に見られる光景であり、病院の規則も「消灯時間以降は慎みましょう」という程度のゆるやかなものだった。だから賭け事と盗難、どちらが経営者にとって頭の痛い問題かといえば、盗難であった。文乃や病棟看護婦たちは、盗難には注意するようにと上からきつく言われていたし、お互いを監視するようにとも、暗にほのめかされた。 賭け事にのめり込んだ患者が有り金をすって他人の金銭を盗むというのもあるだろうが、A病棟の患者は基本的に裕福な出の人々である。下手に疑いをかけて何も出てこなかった場合、下っ端の看護婦や事務長の首などすぐに飛んでしまうだろうと言われていた。

「文乃さんも気を付けなさいね。私たちみたいな立場の弱い地方出身者は生贄にされるのよ」

 仲の良い先輩の看護婦が、文乃にいたずらっぽく忠告する。口調はあくまで軽いのに、目は笑っていなかった。

「そんな、どうしたらいいでしょうか?」

 文乃が困惑して尋ねると、先輩の看護婦は声をひそめ、文乃に耳打ちをした。


「とにかく不良患者たちとは、一線を引きなさい。賭け事をしているやつら、ろくなことをしないの」

「わかりました。気を付けます」

 真面目な顔を作って返事をしながら、文乃は何だそんな程度かと少し拍子抜けをしていた。元々男嫌いで、近寄るつもりはさらさらなかった。

「文乃さん、あなたたちくらいの若さの女の子たちは、みんなそう言うの。でもね、だんだんと変わっていくのよ」

「大丈夫ですよ。本当です」

 文乃は苦笑した。何のために故郷から逃げてきたと思っているのか。私は大丈夫だ。そう思っていても、文乃の意思とは関係なく、文乃は人目を引いてしまう。


「あの娘だれ?」

「あの娘って最近入った三つ編みの? それともボブの子?」

「三つ編みのほう。すっごい可愛くね?」

 文乃があずかり知らぬことだが、若い男性患者たちは、すぐに文乃に目を付けた。ガードのかたい文乃は、にこにこしていても必要以上の会話を拒む。皮肉なことに、さらにそれが男たちの興味を誘った。「先生」も文乃に興味を持った1人だった。

「先生、余計な話をしないで、出るか下るか早く決めな」

「出る」

 負けこんでいる年配の患者に促されて、先生と呼ばれた男はにやりと笑った。男の前には、貫木代わりの碁石が積まれている。娯楽室で花札に興じながら、男は目で文乃を追う。

興味を隠しもしない姿に、年配の患者が不快そうに眉をひそめた。

「おい先生や。どうするつもりなんだ?」

「いや何ちょっと」

 男は言葉を濁す。年配の患者がため息をついた。

「悪いことは言わねえ。もうやめとけよ。先生いつか刺されるぞ。この前も一人辞めさせただろう。何人女を狂わせりゃ気が済むんだ?」

「本気になるから悪いんだよ。俺は遊びだって言ってるのにさ」

 ぷっと、男と同年代の患者がふき出す。


「先生の甘い顔でさ、すらすら歯の浮くような甘いセリフを囁くんだぞ。女なんてみんなコロっと本気になっちまうだろうがよ。分かっててやってるんだろ」

 男は眉を少しだけあげ、

「お前はスケコマシのヒモ野郎のくせに。俺は、女から金は巻き上げない」

とすまして言い、2人に軽く睨み合った。だがすぐに、お互い興味を失ったように視線を外し、札を並べだした。

「地獄に落ちるぞ。先生もお前もな」

 年配の患者の苦い言葉を若い患者がハッと笑い飛ばした。

「じいさん、モテない男のひがみかよ。じいさんこそ、ケツに火がついてるだろ! 地獄に落ちるのはじいさんが先だよ。俺らが借金地獄に落としてやる」

「さあ、始めるぞ。天国に行くのは誰だ?」

 男の掛け声に、みなが手元の札に集中した。先生と呼ばれた男の素性は割と有名で、文乃もすぐに先輩の看護婦から聞いた。

「良くない男に目を付けられたわね。気を付けなさいよ」

「どんな人なんですか?」

 先輩の看護婦は苦い顔をして、文乃にそっと近づく。辺りを気にしながら小声で、

「ここの院長の親戚筋なんだけど、実はね、保留値なのよ」

と話し出した。

「え? それならどうして、ここに居るんです?」

 A病棟は、このサナトリウムの中では比較的軽度の患者が収容されているのだが、それでも自宅通院はなく、転地療養が必要とされた者が入院しているのだ。病棟分けは、結核の療養基準の測定値による。保留値というのは、グレーゾーンだ。陰性と陽性の間であり、当然転地療養は必要が無いレベルなのだ。

 先輩の看護婦はさらに小さな声で、

「とんだ放蕩息子なんですって。女に博打、それもいかさま賭博で、筋者とお父様を怒らせて半ば監禁されているそうよ」

と続ける。

「それは、まぁすごいですね」

 文乃はあいまいに笑ってごまかした。

「ええ、内緒だけど最近もね、川路さんっていう若い看護婦に手を出して妊娠させて捨てたのよ。うぶな子がコロッと騙されてしまってねぇ」

「川路さん、ああ、入れ違いになった子ですか」

「そう。その子よ」

 先輩の看護婦は更に周りを警戒してから文乃に向き直った。

「いい? 私はもう辛い思いをする若い子を見たくないの。あの子もね、最初は大丈夫だと言ったの。でもね、ほだされちゃったのよ」

「私は大丈夫です」

 勢いにおされながら、それでも反射的に文乃は答えた。

「あの子もそうだったって言ったでしょ。あなたみたいな田舎娘と遊びたいゲスがここには何人もいるのよ。何の責任も取るつもりもないゲスがね」

 先輩の看護婦の眼力に気おされ、文乃は言葉を飲み込む。先輩の看護婦は、はぁと大きなため息をついた。

「本当に、本当に気を付けなさい。何かあったら、手に負えなくなる前に私に相談してね」

「わかりました。ありがとうございます……」

「無駄話をしてしまったわね。さ、仕事を続けましょう」


 後日、文乃は川路が自殺未遂をし、ここを去ったことを聞いた。先輩の看護婦は川路によく目をかけていたそうだ。最低な男だわ。絶対に関わりたくない。こうして文乃の直樹に対する第一印象はかなりのマイナスで、直樹がいくら甘い笑顔で話しかけても、文乃がなびくことはなかった。歯の浮くようなお世辞も、すらすらと流れる誘い文句も、文乃は全く真に受けず、するりと逃げていく。必要以上の接触をはっきりと拒み続けたのだ。文乃の脳裏には顔も定かではない川路の存在がちらつき、直樹の存在は故郷を追われる原因となった憎い男とも重なった。男は自分勝手で、苦しむのは女ばかり。私は目立たず静かに生きていたいの。文乃は表面上社交辞令の笑顔を浮かべ、きっぱりと言い寄る直樹と線を引いた。それが直樹の執着を煽るとは知らずに。


「色男も全然ダメだな!」

 若い患者の軽口に、直樹はちらっと視線だけを返す。手札に集中しているふりをするが、内心は面白くない。田舎娘はもっとガードが緩いものなんだがな。まあこんなところにいるくらいだ。訳ありだろうな。直樹は文乃の反応を思い出し、今後の対応を思案していた。今まで何度か文乃に話しかけているが、文乃は愛想良くふるまいつつも、するりと逃げていくのだ。まるで商売女のそれだと、直樹は腹立たしく思っていた。それになんだか気味が悪くもあったのだ。文乃は確かに美人で気立てが良いが、とらえどころがなく作り物のようだと感じていた。


「何でこんなところで働いているんだろうな。東北の田舎の出だって聞いたが」

「それにしては訛りのない子だよな」

 直樹がつぶやくと別の男が札を出しながら、何の気なしに答えた。そこで直樹は、はたと気づいた。

「就職で出てきたわけじゃないんだろう。それともよほど無理をして標準語を話しているのか」

「親のどっちかが、都会の出なんじゃないのか?」

「ああ、そういう可能性もあるか」

  就職を機に上京してきた若い娘たちには、隠しきれない訛りと、田舎出身ならではの純粋さがあるのだ。文乃には、そのどちらも感じられなかった。清純な見た目とは裏腹に、性善説を信じ切った田舎者の無垢な目が無い、と直樹は思ったのだ。

「そういえば、自分のことはあんまり話さない子だよな」

「ええ? いろいろ話してくれるけどな。爺さんに話さないだけじゃないのか?」

 年かさの男が思い出したように言い、別の男が否定する。

「じゃあどんな話を聞いたんだ?」

 直樹が問うと、若い男は空を仰ぎながら、考え出す。

「えーとなんだっけな? 好きなものとか、休みの日にどこに行ったか。俺は干し柿が好きで、よく競馬場に言った話をしたんだよ」

 そうそう、と思い出して嬉しそうに話し出した若い男に、直樹は冷たい視線を送る。

「お前の話は聞いてない。彼女は何が好きなんだ?」

「え? あ、たぶん干し柿も好きだって言ってたと思ったけど……なんだっけかな?」

「こりゃあいい! お前の好きなものの話にすり替えられたってわけか!」

 困惑する若い男に、年かさの男が手を叩いて笑った。直樹も口元につい冷たい笑いを浮かべてしまった。そうなのだ。文乃は自然と笑顔で話をはぐらかす。若く美しい女性から、自分のことよりもあなたのことを聞きたいと言葉と態度で示されれば、男は浮かれてぺらぺらと自分のことを語りだし、ゆっくり話をしたと満足する。文乃が聞き上手として好かれる理由でもある。かたくなに自分のことを話さない文乃に、直樹の興味はかきたてられる。

「焦ることはないさ。時間は腐るほどあるんだ。ゆっくり時間をかけて正体を暴いてやるよ」

「怖いことを言うなよ。正体なんて無いだろう。見た目通りの純情な子に間違いないぜ」


 年かさの男は渋い顔をするが、直樹は意にも返さない。

「どうするつもりだよ? あの子手ごわいぞ」

「将を射んとする者はまず馬を射よ、だ」

 笑われて不機嫌になった若い男の言葉に、直樹はニヤッと笑った。

 人当たりの良さでは、直樹も文乃に負けていない。もちろん一部の看護婦たちには直樹の悪名が知れ渡っているが、それでも甘いマスクのイケメンでなおかつ大金持ちの息子が笑顔で話しかけてくれば、ガードが緩くなる看護婦も多いのだ。直樹はさり気なく文乃の情報を集めていく。

「ふうん。あの娘は田舎に婚約者がいるのか」

「そういうウワサってだけだぞ」

 直樹は焦らなかった。時間は売るほどあったからだ。花札に興じながら、少しずつ雑多な情報を集め、つなげ、計画を立てていく。

「田舎に婚約者がいるのに、ここで働くなんて珍しいな。相手の男が嫌がりそうなもんだけどな」

「その相手から逃げてきたって話だ」

 別の患者のつぶやきに、また違う男が答えた。文乃自身が本当の事情を話したことは一度もなかった。しかし、若い娘が田舎から単身で上京し一度も帰省もしないとなれば、だいたい察しがつくものだ。根も葉もないウワサのはずが、かなり事実に近いところを突いていた。

「あの娘、望まぬ相手から迫られたってところか。で、田舎に居られなくなって、こんな隔離施設まで流れてきたってわけだな。男嫌いっぽいところも納得がいく」

 直樹は冷静に分析する。

「そこまでわかっているなら、そっとしておいてやれよ。話しかけても脈なしだったんだろ?」

 年配の患者が苦々しげに言ったが、直樹は一瞥して、

「嫌だね。これからが面白いんじゃないか。せっかく付け入るすきを見つけたんだぞ」

と応えた。周りにはそれが負け惜しみに聞こえた。

「今回は先生の負けだな」

 そう言ってニヤッと笑った年配の男を、直樹は冷たい目で見る。

「まだだよ。これからが面白いんじゃないか」

 直樹の前に座る、若い男の患者は、


「ありゃ全然脈無しだよ。落ちるならもうずっと前に落ちてるはずだ。素直に負けを認めなよ」

と言って手を出した。

「絶対に堕としてやるさ」

 直樹は短く答え、深く考え込んだ。

「先生よ、人が悪いぞ。あの娘、良い子じゃないか。もうそっとしておいてやんな。あんな良い子が泣くのは見たくない」

「鳴かせるのは布団の上が良いもんな」

 年配の男の忠告を若い男が茶化す。年配の男は、若い男をじろっと睨み、首を振った。

「あの娘に全部言うぞ」

 年配の男が重ねて言うと、直樹は、興味が無さそうな顔をしたまま、

「僕の勝ち越し分、少し待ってやるよ。代わりにじいさんはこの賭けの結論をもう少し待つ。それでどうだい?」

とだけ告げた。それだけで、年配の男は心変わりをしたらしい。つまるところ、賭博仲間は同じような下種仲間なのだ。

「んむむ先生、きたっねえなあ。弱いところついてきやがって。しょうがねえな。もう一週待ってやるよ」

 年配の男は降参とばかりに、両手を上げる。

「ご理解いただき、ありがとう」

 直樹は芝居がかったお辞儀をした。

「先生、あれ本当に落とせるのか? 俺は無理だと思うけどな」

 若い男の言葉に、直樹は少し笑った。

「脈がないなら、脈を作る。隙を作ってやるんだよ」


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