DiPS細胞
季節は巡り、秋がやってきた。
再生医療の研究を始めて半年が経とうとしていた。
私とサルシナさんは、デル様のiPS細胞の作製に成功していた。今はそれを、角を構成する細胞へ分化誘導する実験に進んでいるところだ。
――異世界におけるデル様iPS細胞――略してDiPS細胞の作成は、まったく一筋縄ではいかなかった。私もサルシナさんも、まさに満身創痍だった。
思いつく限りの様々な方法を試したのだけれど、デル様の繊維芽細胞は、かたくなにDiPS細胞にならなかった。参考に出来る論文も無いし、材料も試薬も満足に無いなか、私は途方に暮れていた。ついには体調を崩し、研究所に出勤すると気分が悪くなるという現象まで起こり始めていた。焦りと不安から精神状態がおかしくなり、挙動不審な行動ばかりとっていた。今思えば、鬱状態になっていたと思う。
アイデアは尽きた、体調も悪い。
そんな最悪の状況を打破したのは、忘れもしない8月3日。ため息とともにぽつりと呟かれた、サルシナさんの一言だった。
「この細胞は、何をしても反応が悪いねえ。本物の陛下だったら、あんたの言うことならよく聞くんだろうにさあ……」
その一言で、私は閃いた。
デル様の繊維芽細胞と、私の細胞を一緒に培養してみようと!
もちろん、私の細胞が一緒ならデル様の繊維芽細胞がやる気を出すだろうという夢物語を信じたわけではない。2種類以上の細胞を一緒に培養することを「共培養」と言い、これはれっきとした実験のスキルなのだ。
実際のヒトの体では、細胞は一個で存在しているのではなく、色んな種類の細胞や、組織と関わり合って存在している。その状況を、シャーレの中でも再現するという訳だ。
細胞が互いに影響し合うことで、思ってもみなかった実験結果が出ることがある。
そもそも私の細胞は「不老不死細胞」なうえ、かなり薄れてしまったがデル様と同じ魔力をまとっているはずだ。人知を超えた得体の知れない働きを持つことは間違いなく、かなり期待が持てた。
さっそく自分の皮膚をえぐって細胞を採取し、デル様の繊維芽細胞と共培養した。
すると――できたのである。DiPS細胞が。半年近く試行錯誤してできなかったDiPS細胞が、2週間ほどでできたのである!!
答えがまさか自分の中に在ったなんて思ってもみなかった。サルシナさんの一言がなければ思いつかなかっただろう。彼女には感謝してもしきれない。
おそらく、私の不死身細胞から産生されているなんらかの物質が、デル様の繊維芽細胞を幹細胞化させたと考えられる。不死身化と幹細胞化は考え方として通ずるものがあるので、理論としては十分あり得る話だ。
詳しい仕組みについては、色々落ち着いたら研究テーマの一つとしてじっくり取り組みたいと思う。とにかく今は角再生計画を推し進めるのが先だ。
――そんな経緯で、私たちはDiPS細胞を得た。
次のステップは、DiPS細胞から角の組織を構築することだ。
一度は諦めかけた角再生計画だけれど、光が見えたことにより、私の中の実験魂も熱を取り戻した。魔王様の細胞は人間の常識が通じないことを痛感した私は、かなり突拍子もない試みも、どんどんやってみている。
――そして、肝心のデル様の体調だけれど。
とても悪い、と言わざるを得ない。
ベッドにいる時間が、半日から少しずつ延びていって……ついに、ほとんど1日横になって過ごすようになっている。ドクターフラバスによると、身体の不調が悪化していると言うより、魔力のゆらぎが大きくなってきているという表現が正しいらしい。魔力と体力のバランスが崩れていて、気を抜くと魔力が大暴走してしまう状況なんだとか。
「大暴走するとどうなるんですか?」と質問したところ、「門が全開になって、異世界人が出入りし放題になるよ。あと、陛下が陛下じゃなくなるだろうね。魔物の本能だけになっちゃう可能性が高い。うーん……、言いづらいけど、確実に国王ではいられなくなるだろうねえ。あはは、ブラストマイセスはすごくピンチになっちゃうね!」
高笑いするドクターフラバスに、彼は壊れてしまったのだろうかと、ちょっと、いやかなり心配になった。目の下のクマは、墨汁のように真っ黒だ。私が追い込まれているのと同様、ドクターフラバスも筆頭医師として重圧を感じているに違いなかった。
彼は彼で、デル様の諸症状緩和のために、日々付きっ切りで治療にあたっている。ろくに眠れていないだろうから、そっと手に桂枝加竜骨牡蠣湯を握らせておいた。
デル様と共に過ごす時間を確保するため定時を厳守していた私だけれど、そうも言っていられない状況になって来たので、体調を崩さない範囲で研究所にこもりきっている。
たまにお城に帰った時は、基本的にずっとデル様のお側で過ごしている。
寝たきりであっても、デル様は決して後ろ向きなことを言ったりしない。横になりながらも、書類に目を通したり、ハンコを押したりして、できる仕事をしている。私に対しても、常に優しく微笑んでくれていて、以前と変わらない愛情を注いでくれているように思う。
無理をしているんじゃないかと思って、そう聞いてみたことがあったのだけれど。「全く無理はしていない。私にどれぐらいの時間が残っているのか分からないから、落ち込めないだけだ。……明日もし死ぬんだったら、今日を全力で過ごさないと後悔するだろう?」
なんてサラッと言うから、涙が溢れてきてしまった。彼が「死」という言葉を口にしたことが、すごくショックだった。
医療者として私自身はそういう最悪の事態を常に考慮していたけれど、彼自身もそれを意識していたということが、たまらなく胸を締め付けた。
記憶の方は、忘れてしまう頻度が増えている。私自身を忘れることはまだないけれど、朝話した予定を忘れて「セーナはどこに行ったんだ!?」と騒ぐことは多々ある。
そのたびに、私は「大丈夫ですよ。病気のせいですから、気にすることはないです。私が必ず治しますからね」と繰り返す。それはデル様に向けてと言うより、半ば自分に言い聞かせているようでもあった。
本音を言えば、不安でたまらない。旦那さんの命がかかった逃げ場のない重圧で、日々押しつぶされそうになっている。私は20代で死んでいて、研究者としての実績はあるけど経験は浅いと言わざるを得ない。行き詰った時、気合と根性以外でどうやって乗り越えるのか分からない。
自分の頭と両手、これしか武器はない。未知なるものに挑む楽しさは、いつの間にか心細さに変わっていた。
自分はできる。絶対にできる。朝晩顔を洗う時も、鏡に映る地味な顔に向かって言霊を繰り返す。
「私は研究者。絶対にできる。人間と世の理、どちらが勝負に勝つか、見ているといいわ。デル様は私が必ず助けてみせる」
夕焼けが私の頬を赤く染めていく。
私は今日も、研究器具に囲まれて1日を終える。
☆桂枝加竜骨牡蠣湯とは
原典:金匱要略
適応病態:痩せて顔色が悪く,神経過敏,精神不安などを訴える場合に用いられる。
弁証:裏・虚・陰陽虚/血虚/心・腎




