セーナの苦悩
焦ってはいけないと思うのに、焦りが止まらない。冷静さこそ研究の要だと分かっているのに、自分で自分の気持ちがコントロールできないのだ。
そしてそんな精神状態で取り組む実験は、得てして上手くいかないものである。
――手に滲む汗を感じながら、私はありったけの時間を実験につぎ込んでいた。
デル様の包皮は立派な繊維芽細胞に成長した。次のステップは、この繊維芽細胞を角幹細胞へと分化させることだ。予想通りではあるが、やはりここが鬼門だった。何をどうしても、角幹細胞にならないのである。
「――セーナ、少しは休んだらどうだい? 朝からずうっと、休憩なしで作業しているじゃないか」
後ろから聞こえるサルシナさんの声に、私は振り返ることなく答える。
目線はしっかり、細胞の継代操作を行う手元を見たままだ。
「大丈夫です。倒れることがないように、しっかり体力は計算してありますから。デル様の繊維芽細胞を分化させるために試したい実験があと100通りはあるんです。休憩している時間がもったいないです」
「――そうかい。陛下を救いたい気持ちはあたしも一緒だからさ、あたしに出来ることがあったら頼ってくれるね?」
「もちろんです。サルシナさんなくしてこの実験は進められませんから、ものすごく頼りにしています。とりあえず、サルシナさんは休憩をしてきてください。戻ったらスイニーの血清処理をお願いします」
「スイニーの血清処理だね。分かった」
遠ざかっていく足音を聞きながら、私は頭の中で次の実験の内容を考えていた。
◇
6月1日
繊維芽細胞に、1% スイニー胎児由来血清を添加
初代細胞およびP3細胞を使用
人間の場合、幹細胞の培養は血清が大きな役割を果たしている。デル様の細胞にも効果があることを期待。
6月3日
細胞に変化なし
スイニーと魔王の種差によるものか? 魔族で協力してくれる人がいないかサルシナさんに聞いてみることにする。
EGFやFGFがあればいいのに。この世界では入手も製作も無理だ。
6月4日
サルシナさんとドクターフラバスが協力を申し出てくれた。
2人から100cc採血し、血液成分を遠心分離。1%に調製した血清を繊維芽細胞に添加。P3細胞使用
6月7日
細胞に形態の変化あり。球状に凝集しているように見える。
やはり種差が大きく関係しているのかもしれない。
濃度をふって(0.5、1.5、3%)、再度魔族由来血清を添加。P3細胞使用
6月11日
細胞死滅
球状に凝集したものは、ばらばらになっていた。
何がだめだったのだろう? しかし、少し糸口がつかめた気がする。
エロウスとステッキーも協力を申し出てくれたので、採血を行い、血清を調整した。
ドラゴンの血液は、それぞれの鱗と同じ色をしているらしい。エロウスの青い血がとても綺麗だった。
6月13日
エロウスとステッキーの血清を添加。(0.5、1.5、3%)
P3細胞使用
魔族にもさまざまな魔物がいるから、魔王様に適合する個体がいればいいな……
6月14日
出勤してすぐ宰相さんから緊急の連絡があった。デル様が、セーナはどこだと探しているとのこと。研究所にいることを伝えても、信じられない様子。私に関する記憶が抜け落ち始めているのか?
お城に帰って、今日はデル様の側にいようと思う。
6月17日
細胞死滅
前回は凝集がみられたが、今回はみられなかった。
サルシナさんの考察によると、魔力の量も関係しているのかもしれないとのこと。(サルシナさんとドクターフラバスは魔力の多いAランクの魔物。エロウスとステッキーはCランクとのこと)
デル様に次いで魔力の多い河童さんに協力を依頼。魔力量が細胞への親和性に関係しているのであれば、期待できそうだ。
6月20日
河童さんに採血をおこなった。
血清分離し、6/13と同様の条件にて細胞培養を開始。
6月25日
河童さんの血清を添加した細胞は、エロウスとステッキーの時よりも大きな凝集塊が確認できた。
魔力量が影響している可能性が高くなった。でも河童さん以上に魔力の高い魔物はいない。どうする?
発注していた特殊プレートが納品。プレート底面に接着因子をコーティングしたもので、細胞の足場となる役割があるもの。さっそくそれを使って再度河童さんの血清で細胞培養開始。
7月1日
6/20に培養開始したものは、成長が止まったようだ。(細胞塊は小指の爪ほどの大きさ)
6/25に培養開始したものは、細胞凝集が起こらなかった。接着因子のコーティングはしない方がいいということが分かった。
次の手はどうする?
7月2日
次の一手が思いつかない。
調べ物で1日が終わってしまった。
7月3日
朝から気分が悪く、昼食を戻してしまった。
サルシナさんの強い勧めにより、早退することにした。昨日食べたものが悪かったんだろうか?
体調を崩している場合じゃないのに。デル様のために、私は頑張らなきゃいけない。
7月7日
体調不良が長引いてしまい、久しぶりの実験。
細胞の継代をおこなった。
次の実験についてサルシナさんと話し合ったが、方針決まらず。
何もアイデアが浮かばない。欲しい試薬が作れない。技術が足りなすぎる。
ちょっと、疲れているのかもしれない。
7月10日
今日もだめだった
疲れた
7月13日
実験器具を前にしても、心が躍らない。
私はどうしちゃんたんだろう。ぼうっとしている時間はないのに、手が動かない。
7月15日
私の力では無理なのかもしれない……
いや、無理じゃない。私が弱気になってどうする? 辛いのはデル様だ
7月16日
培地の組成をいじって培養してみることにした。
高性能フィルタ(アラクネ商会:Lot 5292)を使ってタンパク質を精製。濃度をふって培地に添加した。(0.05、0.1、1%)
7月21日
タンパク質添加培地は、全然だめだった。なんの変化もなし。
どうする? どうする?
7月22日
午前中、ひどい吐き気。しばらく横になったけど回復しないので早退。
7月23日
宰相から緊急連絡。デル様が吐血したとのこと。
もう実験は諦めてずっとお傍に居た方がいいのか? あとどれぐらい時間は残っているんだろうか。つらい
7月25日
気持ちが落ち込んでいる。実験のアイデアもない。
だめだ、疲れた。悪い考えばかり浮かぶ
7月28日
ああああああああああ
だいじょうぶ、だいじょうぶ
7月29日
(判読不能)
7月31日
(同)
8月3日
―
(実験メモはここで途絶えている)
☆細胞の継代とは
細胞を、新しい培養液に植え継ぐ操作のこと。培地は時間が経過すると劣化するため、フレッシュな培地に移すことにより、細胞はさらに増殖することができる。ただし、植え継ぐことができる回数には上限があり(例外あり)、継代を重ねすぎた細胞は性質が変わってしまうことがある。
本文中に出てくるP3とは、3回継代(passage)したの意味。




