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時間はない、焦らず急ぐ

セーナ視点に戻ります。

 それからおよそ3カ月が過ぎた。

 ブラストマイセスの暦は5月。上着がなくても過ごせる心地よい日が増えて、人々が活動的になり始める季節だ。


 ――デル様の体調は、日に日に悪くなっている。1日できていたデスクワークは半日になり、残りの半日はベッドで過ごすようになっていた。


 漢方で症状を和らげることしかできなくて、とてももどかしい思いをしていた矢先、再生医療の研究に必要な器具や設備が全て揃ったと、注文先の商会から連絡が入った。

 私たちはようやく実験を開始できることになった。


 新しく導入されたものとして大きいのは、まずクリーンベンチだ。

 クリーンベンチとは、ほこりや環境微生物の混入を避けながら作業を行うための作業台である。細胞を培養するときに、例えば菌が混入してしまうと、培養液のなかで菌が増殖してしまい、細胞が使い物にならなくなってしまう。

 抗生剤研究の時もあると便利ではあったのだけれど、必須ではなかったので、製造を先送りしていたのだ。

 ガラスと金属で大枠を作成し、エアフィルタはアラクネ商会に依頼して、ガラス繊維で製造してもらった。


 次に重要なのは、細胞培養液だ。

 菌の培養とは、まったく違う成分が要求される。今回使おうと考えている体細胞はデル様の繊維芽細胞(せんいがさいぼう)なので、それに適した培養液が必要だ。さらにそこからiPS細胞ができたら、iPS細胞用の培養液が必要になる。細胞の種類によって、最適な培地があるのだ(それは菌でも同じだが)。

 ただ、ここは異世界。ハイスペックな生化学試薬は無いから、出来る範囲でやっていくことになる。また、デル様の細胞の性質も未知だ。とりあえず塩化ナトリウム、塩化カリウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウムにグルコースを加えたかなり基本的な溶液でトライを始め、様子を見ながら他の成分を添加してみる方針だ。


 そして、細かな実験器具。

 コンタミネーション(異物混入)を完全に防ぐため、菌に使っていたものとは分けた方がいい。細胞専用として全て揃え直した。オートクレーブや恒温器も例外ではない。

 また、細胞培養に特化したものとして、いくつも穴が開いたシャーレや細胞の足場となるようなカバーガラスなども用意した。



「いいですね。非常にいいです。明日にでも、デル様の繊維芽細胞を採取してもいいかもしれません」


 マイ実験室に設置された再生医療用の実験設備を前にして、感嘆の声をあげる。

 菌用の設備とは完全に区画を区切り、コンタミネーションの危険が無いように配慮した。

 1日がかりで品質確認や起動確認を終えて、私は手ごたえを感じていた


「この実験室も、ずいぶんものが増えたねえ。研究所ができたばかりの頃は、試薬瓶とシャーレばっかりだったからさ。そんなに前ではないはずなのに、もう懐かしいよ。……それで、もう陛下の細胞を取ってもいいのかい? フラバスに連絡するかい?」


「お願いします。デル様の具合が悪くなりすぎると、細胞採取の手術に耐えられない可能性もあります。採取した細胞は魔片具で冷凍保存ができますから、採取自体は早めに行いましょう……」


 デル様は気丈に振る舞っているけれど、誰がどう見ても具合が悪いのは明らかだ。

 身体はどこを触っても冷たくて、肌艶もない。彼なりに、どうにか治療法がないか、(いにしえ)の魔物たちづてに調べているみたいだけれど、今のところ収穫は無い。


 視線を落とした私の肩に、サルシナさんの手がソッと置かれた。


「大丈夫だよ、セーナ。あんたにゃあたしがいるし、フラバスもいる。辛くなったら胸を貸すし、弱音を吐いたっていいんだからね」


 サルシナさんの目が細められ、ポンポンと私の肩を叩いた。

 その柔らかな手から、じんわりと彼女の体温が伝わってくる。


「ありがとうございます。でも私は大丈夫ですよ! ネガティブなことを考える暇があったら、実験で手を動かします!」


「はは、さすが研究狂は違うね。ほんと、肝の据わった人間だよ。……じゃあ、フラバスに念話しとくから。明日の9時から細胞採取の手術ができるか、聞けばいいんだね?」


「はい、お願いします。私はデル様に手術内容の再確認などしたいので、今日はもう帰ろうと思います」


 再生医療にトライすると決めたときに一回説明をして納得してもらっているけれど、ちょっと日が空いてしまっているので、もう一度話した方がデル様の不安も無いだろう。


 帰り支度をして、ロビーの魔法陣まで送ってもらう。


「じゃあ、また明日。陛下のこと、頼んだよ」


「勿論です! ではまた明日」


 手を振り、サルシナさんと別れる。

 ぐにゃりと視界がゆがむと、サルシナさんがポンと音を立てて発煙し、黒い犬になるのが見えた。


 この頃サルシナさんは、通勤のときだけケルベロスの姿に戻っている。中年女性の身体はどうにも重く、移動に時間がかかるからとぼやいていた。だったら鍛え抜いた男性に化けたらいいんじゃないかと言ってみたけれど、変身が苦手な彼女は中年女性にしか化けられないらしい。


 とっとこ走る黒い犬を見送りながら、私は王城へと転移した。


☆繊維芽細胞とは

人体のありとあらゆる場所に存在。指を切った時には皮膚に変わり、肉離れの際には筋肉になり、骨折した時には骨になる。この万能性を利用して、再生医療研究によく用いられている。(ヒトのiPS細胞もヒトの皮膚から採取した線維芽細胞を使って作られている)

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本作が大幅改稿のうえ書籍化します! 2022/9/22 メディアワークス文庫から発売予定


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― 新着の感想 ―
[一言] BJの、別の作画者の描いた話に。 バスケができなくなってしまった青年の足の骨だか靭帯だかを、青年の細胞を利用して再生する話があったのをふと思い出す。 こっちでも成功するといいな。
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