お世継ぎ問題
(デル様に、愛妾……?)
とっさに食器カートを廊下に残して、部屋まで駆け戻ってきた。
ドアをバタンと閉めて、ずりずりと背中を滑らせて座り込む。
床の冷たさがお尻に伝わってくる。心臓の鼓動は痛いほどに早い。
先ほど聞いた言葉の数々が、ただただ頭の中を駆け巡る。
(それに……ジョゼリーヌがあんなことを思っていたなんて――)
私にお世継ぎは難しいだろうとか、愛妾の声がかかるといいな、なんて言っていたのは彼女の声だった。私と会話するときの落ち着いたトーンじゃなくて――なんていうか、すごく嬉々としていて、「女の子」っていう感じの声だった。
(デル様のことが好きだなんて全然気づかなかったわ。……でも、そうよね。若い子から見ても、すごく魅力的でしょうね……)
デル様は王国一の美しさだし、強いし、政治も有能だと評判だ。めったに姿を現さない希少性も相まって、ロシナアムいわく結婚する前からとっても人気があったらしい。愛妾になりたいという令嬢はわんさか居るだろう。
なんとなく、私の世話をしてくれている人たちは、そういうことに興味のない子達なんじゃないかと、大丈夫なんじゃないかと信じ込んでいた。
「裏切り」という文字が脳裏にちらつくけれど……おかしいのは私のほうかもしれない。デル様というとんでもない優良物件に対して危機感が無さ過ぎた。己の甘さが情けなくて仕方ない。
ブラストマイセスでは一夫一妻が基本ではあるけれど、愛人を持つことは黙認されている。歴代魔王も、正妃のほかに複数の愛妾を持っていた者がほとんどだ。
だから、王妃という立場からすれば愛妾は受け入れるべきことなんだろう。だって、これまでの歴代王妃様たちはそれをよしとしてきたのだから。私もそれに倣って受け入れるのが筋というものだ。
あるいは――結婚して2年弱経つのだから、もしかしたら国民から心配の声が挙がっているのかもしれない。
デル様が、宰相が望むのなら、私が口を挟むことはできない――――
唇を噛みしめて、腕の中に頭を埋める。
(――――いやいや、やっぱり愛妾なんて絶対無理! デル様が他の女の人に触れるなんて胸が張り裂けるわっ!)
彼が他の女性とふれあう姿を想像すると、 叫び出したい衝動に駆られた。
それをぐっと抑え込むと、舌に鉄の味がした。
多分だけれど、デル様自身が進んで愛妾をとることは考えにくい。彼がそういう性格じゃないことは理解しているつもりだ。とるとしたら、宰相に押し切られる場合か、いよいよ世継ぎに困った場合だと思う。いずれにしろ懸念はお世継ぎだから、そこをどうにかすれば良いんだろうけど――
――すぐにどうこうすることは、できない。
デル様が虚弱になって以降、そういうことはすっかりご無沙汰になってしまったからだ。デル様の「今の私はセーナに触れる資格がない」という謎理論があったし、私自身もハグやキスならともかく、具合の悪いデル様にそこまでしてほしいとは思わない。
(だから、根本的には愛妾をとったところで解決する問題ではないのだけれど……。そのあたり、宰相も少しは事情を察しているはずじゃないのかしら――?)
デル様の体調や仕事量に関しては、宰相と密に情報共有をしている。今私たちがお世継ぎどうこうという状況にないことを、普通だったら察するにあまりある立場にいるのだ。
つまり、形だけでもということなんだろうか? 愛妾をとれば、国民が少しは安堵するというパフォーマンス的なことなんだろうか。
でも、愛妾をとってしまえばいつそういう関係になってもいいわけで――。デル様はその気がなくても、積極的なご令嬢だったら――。
いやいや、無理無理無理。それだったら私がデル様を――――!
(――いや、だめ。こんな嫉妬みたいな理由で、馬鹿なことするもんじゃないわ)
宰相が動いているということは、デル様も了承しているのかもしれない。
デル様の「いよいよ」は、もう来てしまったのだろうか。
(……了承しているのかしていないのか。聞いたって無意味だわ。どっちにしたって私が口を挟むことはできないもの)
デル様、あるいは国の決定に、見苦しく文句をつけることなどできない。王妃としては、慣例に従って愛妾の一人や二人、広い心で迎え入れるべきだ。そう、私がとるべき立場は最初から決まっている。選択肢などない。
王妃の自覚を持つのだと決意したばかりなのだ。しっかりしろと、自分を叱咤する。
肺の底からため息をつき、背中を猫のように丸める。
(私は私のやるべきことをやるだけ。デル様に健康になってもらう、それに力を尽くすだけよ)
いつの間にか、抱え込んだ膝がぐっしょりと濡れていた。服の袖も色が濃く変わってしまっている。
それに気づいた私は一層悲しくなり、今日だけはと決めて、思い切り泣いた。




