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治験ってなんだい?

「えっ、まだ何かあるのかい……? 今、チケン、って言ったのかい?」


「はい、そうです。以前一回お伝えしてたはずですけど、忘れましたね? 治験っていうのは、簡単に言うと薬の安全性を確かめる試験のことです。いくら病気を治すと言っても、人体に有毒すぎるものだと薬として売り出せませんから」


 一度伝えていると聞き、分かりやすくうろたえるサルシナさん。


「ああっ、ごめんよ。ほんと、あたしゃすぐ忘れちまうんだ。悪いけど、もう一度教えてくれるかい?」


「もちろんです。サルシナさんにとっては初めてのことばかりですから、一度にすべて覚えきるのは酷ってことは分かってます。で、治験というのはですね――――」


 治験(ちけん)

 ――新しい薬を開発するとき、安全性や有効性を確認するために行う臨床試験のことである。


 治験は通常、3つの段階を踏んで進められる。


 第1段階:第Ⅰ相試験

 少人数の健康な成人志願者あるいは患者に対して、ごく少量から少しずつ「治験薬」の投与量を増やしていき、安全性を調べる。また、「治験薬」がどのくらい体内に吸収され、どのくらいの時間でどのように体外に排出されるかも調べる。


 第2段階:第Ⅱ相試験

 少数の患者に「治験薬」を使ってもらう。

 次に、効果が期待できそうな少数の患者について、本当に病気を治す効果があるのか、どのような効き方をするのか、副作用はどの程度か、また、どの程度の量や使い方が良いかなどを調べる。


 第3段階:第Ⅲ相試験

 多数の患者に「治験薬」を使ってもらう。

 最後に、より多数の患者について、効果や安全性を最終的に確認する。


「――とまあ、これが私のいた世界でやっていた治験の概要です。ただ、ブラストマイセスの技術では血中薬物濃度の測定ができないので、ざっくりとした安全性と用量の関係性を見るだけになると思いますが……」


「えらい大きな試験をするんだねえ。でも、今までの薬はこんなことしなかったじゃないか?」


「抗がん剤と狭心症薬は、元の世界で実用化されてるものだったので、こちらで再度やる必要がなかっただけです。通常は、新しい薬は全て治験をやるんですよ。実験室で菌相手にとるデータと、人間相手にとるデータとでは、結構違いがあるんです。さっきも言った通り、副作用で死んじゃったら本末転倒ですからねえ」


 腕を組み、へええと長い息をつくサルシナさん。人間って大変なんだねえ、と逆に感心している様子だ。


 サルシナさんは忘れていた治験だけれど、私の方では菌が絞られた時点で、関係者と打ち合わせ済みである。

 ブラストマイセスの治験は人間を対象にして行う。ドクターフラバスと相談した結果、魔族は除外することになった。魔族は基本的に人間よりも丈夫だし、各種耐性も高いから、人間が飲めるのであれば、魔族はまず間違いなく大丈夫だろうとの見立てである。


「――まあ、そういうことです。治験は病院主導で行うものなので、王都中央病院の担当者がリーダーになりますが、データ分析は随時私たちも参加しますからね。あとひと踏ん張り、頑張りましょう!」


「はいよ。教えてくれてありがとうね。……じゃ、そろそろ失礼しようかね。あんまり長居すると陛下に怒られちまう」


 持ってきたノートを手提げに戻し、サルシナさんは帰って行った。


 せっかく淹れてもらったのに、興奮のあまり口をつけることを忘れていたティーカップ。机の上に残されたそれに気づき、手を伸ばす。


(2つとも、残れればいいけどね……)


 すっかり冷めた紅茶を飲みながら。考える。

 製薬会社で研究をしていたから、新薬開発の厳しさは身を以て知っているつもりだ。当時の日本のデータでは、治験を通過できる確率はおよそ40%だった。つまり、二つに一つの候補薬は、なんらかの理由によって脱落するのである。


(日本よりもできる試験が少ないから、多少通過率は上がるだろうけどね。まあ、期待しすぎず行きましょう)


 期待しすぎると、ダメだった時のダメージが大きい。研究者はトライアンドエラーが基本なので、いちいちげっそり落ち込んでいては身が持たない。


 紅茶を飲み干し、お茶菓子をたいらげる。

 食器を下げてもらおうとベルを鳴らすが、誰も来ない。


(ジョゼリーヌはトイレにでも行っているのかしら)


 今日はロシナアムが公休日なので、妹のジョゼリーヌが付いてくれている。

 しばらく待ってもう一度リンリンしてみるも、やはり誰も来ない。ジョゼリーヌはお腹でも壊したのだろうか。


 今すぐ片づけないといけない物でもないけれど、不要なものが目の前にあると気になってしまうタチの私は、自分で片づけることにする。


(廊下に出れば、さすがにそこらへんに誰かいるでしょう)


 カートに食器を戻し、ぶつけないようそろりとドアを開く。


(あっ、いるじゃない!)


 廊下の突き当りの柱のところに、ピンクのツインテールが見える。誰かと話し込んでいるようだ。

 さぼりか? と一瞬疑いの気持ちが芽生える。しかし、真面目なジョゼリーヌが今更急にさぼるとは考えにくい。何か重要な情報交換をしているのかもしれない。


(ふふっ、いっちょ驚かしてやろうかしら。真面目なジョゼリーヌのことだから、私が食器を持ってきたら、驚くに違いないわ!)


 音を立てないようにカートを押しながら、20mほど先の彼女の方へ向かう。


 近づくにつれて、彼女たちの話し声が、しだいに明瞭になる。

 ジョゼリーヌと、いつもお掃除を担当してくれているメイドさんの声だ。


「――――陛下はご体調が優れないし、セーナ様は仕事が忙しいし、愛妾をとらないとお世継ぎは難しいかもしれないですわね」


「そうねぇ。魔王家の血を引く方は今上陛下しかいらっしゃらないから、頑張って頂かないと血が途絶えてしまうもの。実際、宰相様が、良家の子女にお声をかけているみたいよ」


「そうなのね!ふふ、わたくしの所にもお声が掛かるといいのだけれど。正直なところ、セーナ様はちょっと地味でいらっしゃるから、陛下もたまには肉厚のステーキを食べたくなる時があるんじゃないかと思いますのよ!」


 目の前が、真っ暗になった。


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