新しい日常
最強の魔王様は、病弱になってしまった。
「デル様、お着替えは済みましたか? 朝の薬を持ってきました」
「ああ、ありがとう。入って大丈夫だ」
ガチャリとドアを開け、デル様の私室に入る。
暖炉の前のソファに腰かけていた彼は、立ち上がってテーブルにやってくる。
ヴージェキアの事件――公的には冥界事変と呼ばれているが、それから1カ月が経った。
河童さん率いる騎士団の事後調査により、ヴージェキアは死亡が確認された。彼女が持っていた魔剣も、使用不能なぐらいに砕けていたそうだ。この世の理にしたがって、今度こそ彼女は死人となって冥界の扉をくぐったとのことだ。
そして、ドクターフラバスの読み通り、デル様は引き続き体調が芳しくない。
角が折れたことにより、身体のバランスが崩れているそうだ。人間で言うところの、自律神経失調症のような症状が出ている。
「今日の具合はどうですか?」
「ちょっとふらつきがあるな。あと、耳鳴りもする」
髪をかきあげながら、憂鬱そうに答えるデル様。白いシャツからのぞく肌は陶器のように白く、唇も青いままだ。
その頭にあるべき琥珀の双頂は、一つが根元近くからすっぱり無くなっている。
「早く体が慣れるといいのですけれどね……。はい、薬です」
生き残った角に、誕生日にあげた角カバーを装着し、薬を手渡す。
ドクターフラバスによると、角が無い状態に身体が慣れれば、体調は改善するらしい。
それまでは、こうして漢方薬で不調を緩和していくこととなった。
「ありがとう」
持ってきた丸薬を、水で一息に飲み込む。
これは牛車腎気丸という処方だ。八網としては裏・寒・虚・陽虚の状態に、五臓は腎。
今の彼の体調に最も適していると判断した。
「――もう仕事に行く時間ではないか?」
壁にかかった時計を見たデル様が、気遣わしげに言う。
「あっ、ほんとだ! すみませんが、もう出ますね。デル様、くれぐれもご無理はしないでくださいね」
「セーナが外回りをしてくれているおかげで助かっている。机仕事だけなら平気だ。……気を付けて行ってくるんだぞ」
「はい! ではまた夜に」
時刻は8時。出勤時間だ。
私の生活リズムは結構変わった。
午前中は研究所で実験をし、午後は王妃として外回りの公務をしている。
この外回り公務は本来彼の役割なのだけれど、外出できる体調ではないため、私が代わりに担当している。
この外回り公務というのは、国内各地を視察して、困ったことがないか、経済状況はどうか、なんてことを見るものだ。
――というのは建前で、宰相いわく、国民からすると『王族が領地に来てくれる』ということが重要らしく、『何をする』というのは大して重要ではないらしい。気にかけてくれている、と感じてもらうことが1番大切なのだそうだ。
(言いたいことは分かるわ。日本でも、首相とか皇族の方々が同じようなことをしていたし)
とは言え、行く以上は何か役に立つことをして帰りたい。私は政治とか経済のことはよくわからないので、薬師として各地の病人を治療する、という内容にしてもらった。
(ええと、今日の午前中は抗生物質の実験。午後はオムニバランで1名治療ね)
軽く手帳を確認し、私室の魔法陣から研究所へ飛んだ。
「サルシナさん、進捗はどうですか?」
荷物を置いて、手洗いうがい。
髪をしばり、白衣をはおる。
所長室にて朝のルーチンをしながら、助手のサルシナさんに尋ねる。私は半日しか実験ができないため、前日の結果をこうして朝イチで報告してもらっている。
「ちょうど昨日全てのスクリーニングが終わったところさ。ええと、王都の土からは30種類の菌が見つかった。スクリーニングの結果、抗生物質になりそうな菌が1つあった。次にトロピカリの土。こっちからは17種類の菌が見つかって、こっちも抗生物質になりそうなものが1つ見つかったよ!」
「ほんとですか!!」
それは、かなり上々の結果である。
彼女の報告を聞き、差し出された実験データに目を通す。
「…………うん、確かに活性出てますね! 再現性も取れているし、これはかなり期待できそうです」
「1つも見つからないかもって聞いてたからさ、こうやって見つかると嬉しいもんだね! これで薬になるってことだね?」
「そうです、と言いたいところなのですが、まだです。ある意味ここからがスタートなんです。活性成分が安全に飲めるものかは分かりません。動物を使って、毒性や副作用について調べる必要があります。化合物として安定であるか、継続的に生産できるかどうかも確認しないといけません」
「はぁ~、先はまだ長いんだね。薬一つ作るのにこんな手間ひまかかるなんて、あたしゃ知らなかったよ!」
「そうなんです。たくさんの苦労と手間ひまの上に、薬はできるんですよ。さぁ、今日の実験に入りましょうか! 活性がなかった菌とその抽出物を、凍結保存させちゃいましょう」
「はいよ~」
こうして私たちは昼まで実験を行った。
昼食を食べ、あとはサルシナさんに任せて、私は王妃視察と言う名の出張医療へ出かけた。
視察先のオムニバランでは、いぼ痔に苦しむ青年に乙字湯を処方して、大変感謝された。
そんな感じで私の新しい日常は始まった。
☆牛車腎気丸とは
原典:済生方
適応病態:太陰病期の虚証で,腰部および下肢の脱力感,冷え,疼痛,しびれなどがあり,尿意減少,夜間尿,浮腫,腰痛などが著明な場合。
弁証:裏・寒・虚・陽虚/水滞/腎
☆乙字湯とは
原典:叢桂亭医事小言
適応病態:痔、肛門脱、 外陰部そう痒症、 便秘症
弁証:裏・熱・実/瘀血/肝・肺




