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「百二」 悪い子になりたいわけじゃないんだ



 [  百 二  ] 



「先生。あのね」

 そう言いながら八歳のわたしは、度々その扉をノックしていた。


 扉のむこうから、「どうぞ」と言う声が聞こえるやいなや、幼かったわたしは室内へ飛び込んで行く。すると口元に微笑みを浮かべた先生が、いつもわたしを迎い入れてくれた。

 先生の名は杉 僚一りょういちという。

 わたしは杉先生の穏やかな笑い方が好きだった。

 先生の声が好きだった。

 ほそいフレームの眼鏡の奥で、やわらかな色を浮かべる瞳が好きだった。

 杉先生の瞳はいつだって、わたしをじっと見つめてくれていた。お姉ちゃんのついでなんかじゃなくて、わたしだけに注意をそそいでくれた。


 吉川 百花ももかだけが、今この瞬間の一番なんだよと、先生の瞳は伝えてくれた。

 もちろん。全部わたしの都合のよい想像かもしれない。

 先生はお姉ちゃんの担当医せんせいだ。お姉ちゃんと同じ病気で、すっごく困っている子ども達の先生だ。

 わたしの相手なんか、「うえええ。面倒」って思っているかもしれない。でも大切なことは、そうだとしても、杉先生がそれを態度や顔にださないって点だ。




 先生の勤める病院は、山の中腹に立っている。

 長い年月、雨風に打たれて、白だった壁は雨だれの跡を灰褐色に染めている。

 味もそっけもないコの字形の建物は、いつだってしんとしていた。

 患者は問答無用で静かだったし、病院スタッフも皆、寡黙かもくであった。わたしが時々、キャンディやラムネ菓子を探しに行く売店のおばさんでさえ、ほとんど一言も話さない。

 まるでそろって無言の行をしているような所だった。

 人々の立てる音が少ないかわりに、病院を囲む樹々を揺らす風の音ばかりが、きわだって聞こえていた。


 どおおおん。どん。


 みきを重く揺らし、風は始終吹いていた。わたしはその光景を大抵はひとりで、しんとした廊下の窓越しに見つめていた。風に重なるようにして、たかく鳴くしわがれ声があった。

 トリだ。

 トリの姿は見たことがない。いつも声ばかりが樹々の合間から、風にのって聞こえてきた。


 ジェー ジェー ジェー。


 一人で居ると、聞くだけで寂しさがつのってくるような声だった。



 そこを病院と地元の人々は言っていたし、わたしもそう思っていた。

 正確には違うのだと、教えてくれたのも杉先生だ。



「ひとつの病症について長期に患者を収容し治療を施す。それが療養所です」


 杉先生は重みのある声で、わたしに説明してくれた。

 先生の声を耳にすると、それだけでわたしは大層安心できた。励まされると、先生を疑いもなく信じられた。先生の声は、よく効くお薬のようだった。


「じゃあここは、つぶりの療養所なのね?」

 わたしの質問に、先生はおおきくうなずいた。


 つぶりとは、お姉ちゃんの頭のなかに住んでいる、とても厄介で不気味な左巻きのカタツムリだ。

 螺は小指の爪よりももっと小さい。足で踏んづけたら、すぐ死んじゃうだろう。なのに耳から体内にはいられたら最後。人間は螺に負けてしまう。

 螺に脳を支配されて、ずうううっと螺が創りだすたのしい夢を見続ける。

 むしゃむしゃむしゃ。螺は子供に夢を見させながら、こどもを喰らう。

 わたしと同じ顔。同じ髪。同じ背丈の双子のお姉ちゃんーー千花ちかちゃんは、わたしがこうして先生と過ごしている間にも、少しずつ食べられていっている。


「そうです。ひだりの螺乖離症つぶりかいりしょうの専門医療機関です」

 先生はそう言うと、白衣のポケットからチョコレートの小箱を取り出して、「どうぞ」わたしへそっと握らせてくれた。


 先生はわたしが顔をだすと、決まっていつもおやつや、ジュースをだしてくれる。

 診察で普通おやつは出ない。だから甘いおやつは、特別な子どもである証拠のようで、わたしは内心得意であった。

 その日のおやつは、可愛らしい三角錐のアポロチョコ。

 わたしと千花ちゃんの好物だ。


「そこに座って」

 次に患者用の丸椅子を指差される。丸椅子は、腰かけ部分がくるくる回るやつだ。

 八歳のわたしは座ると決まって、右へ左へと回してしまった。杉先生は怒らない。注意もしない。


「なんで?」

 と、一度尋ねてみたことがある。


「怒られたいのかい?」

 杉先生は面白そうに、そう聞き返してきた。


 まさか! そんなわけない。無視されるよりは怒られる方が良いけれど、一番は良い子だね。大好きって褒められる事だ。

 わたしは大人に褒めてもらいたくて、しょうがない子どもだった。


「私は百花さんの気持ちを知りたいのです。だからここで百花さんがしたり、話したりする事は全て必要で、理由があるのです。椅子を回したい気持ちになっても。ならなくても。診察室ココでは、怒る要因にはなりません」

「なんだ。怒られないのは……わたしが良い子だからじゃないんだ」

 落胆のにじんだわたしの声色を、先生は決して聞きのがさない。


「百花さんは良い子になりたい?」

「良い子だって思われたい」

「誰に?」

「……皆に」

「みんな」

「うん」

「世界中のひとにそう思ってもらうのは、難しいかもしれないね」

「少し。すこしの人で良いの」

「すこし」

「そう」

「例えば誰かな?」

「ママとか。パパ。……杉先生とか」

「私もかい? 家族でも友達でもないのに?」


 先生は大袈裟に、肩をすくめてみせた。

 その動作はわたしに、パパの肩車を思いださせた。

 先生ほどじゃあないけれど、パパも背が高い。わたし達は、パパの肩車が大好きだった。

 着ぐるみショーや、花火大会。そういう日は、いつも競って、「肩車! かたぐるま!!」って、おねだりをしていた。

 けれどもう、パパは肩車をしてくれない。

 あの日から。

 パパの肩はしゅんと下がって、背中だって丸まったままだ。

 わたしがじっと先生の肩のあたりを眺めていると、先生は、「どうしたの?」って聞いてきた。

 流石に甘ったれのわたしでも、先生に肩車はねだれない。して欲しい気持ちはあるけれど、そこまで図々しくはなれない。

 第一先生はパパじゃない。


「ううん。なんでもない」

 わたしの言葉を、先生はカルテに記録する。


 先生とわたしは仲良くお話ししていても、お友達じゃない。家族でもない。そんなのわたしだって知っている。前に一度。「ももちゃんって、呼んで良いよ」そう言った。

 お友達みたいに呼んで欲しかったけれど、断られた。わたしは先生の『眠っていない』数少ない患者で、これは楽しいおやつの時間じゃなくて、カウンセリングだ。


 パパの背中が丸まって。

 ママがあんまり笑ったり怒ったりしなくなったのは、千花ちゃんがねむり姫になってからだ。

「ねむり姫」っていうのは、パパがつけた千花ちゃんの呼び名だ。パパは千花ちゃんの掌を握っては、「パパのねむり姫」って呼びかけていた。


 六歳から八歳までの二年間。千花ちゃんは自宅でパパとママと居た。まだもしかして。ってパパ達が、希望をつないでいた時期だ。

 千花ちゃんみたいに、ずううっと入院しているのはイヤだけど、お姫様の名前はわたしも欲しかった。白雪姫とか。シンデレラとか。けれどパパもママも、わたしをお姫様の名前で呼んでくれない。それどころか、「百花」って呼んでもくれない。


「わたしが悪い子だからだよ」

 口を尖らせて、わたしは主張する。


「百花さんが?」

 驚いたように、先生が目を丸くする。けれどそれはあくまでもポーズだ。驚いた風に演じているのだ。今のわたしになら分かるけれど、当時のわたしには無理だった。

 先生の大袈裟な表情に、わたしは気を良くしていた。


「そうだよ」

「私にはそう思えないですけど。悪い子というのは、誰の考えなのかな? 百花さんの? それとも誰かに言われたの?」

「別に……言われたわけじゃない」

「そうなんだ」

「こんな事。言っちゃあ駄目なのかな」

「まさか! そんな事ないですよ」

 先生が安心させるように言う。


「そう?」

「ええ。ここでは百花さんは自分の考えを、自由に言っていいんです。むしろそうして欲しいんです」

「わかった」

 わたしは頷くと、ゆっくりと下唇を舐めた。


「悪い子に……なりたいわけじゃないんだ」

 そうだ。わたしは悪い子には、なりたくない。

 良い子にならなくちゃいけない。わたしはずっとそう思っていたし、願っている。


「良い子になりたいけれど、上手くいかないの」

「そうなんですか?」

「うん。だって……どうすれば良いのかわからない」


 わたしはうつむいて、膝のうえに置いた両の手を必要以上に、こねくり回した。

 良い子になるのは難しい。けれど良い子にならないと、わたしはずっと家族のなかで、おみそのままだ。おみそはイヤだ。今だって……

 言葉につまったわたしに向かって先生が、

「百花さんが悪い子だなんて、私は思いません」

 屈み込むとわたしの目をまっすぐに見て、そう言ってくれた。


「大変聞き分けの良い。良い子ですよ」

「そうかなあ……」

 わたしは褒め言葉が嬉しくて、丸椅子の上で、くねくねと躯を揺らした。そうすると椅子も一緒に左右に動く。


「それとも悪い事を、してしまったんですか?」

「うーーん」

 先生の質問に、わたしは首をかしげながら、ぐりんぐりん椅子を動かす。

 以前のママの前でしたら、「落ち着きのない!」って叱られるところだ。

 今のママはたぶん怒らない。先生はゼッタイ怒らない。

 無言の拒否も、先生にとっては立派な返事のひとつらしい。だからわたしは診察室にいる間、ずいぶんいっぱいの、無言の拒否をしてしまう。この時は、「したのかも。……したんじゃないかなあ」

 すっとぼけたように、そう言った。


「そうなんですか?」

「うーーん。そうかも」

 だってママはわたしに笑ってくれない。

 髪もとかしてくれない。千花ちゃんのながい髪の毛は、いつもブラッシングしてあげているのに。ほったらかしのわたしの髪の毛は、もじゃもじゃで、いつだってからまっている。

 もじゃもじゃ頭をママは撫でてくれない。それってわたしが、悪い子だからじゃないのかな。わたしはママの掌が欲しい。

 やさしく擦ってくれる掌を求めている。でも誰もわたしを愛してくれない。


 わたしは、いらない子供なんだ。




人間の耳の穴から脳へとはいりこみ、宿主を支配する寄生生物「つぶり」の噺です。


つぶりの噺で、「夢路のつぶり(短篇)」と「未熟なたまごを持つふたり(連載完結済み)」があります。そちらを未読の場合でも、本作のみ独立して読めるようになっています。


杉先生は「夢路のつぶり」にも登場しています。

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