1 木犀の薫る朝⑥
書道教室として使われている、一階の大きな和室へ入る。
妙に殺風景な気がして、あ、そうか、机の数が極端に少ないんだと碧生は思う。
一般の部に来ている人が何人かは知らないが、幼児から小中学生の生徒の数より少ないに決まっている。
そうなると用意される机が少なくて当然だが、いつもの状態が無意識にあるので、なんだか違和感があった。
机のひとつの前に座って道具類を並べている、五十代半ばほどのおじさんが顔を上げた。
彼は柔らかい笑みを浮かべると、軽く会釈した。
「やあ。キミが、野崎銀雪書道教室の希望の星、かな?」
ノサキギンセツショドウキョウシツノ、キボウノホシ?
意味のわからない外国語を聞いたような気分で、碧生はぼんやりとおじさんの顔を見返した。
「そうそう」
銀雪先生が後ろから嬉しそうに応える。
「十年に一人、現れるか現れへんかの逸材やで、彼は。まあ、モーツァルトのように始めてもモーツァルトになれる子供は少ないとかなんとか、どっかで聞きかじったことがあるから彼がホントの本物になれるかどうかは今後にかかってくるんやけど。それでも、このヒトにはそれだけの実力と伸びしろがあると私は見てます。ショウエイさん。先輩として彼の指導、ヨロシお願いしますね」
「いやいや、私には指導するだけの実力ありませんし。同じ門下生として一緒に頑張るだけですよ。ねえ、キミ」
初対面のおじさんに笑顔と一緒にそう言われ、碧生は目を白黒させる。
「……は? あの、えっと?」
意味がわからず困惑している碧生へ、おじさんはややきまり悪そうに眉を下げた。
「ああ、ごめん。自己紹介もまだやったな。おじさんはここの一般の部に、年数だけは長いこと通ってる落ちこぼれの生徒やねん。名前は野崎泰造、一応は雅号もあって、『松英』……松竹梅の『松』に英語の『英』で、松英。これからよろしくな」
おじさんに再び軽く頭を下げられ、碧生は姿勢を正す。
「あ、ああ、あの、はい。ボクは結木碧生といいます。よろしくお願いします」
反射的に答えたものの、やはりまだよくわからない状況で、碧生はぼんやりしていた。
「……ケッ」
少し離れた机の前に座ったナンフウが面白くなさそうにしているのが、碧生の視界の隅で認められた。
「碧生くん」
先生に声をかけられ、振り向く。
彼女はいつもの場所――広めの座卓いっぱいに大きな下敷きを広げ、その上に置いた大きな硯に朱墨を満たし、数本の太さの違う筆を整然と並べた、通称『先生の席』――に、いつもと同じくきちんと座っていた。
目顔で呼ばれたので碧生は先生のそばへ行き、促されるまま対面に正座する。
「まあこんな感じっていうのか、日曜日の一般の部は生徒さんがホンマに少ないねん。もちろん松英さん以外にも生徒さんはいてはるけど、仕事の都合とか用事とかで、精勤に来られへんおヒトも多いし。今日も二名、欠席の連絡受けてますし、今後も多分こんな感じやと思います」
そこで先生は、なんだか嬉しそうにニヤッとした。
「せやからこそ。ゆっくり時間とって、腰据えてじっくりと書けると思います。さっきも松英さんが言うてはったけど、碧生くんはウチの教室の希望の星、それこそ十年に一人クラスの逸材やから……」
「あ、あの先生」
碧生は思わず先生の言葉をさえぎる。
「それ……本気で言うてはります?」
「え? 本気に決まってるやん」
心外そうに目を見張ると、先生は言う。
「せやなかったら、特別枠で出品するか?なんて、最初から私、言わへんで」
それは……そう、かもしれない。
なにしろ特別枠へ出品できること自体が、色違いポケモン並みのレアさだ。
しかしここまで正面切って褒められるというかおだてられると、そういうのに慣れていないモブキャラ人生の碧生としては、どっちを向けばいいのかわからない気分になる。
そこでふと、先生は表情を改めた。
「かと言うて。今のままの碧生くんに課題や問題点がない訳やないで。もうひとつレベルアップ、あるいはもう一皮剥かんと、書家とはいえんやろうな。お習字得意な中学生で終わるか、脱皮して中学生なりの書家になれるか、今、その瀬戸際に碧生くんはいてはると思ってます」
(は? しょ、書家? 書家!)
思いがけないワードが飛び出してきて、碧生は絶句する。
先生はふっと軽く笑んだ。
ちょっと意地の悪そうな、挑発的な笑みだ。
「ナンフウくんが『南風』くんなんは。彼が、子供なりに『書家』のレベルに達してるからやで。雅号とゆうのんは、まあ名乗ろうと思ったら、別に誰でも名乗れるけど。基本、私は書家ですっていう自負というか、アイデンティティやからね」
視界の隅でナンフウが、得意そうにニヤッとしたのが仄見えた。
わかりやすい男である。
「私としては今回の展覧会で、ぜひ、碧生くんに書家のレベルまで駆け上がってほしいと思ってます。そのために一生懸命、指導させてもらいますし。……さて。碧生くん。書きたい題材、見つかった?」




