2 青い空、白い大地③
ふと気付くと碧生は、独り、霧のような靄のようなものに覆われた真っ白な大地の上に立ち尽くしていた。
見上げると、雲ひとつない青い青い空が何処までも広がっている。
(……クソッ)
舌打ちをする気分で彼は奥歯をかみしめた。
そう、これはいつもの悪夢だ。
この夢を初めて見たのは、碧生がまだ小学校へ上がる前の幼児だった頃。
ある冬の初めに、風邪をこじらせたかインフルエンザだったのか、高熱が出たことがある。
両親がかわるがわる様子を見にきてくれていること、身体を抱き起し、何度か水か何かを飲ませてくれていたことなどを、碧生もぼんやりわかっていたが、ふわふわしていて現実感はなかった。
それは不意に来た。
あ、まずい、と思った瞬間、碧生の身体は自分の意思とは関係なくピンとこわばり、がくがく震えだした。
「あおい!」
切羽詰まった母の声を聞いたのまでは覚えている。
そこから先、断ち切られたように記憶がない。
ふと我に返り、碧生は茫然とする。
彼は独りで、何処とも知れない、正体不明の真っ白なもの……霧のような靄のようなものが果てしなく広がっている場所に立っていた。
訳がわからず彼は、辺りを見回し、次に上を見上げた。
雲ひとつない、青い青い、何処までも青い空が、こちらも果てしなく広がっている。
「……おかーさん」
小さな声で呼んでみたが、当然、答えはない。
「おとーさん。おかーさん。どこ? どこ行ったん? おかーさん。おとーさん。おかーさーん!」
意味もなくうろうろと歩き、彼は両親を呼ぶ。
しかし声は広がらない。
果てのない空と大地に、瞬く間に吸い込まれ消えてしまう。
残響さえない。
彼はべそをかきながら、頭を抱えてしゃがみこんでしまう。
どのくらいそうしていただろう。
完全な無音の恐ろしさに気が狂いそうになる頃、はるか遠くから何かが近づいてくる気配がした。
碧生はギクッと身を揺らし、そっと頭を上げてみた。
はるかな果ての地平線に、ナニカがいる。
とんでもないスピードでこちらへ近付いてくる。
本能的にわかる。恐ろしい、ナニカだ。
(早く、早く、逃げなアカン!)
そう思うのに体は動いてくれない。
空唾を吞み、碧生は、大地に縫い付けられたかのように硬直していた。
『ナニカ』はみるみる近付いてくる。
白っぽい、大きな塊だ。
さらに近付いてくる。
馬、だろうか?
白い、長い四つの脚で駆けてくる大きな獣。
(馬、と違う。……鹿?)
図鑑や絵本で見た『鹿』に近い姿をしている。
ただ鹿にしてはあまりに巨大だ。
それこそ馬くらいの大きさに感じる。
そして、毛皮の色は暖かそうな茶色ではなく、冷気さえ感じる白……青みがかっているほど完璧な、混じり気のない白だった。
どうやら牡鹿らしく、幾つも枝分かれした立派な角を持っている。
が、何故か左側の角が半分ほどのところで、無残に折れていた。
真白の大鹿は少し離れた場所に静かに立ち止まると、硬直している碧生をじっと見つめた。その双眸は、氷河の割れ目にも似た冷ややかな薄青だ。
「お前、死ぬつもりか?」
不意に鹿は、興味なさそうな口調で言った。
男のものとも女のものともつかない不思議な声だ。
「お前が死のうが生きようが、我には関わりのないことだが。ヒトは死んだら生き返らんぞ。わかっているのか?」
「……え?」
かすれた声で、問うように碧生は鹿を見上げ……。
その後の記憶はない。
次に気付いた時、碧生は、白いベッドの上に寝かされていた。
熱性けいれんを起こして意識を失い、両親が呼んだ救急車で病院へ担ぎ込まれたのだと、ずいぶん後になって碧生は知った。
その時は、病気のせいで変な夢を見たのだろうとぼんやり納得していた。
が、以来彼は、不定期でこの奇妙な夢を見るようになった。
夢を見るのに特別な予兆や決まりごとはなさそうだ。
夢の記憶が薄れ、ほぼほぼ忘れた頃に突然、碧生はこの奇妙な夢を見るのだ。
まるで、忘れるなと戒めるように。
足許は白い、霧のような靄のようなものに覆われた大地。
見上げると雲ひとつない真っ青な空。
音らしい音のない、広い広い不思議な空間。
そして地平線の彼方から現れる、巨大な白い鹿。
余計なものが一切ないすべてが美しい景色の中、神のようですらある白い鹿も、やはり美しい。
美しいが、恐ろしい。
見つめているだけで命を奪われそうな、そんな存在だと感じる。
「お前、死ぬつもりか?」
そして必ずこう問われる。
おそらくここは、生きている者が来てはいけない場所なのだろうと、数回ここで白い鹿に会い、碧生は覚る。
その問いに彼は今のところ、ちゃんと答えた経験はない。
いつもその問いの直後、まるで水底から浮かび上がるように、ゆっくり夢から覚めるから。
今日もそうだ。
白い大地に青い空。
地平線の彼方から現れる美しくも恐ろしい白鹿。
『お前、死ぬつもりか?』の問い。
しかし今日、白鹿はいつもと違うセリフを付け足した。
「何度もこんなところまで来て、死なずにここまで育ったのなら。……小僧。マツリの季節だ。来よ」
「は?」
意味がわからず彼は、ポカンと白鹿を見返した。
「あおいー! 碧生、ごはんやでー!」
現実的な、あまりにも現実的な母の声が遠くから響いてきた。
碧生はゆっくりとまぶたを開く。
薄暗い部屋は、包帯に滲む血のような夕焼けの、残照に染まっていた。




