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罪と罰の天秤  作者: 一布
第二章 金井秀人と四谷華
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第二十三話① 誰もが皆できるわけじゃない(前編)


 訓練室で、藤山と面談をした後。


 亜紀斗は一時間ほど、その場から動けなかった。麻衣に会いたいと思っているのに。早く仕事を終わらせて、彼女のところに駆けつけたいのに。


 それなのに、動けない。体が動かない。


 重く粘着質な泥沼に捕らわれたようだった。立ち上がろうとしても、足が思うように動いてくれない。心の乱れが泥沼となって、全身の自由を奪っていた。


 咲花の姉を殺した犯人が、また罪を犯した。彼女の気持ちを考えただけで、どうしようもなく辛かった。でも、当の本人の辛さは、亜紀斗の比ではないはずだ。


 胡座をかいたまま、亜紀斗は拳を握り締めた。


 ――俺は……。


 自分は、何をどうすればいい? 先生や元婚約者に報いたい。だからといって、咲花のような被害者遺族の悲しみや苦しみも無視したくない。


 加害者全員が償いの道を歩めるなら、胸を張って自分の信念を貫き通せる。でも、現実はそうではない。


 咲花の姉を殺した犯人。彼等の矯正を担当した者が、いい加減な仕事をしていたのかも知れない。だから、再び犯罪に走ったのかも知れない。しっかりとした矯正をしていれば、もしかしたら、再犯など起こさなかったのかも知れない。


 そこまで考えて、亜紀斗は嘲笑した。これは、自分の信念が正しいと思いたいだけの、言い訳だ。


 どんなに真摯に犯罪者を更生させようとしても、更生しない者だっている。亜紀斗自身が、それをよく理解している。亜紀斗自身が関わった犯罪者だって、全員が全員、しっかりと償いをしているわけではない。


 犯罪者を更生させられなかった理由として、自分の力不足もあっただろう。自分には、先生ほどの能力はない。人を諭し、導く力。


 力不足を自覚しながらも、必死だった。だからこそ、亜紀斗と関わった一部の犯罪者は、更生して償いを続けている。


 自分一人では答えの出せない自問。どうしたらいい? 何をすればいい? 何ができる? 誰にできる? 

 

 自分に問い続けて、答えになっていない答えを出し続けて。


 納得など到底できないまま、亜紀斗は、なんとか立ち上がった。


 時刻はもう、六時半になっていた。定時を過ぎている。


 訓練室から出て、特別課に戻った。夜勤の隊員がすでに出勤していた。日勤の隊員は、全員帰宅していた。


 藤山はまだ残っていた。残業だろうか。


「お帰り、亜紀斗君。遅かったねぇ」


 藤山の様子は、いつも通りだった。胡散臭い笑顔。間延びした口調。訓練室で面談をしたときの姿が、嘘のようだった。


 いっそ、嘘か幻であってくれればよかった。藤山のあの姿も、再犯に走った犯人のことも。


 でも、現実だ。亜紀斗にとって辛い、咲花にとってはさらに辛い、現実。


「すみません。急いで仕事片付けます」


 仕事の報告書を作成する。今日一日の動き。事件現場に到着したときのこと。自身の所見。様々なことを書き込む。


 パソコンで作成した報告書を、藤山に送信した。


 時刻は、午後八時を過ぎていた。

 藤山は、まだ残っていた。


 亜紀斗は席を立ち、隊長席に足を運んだ。彼に向って頭を下げる。


「遅くなってすみません。終わったんで帰ります」

「うん。お疲れ様。捜査一課のヘルプも終わったし、明日からは通常業務でお願いねぇ。あと、ヘルプで停止してた訓練も再開するから。実戦訓練も含めて」

「わかりました。お疲れ様です」


 終業の挨拶をして、更衣室で私服に着替えて、亜紀斗は特別課を後にした。一階に降りて、道警本部から出た。


 外はもう暗かった。たくさんの人が周囲を歩いている。


 外に出た直後に、スマートフォンを取り出した。通話履歴を表示させる。履歴には、麻衣の名前しかなかった。


 通話アイコンをタップした。四回目のコール中に、麻衣が出た。


『もしもし?』


 歩きながら通話する。


「ああ、麻衣ちゃん。お疲れ。今、仕事終わった」


 できるだけ普通に話したつもりだった。いつもと変わらない口調でいるよう、心掛けた。けれど、麻衣はお見通しだった。


『亜紀斗君、どうしたの? 凄く疲れてるみたい』


 言った後、麻衣はすぐに訂正した。


『ううん。疲れてる感じじゃないね。落ち込んでる、って感じかな。少しニュアンスは違うかも知れないけど』


 こんなにも重い気分なのに、亜紀斗は苦笑してしまった。


「凄いな、麻衣ちゃんは」

『何が?』

「何か、見抜かれてる、って感じだ。できるだけ普通に話そうとしたのに」


 そういえば、と思い出す。付き合う前から、麻衣はそうだった。亜紀斗が落ち込んでいることを、簡単に見抜いた。


 電話の向こうで、麻衣もクスリと笑った。


『亜紀斗君のことだから、分かるんだよ』


 一瞬前に苦笑したのに、亜紀斗は、今度は泣きそうになった。それが嬉し涙なのか、悲しい涙なのか、その両方なのか。亜紀斗自身にも分からなかった。


「なあ、麻衣ちゃん」

『何?』

「今から行ってもいいか? 明日、仕事なんだろうけど」

『いいよ。来て。泊っていって』

「うん。ありがとう」


 麻衣に会いたかった。会ってどうしたいのかなんて、分からない。ただ、とにかく会いたい。


「じゃあ、急いで行く」

『そんなに慌てなくていいよ。ご飯は用意する?』


 クロマチン能力者は、例外なく力士並みの大食漢だ。空腹感は確かにある。だが今は、何も食べる気にはなれなかった。


「いや、いいや。見抜かれてるみたいだから言うけど、なんかさ、食べる気にもなれなくて」

『わかった。じゃあ、待ってるね』

「ああ」


 会話が終わり、電話を切ろうとした。スマートフォンを耳から離す直前に、麻衣が言った。


『ウチに来たら、たくさん泣いても大丈夫だから。だから、ウチに来るまでは、頑張って堪えてね』

「……わかった」


 本当に、自分のことをわかってくれているんだな。電話で話しただけなのに。


 涙を必死に堪えて、亜紀斗は電話を切った。ポケットにスマートフォンをしまって、早足で歩いた。


 地下鉄駅に着き、乗って、麻衣の家の最寄り駅で降りた。


 駅から出ると、また早足で歩いた。駅から歩いて七、八分の麻衣の家に、ほんの三分ほどで着いた。五階建ての、オートロックのマンション。


 合鍵は持っている。オートロックを解錠し、エレベーターで三階まで昇った。ドアの鍵を開け、玄関に入った。


「ただいま」


 自分の家でもないのに、麻衣の家に来ると「ただいま」と言うようになっていた。


 リビングに入ると、麻衣が出迎えてくれた。


「お帰り、亜紀斗君」


 麻衣がこちらに来た。すぐ近くまで寄ってきて、亜紀斗の顔をじっと見てきた。目が大きい、可愛らしい童顔。顔立ちは幼いのに、中味は大人びている。少なくとも、亜紀斗よりはずっと。


 麻衣の手が、亜紀斗の頬に触れた。少しひんやりしていた。それなのに、温かかった。感触が気持ちいい。


「お疲れ様、亜紀斗君」


 麻衣が微笑んでくれた。ねぎらうように。包み込むように。


 途端に、亜紀斗の目から涙が零れた。流れ落ちる涙が、麻衣の両手を通ってゆく。涙でボヤける視界の中で、彼女の姿だけはしっかりと見える。


 どうして、と疑問に思った。


 どうしてこんなにいい女性(ひと)が、俺なんかを好きになってくれたんだろう。どうして、俺を好きになってくれる女性は、素晴しい人ばかりなのだろう。鋭く察してくれる。優しく微笑みかけてくれる。強く支えてくれる。温かく包み込んでくれる。


 亜紀斗は麻衣を抱き締めた。腕の中にすっぽりと収まってしまうほど、彼女は小柄だ。小柄なのに、こんなに柔らかいのに、亜紀斗の気持ちを受け止める強さを感じる。


「笹島が、また犯人を殺したんだ」


 涙声で伝える。今日のできごと。咲花がまた犯人を殺した。その犯人は、今まで何人も殺している奴だった。自分が犯した殺人を正当化し、自身の正義に酔いしれている奴だった。


 救いようのない犯人。


『死ぬべき奴だった。だから死んだ。それだけでしょ』


 咲花のその言葉は、決して、的外れな戯れ言ではない。むしろ、彼女が口にすることで、言葉の重みが増している。


 話を聞いた麻衣は、亜紀斗の背中に手を回してきた。亜紀斗の背中を優しく撫で、ポンポンと叩いてきた。


「亜紀斗君、とりあえず家の中に入ろうか。疲れてるでしょ?」


 コクリと、亜紀斗は頷いた。麻衣に寄り添われて、リビングに入った。座卓テーブルの前に座り込んだ。


 麻衣は、亜紀斗の右隣りに座った。亜紀斗を宥めるように、背中をさすってくれる。


「ねえ、亜紀斗君」


 亜紀斗の背中から手を離さずに、麻衣は、端的に疑問をぶつけてきた。


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