第二十話 振り出しよりも後退
亜紀斗が現場に着いたのは、午後二時四十一分だった。
南区定山渓温泉エリア。そこにある民家。どこにでもある一軒家だった。
周囲にはパトカーが数台停まっていて、家の周囲にはバリケードが張られていた。多数の警察官が、それぞれの仕事をしている。
数台のパトカーに混じって、警備車が停まっている。藤山達が乗ってきたのだろう。
目の前に広がる状況から考えて、この家で事件が起こったのは間違いない。亜紀斗はそう断定した。
では、犯人はどうなったのか。犠牲者は出たのか。
亜紀斗は周囲を見回した。
家の中から、数人の刑事に寄り添われて、四人の人物が出てきた。老夫婦と思われる男女。中年の女性と、小中学生くらいの女の子。
彼等の後ろに続いて、見知った顔が家から出てきた。藤山と二人の隊員。最後尾に咲花。
咲花の表情は、いつもとどこか違っていた。ここ最近の彼女とは、何かが違う。反面、亜紀斗は、今の彼女の表情をどこかで見たことがある気がした。既視感、などという曖昧なものではない。明確に記憶にある、彼女の表情。
いつもと変わらず、咲花は美人だ。気の強そうな美人。鋭い目付きには、凍るような冷たさがある。一文字に結ばれた口元と通った鼻筋は、人形のようですらある。
亜紀斗は思い出した。今の咲花は、二年前と同じ顔をしているのだ。亜紀斗と初めて出会った頃。一切の情もなく凶悪犯を殺す、美しい殺人人形。
――まさか。
口の中で呟くと、亜紀斗は、犯行現場の家に駆け込んだ。
すれ違い様に藤山が声を掛けてきた気がしたが、聞こえないふりをした。
玄関に入ると、ところどころテープで仕切られていた。目の前には、二階に続く階段と、奥の部屋に続く廊下。
奥の部屋から、人の声が聞こえた。この場に駆けつけた刑事の声だと推測できた。
亜紀斗は靴を脱ぎ、短い廊下を駆け抜けた。奥の部屋に飛込み、そこに広がる光景を目にした。
奥にある部屋は、ダイニングとリビングだった。犯人が侵入してくる前に、家族で昼食を食べたのだろう。まだ洗われていない食器が、シンクの中に複数あった。
ダイニング付近には、食卓テーブル。椅子が四つある。四人家族。この家には、先ほど家から出てきた四人で住んでいたのだろう。四人のうち二人は、母と娘に見えた。では、父親は? シングルマザーなのだろうか。
食卓テーブルの奥には、リビングが広がっている。ソファーにテレビ。テレビの近くには、ゲーム機がある。
周囲にいるのは、刑事だけのようだ。鑑識はまだ到着していないらしい。事件発生直後だから、当然といえば当然か。
リビングには、三人の刑事。
その三人の刑事に、囲まれるようにして。
リビングに敷かれた、カーペットの上に。
一人の男が、仰向けに倒れていた。
男の体の所々から、血が流れていた。血が、カーペットに染み込んでいる。出血の状況から、どこを撃たれたのかが分かる。両腕と両足。右胸――肺のあたり。
床に倒れている男は、明らかにこと切れていた。目が大きく見開かれ、頬には涙の痕がある。口からは、血と泡が溢れている。股間のあたりには、失禁と脱糞をした形跡があった。そういえば、と気付く。リビングの中が、かなり臭う。
男の傍らには、銃が転がっていた。今回の事件の、犯人である証拠。
犯人の死に顔は、苦悶と苦痛に満ちていた。あまりの苦痛に、涙さえ流したのだろう。死に際には、糞尿を垂れ流した。
犯人がどんなふうに殺されたのか、容易に想像できた。まず、両手を撃ち抜かれて銃を手放した。次に、両足を撃ち抜かれて逃走が不可能になった。最後に、肺を撃ち抜かれて呼吸を封じられた。両腕両足の激痛と呼吸困難の苦しみを味わいながら、犯人は死んだのだ。
明らかに、意図的に苦しめる殺し方。肺を撃ち抜く殺し方にも、亜紀斗には覚えがあった。
「すみません」
自分の想像の答え合わせをするため、亜紀斗は、周囲の刑事に声をかけた。
「この状況になった経緯を教えてください」
三人の刑事は顔を見合わせた。少しの間をおいて、一番年上と思われる刑事が口を開いた。
「私達がここに到着したとき、すでに犯人は、この家を襲撃していました」
彼等は、咲花が同行していた捜査チームの刑事のようだ。
「家の中から銃声が聞こえて、笹島さんが、すぐにこの家に突入したんです」
犯人が撃った銃弾は、家の娘の足をかすめただけだったそうだ。
咲花に遅れて、同行している刑事達が突入してきたとき。
すでに犯人は、両手を撃ち抜かれていたという。
激痛に苦悶しながらも、犯人は、咲花から逃げようとした。
咲花はさらに外部型クロマチンを放ち、犯人の両足を撃ち抜いた。最後に、肺を撃ち抜いた。
両手足を撃ち抜かれ、さらに肺も撃ち抜かれた犯人は、ミミズのように体をくねらせ、悶え苦しんでいたという。涙を流し、口から血と泡を吹き出した。やがて、体の動きが小さくなり、痙攣を始めた。失禁と脱糞をし、股間を濡らした。そして、完全に動かなくなった。
「笹島さんは、『犯人が被害者を撃とうとしたから、動きを封じようとした。そうしたら、狙いが外れた』と。そう、言ってました……」
亜紀斗に説明する刑事は、それほど若くない。川井より年上だろう。年齢に応じた経験があり、凄惨な事件現場を見たこともあるはずだ。そんな刑事が、言葉を詰まらせていた。それほど、犯人の死にゆく姿は衝撃的だったのだ。
最後に、ポツリと刑事が漏らした。咲花は、もがき苦しんで死んでゆく犯人を見ても、表情ひとつ変えなかった――と。
しばし、亜紀斗は呆然としてしまった。
最近の二件の事件では、咲花は犯人を殺さなかった。変わってきたのだと思っていた。考え方も、彼女自身の心持ちも。
だが、違った。咲花は何も変わっていなかった。
咲花の過去を知ってから、亜紀斗は、彼女への見方を変えていた。彼女が凶悪犯を殺すのは、単なる独善的な理由からではない。彼女自身が被害者遺族であり、大切な人を奪われる痛みを知っているからだ。だから、彼女の行動に賛同はできなくても、攻撃的な否定はしなくなった。彼女が嫌いということに変わりはないが。
最近の事件で、咲花が犯人を殺さなくなって。亜紀斗は、嬉しかった。つい、麻衣にそのことを話してしまうくらいに。
それなのに。
亜紀斗はリビングから飛び出した。家の外に駆け出し、咲花を探した。周囲を見回すと、藤山達が乗ってきたであろう警備車は、すでになかった。
そういえば、と思い出す。家に駆け込むときに、藤山が自分に声を掛けてきた。
近くに、川井の姿を見つけた。
亜紀斗は彼に駆け寄った。
「川井さん」
「佐川君。藤山隊長から伝言だ。先に戻ると言ってたよ」
再度、亜紀斗は周囲を見回した。咲花の姿はない。
「笹島は?」
「藤山隊長達と一緒に、警備車に乗って帰った。咲花の仕事は、言ってしまえば刑事の護衛だからね。危険性がなくなれば、本来の仕事に戻るわけだから」
よく見ると、川井は、どこか暗い顔をしていた。その理由は、すぐに分かった。
「犯人が、家の中で死んでいたんだろう? 咲花が殺したみたいだね」
言葉もなく、亜紀斗は頷いた。何も言えなかった。川井も、きっと、咲花が犯人を殺さなくなって嬉しかったはずだ。亜紀斗と同じように。
――いや。
自分の言葉を、亜紀斗は胸中で否定した。自分と同じように、ではない。咲花が犯人を殺さなくなって、川井は、亜紀斗以上に喜んでいたはずだ。好きな人が誰かを殺し続けるなんて、辛いに決まっている。
もしも、と思った。もし川井が、咲花の過去を知っているなら。彼女が凶悪犯を殺す理由に、気付いているのなら。咲花の姉を殺した犯人達を、どう思っているだろう。
考えるまでもない。間違いなく、憎んでいるはずだ。川井は、本来なら、咲花と結婚していた。結婚して、幸せに生きていた。少なくとも川井は、咲花と婚約していた当時、幸せな未来を思い描いていたはずだ。咲花の姉を殺した犯人達は、そんな未来を滅茶苦茶にしたのだ。殺しても殺し足りないほど憎いだろう。
「佐川君」
川井に呼ばれて、亜紀斗は我に返った。
「もうすぐ鑑識が来るらしい。ここは井川班に任せて問題ないらしいから、俺達も帰ろうか」
井川班――咲花が加わっていたチームだ。
「……はい」
やり切れない感情が、亜紀斗の心を満たしていた。どうして咲花は、また犯人を殺したのか。しかも、今回の犯人は単独犯だ。その一人を殺してしまっては、事件を起こした動機などを聞き出すこともできない。
以前の咲花は、犯人を殺す場合であっても、証言させるべき一人は生かしていた。それなのに今回は、証言をすべき者を殺した。そういう意味では、以前よりも見境がなくなったと言える。
やり切れない思いを抱えながら、考え込む。一体、咲花に何があったのか。何が、彼女の心境を変えたのか。
胸に痛みを感じたまま、亜紀斗は、覆面パトカーに乗り込んだ。
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