第十四話① 嬉しいことと甘い生活(前編)
道警本部から出ると、亜紀斗は大きく息をついた。
時刻は午後八時。金曜の夜。
昼間に事件現場に駆けつけ、犯人を制圧した。事件の報告書を書いていたら、こんな時間になってしまった。
事件発生の知らせが入ってきたのは、午後三時だった。
現場は、地下鉄駅付近にある、大型スーパー。
犯人は乗用車でスーパーに突っ込み、そのまま暴走を続けた。九人が轢かれ、重軽傷を負った。
暴走車はスーパーの突き当たりにぶつかり、走行不可能になった。犯人は下車し、鉈を持って暴れ回った。逃げ惑う客を斬り付けた。
当然だが、事件が発生してすぐに、SCPT隊員が駆けつけられるわけではない。至急で、近隣の警察署から、警察官が七人駆けつけた。全員、刺叉――先端にU字型の金具がついた棒形の武器で、相手の動きを封じることを目的とする――を持って。
犯人は二階に逃走した。ときに物陰に身を潜め、時には物陰から飛び出して、客や従業員を斬り付け続けた。
SCPT隊員がスーパーに到着した時点で、軽傷者が四人増えていた。しかし、死人は出ていなかった。
すぐにSCPT隊員が現場に突入した。
犯人を捕らえたのは、咲花だった。逃げる犯人の足を撃ち抜き、逃走を阻止した。同時に、鉈を破壊した。
咲花は今回も、犯人を殺さなかった。
今回の事件で死人が出なかったのは、運が良かっただけだ。犯行内容から考えると、両手の指では足りないほどの死人が出ても不思議ではなかった。
それでも咲花は、犯人を殺さなかった。
犯人はすぐに逮捕され、足の治療のために病院へ搬送された。
道警本部に戻り、報告書を書いている途中で、捜査一課から報告が入った。犯人の自宅から、犯行計画書のようなものが発見されたという。
犯人は二十二歳の男。無職。無断欠勤を繰り返していた会社を、先日、解雇されたという。
犯人の書いた犯行計画書には、世の中に対する恨み辛みが書き綴られていた。曰く、会社は自分の実力を正当に評価しない。女性に振られたら、自分の魅力を理解しない馬鹿女。
身勝手な不平不満を募らせたときに、先日の事件のことを知った。街中のショッピングモールで発生した、車での突入および銃乱射事件。
犯人の男は銃を持っていない。しかし、車は持っていた。
犯行計画書には、いつ、どこで、どんなふうに事件を起こすかが書かれていた。最後に、こう記して。
『思い知らせてやる』
明かな模倣犯。歪んだ自己顕示欲が暴走し、先日の事件が火を点けた。
今回の事件に、秀人は絡んでいないだろう。しかし、明らかに彼彼が起こした事件の影響を受けている。
秀人が起こす事件は、全国で、多くの模倣犯を作り出していた。彼が事件を起こし、彼の事件に影響された者が模倣犯となり、治安は悪くなる一方だ。
治安の悪化は、経済状況と並んで社会問題となっている。
秀人の捜査は極秘に行われているという。亜紀斗は、藤山からそう聞いている。だが、現時点で、彼の行方はまったく掴めていないそうだ。
鬱々としてゆく状況。どれだけ現場に駆けつけ、犯人を捕まえても、次々と事件が起る。
事件が起こり、多忙に多忙を極めても、亜紀斗は、収容された犯人の面会に行った。亜紀斗が関わった事件の、犯人達。
亜紀斗は、自分を馬鹿だと思っている。学がなく、地頭もよくない。だからこそ、自分の言葉で、必死に彼等を諭した。
かつて荒れていた亜紀斗を、まっとうな道に導いてくれた先生。先生のように、自分も、罪を犯した者を諭したかった。犯した罪を償い、犯した罪以上のものを作り上げる。先生が教えてくれた信念を、彼等に伝えた。
亜紀斗の言葉が、犯人達に響くこともある。響かないこともある。
たとえ犯人の心を動かせなくても、亜紀斗は訴え続けた。
咲花のように、身内を理不尽に失い苦しむ人がいる。悲しむ人がいる。そんな人を作り出した罪は、永久に消えない。
だからこそ、犯人達に避難の言葉をぶつけることもあった。批難の言葉をぶつけながらも、先生のようになるという目標は変わらなかった。
重苦しい日々。今日も事件が起きた。死人は出なかったが、被害を受けた人達は心に大きな傷を負っただろう。
それでも、亜紀斗にとって嬉しいことがあった。
最近、咲花が犯人を殺さなくなった。
亜紀斗は咲花が嫌いで、彼女も亜紀斗を嫌っているだろう。
反面、少なくとも亜紀斗は、咲花を認めている。あれほどの能力を身に付けるために、どれだけの努力を重ねただろう。どれだけ、自分の生き方を見つめただろう。どれだけ、被害者や遺族の気持ちを考え続けただろう。
素直に、凄い人だと思う。嫌いという感情がなければ、間違いなく尊敬していた。
そんな咲花が、ここ最近の事件で、犯人を殺さなくなった。重傷を負わせているものの、命は奪っていない。
咲花がどうして変わったのか、亜紀斗には分からない。分からないが、嬉しかった。
道警本部から出ると、亜紀斗は、自宅には向わなかった。地下鉄駅に着くと、自宅とは別の路線に足を運んだ。
地下鉄に乗り、数駅。
地下鉄を降りて、目的地まで歩く。徒歩で概ね七、八分の距離。
麻衣が住むマンション。亜紀斗の、今の恋人。
彼女とは、昨年の四月から付き合い始めた。
麻衣に言い寄られ、亜紀斗も、彼女に好意を持っていた。好意どころか、はっきりと彼女が好きになっていた。
しかし、過去に婚約者を守れなかった自責の念から、麻衣の気持ちに応えられずにいた。
亜紀斗の気持ちが一変したのは、秀人と戦ったときだ。戦う=死、と言えるほど、圧倒的に強い者と戦ったとき。
秀人を相手にしても、生きて帰りたいと思った。死にたくない、ではない。生きて帰りたい、という気持ち。
帰りたい理由は、麻衣だった。彼女の側にいたい。一緒に生きたい。婚約者を守れなかったのなら、彼女のことは絶対に守り抜きたい。
今思えば、あれが転機だった。過去に縛られて生きるのではなく、過去を背負って生きると決めた瞬間。
もっとも、麻衣に「付き合う」と返事をしたのは、それから四ヶ月も先だったが。さらに言うなら、彼女に対する返事を後押ししたのは、彼女を押し倒してしまったからなのだが。
麻衣と付き合い始めたときのことを思い出して、亜紀斗は苦笑してしまった。
――だって麻衣ちゃん、可愛いし、おっぱい大きいし、優しいし、俺のこと好きって言うし、俺も好きだったし。そりゃ、ムラムラするよな。ムラムラしてムラムラして、我慢するなんて無理だよな。
自分に対する、無言の言い訳。
今日の亜紀斗は、機嫌がよかった。早く今日のことを、麻衣に話したい。前回のことも、前々回のことも伝えたが、今回も伝えたい。
麻衣のマンショに着いた。合鍵は預かっている。鍵でオートロックを解除した。
麻衣の部屋は三階。亜紀斗はクロマチンを発動させ、常人では考えられない速度で階段を駆け上った。エレベーターは、亜紀斗よりも遅い。
三階に着くと、麻衣の部屋の鍵を開けた。
「ただいまー」
家の中に声を掛けて、玄関に入る。
「おかえりなさい」
麻衣が、家の中から出てきた。エプロンを着けている。夕食を作っていたようだ。エプロンの上からでも、大きな胸が目立つ。可愛らしい童顔に、小柄な体。大きな胸。さらに、料理上手。
――俺の彼女って、マジで可愛いよなぁ。天使かよ。
付き合い始めてもう一年以上経つが、亜紀斗がそう思わない日はない。




