第十一話① 役に立ちたい(前編)
性感染症の要因を知ったとき、華はひどく落ち込んだ。テンマに対して、少なくない疑念を抱いていた。
自分を助けてくれた、大好きな人を疑う。華の精神的重圧は、相当なものだったはずだ。病院から帰宅後、ずっと元気がなかった。夜眠るときは、いつも以上に秀人に甘えてきた。甘えることで、不安を誤魔化すように。
華が眠るまで慰めながら、秀人は、明日以降のことを考えてた。どのようにして、華の心を完全に掌握するか。
華は現在、弱っている。弱っている心につけ込めば、簡単に惚れさせることができるだろう。とはいえそれは、テンマが行った手法と同じだ。彼と同等程度にしか、華の気持ちを掴めない。
その程度では駄目だと、秀人は独りごちた。
華には、操り人形になってもらう。秀人の言葉を盲信し、何の疑問も抱くことなく人を殺せるようになってもらう。血にまみれても、他人の悲鳴を聞いても、泣き叫ぶ声を聞いても、秀人の賞賛一つで幸せを感じられる。幸福な笑顔を浮かべられる。
そんな女に、華を仕上げてゆく。
では、どうしたらいいか。
考え、秀人は、華を起こさないようにベッドから抜け出した。彼女の心を掴む前にも、すべきことがある。
部屋を出て、明日の準備をした。夜中の二時頃にベッドに戻って、眠りについた。
目覚めたのは、午前八時。目覚まし時計のアラーム。
ベッドで上半身を起こし、秀人は体を伸ばした。
隣りでは、華が眠そうに目を擦っていた。二十二歳とは思えない幼い顔で、ぼんやりと秀人を見つめている。
「おはよう、秀人」
「ああ。おはよう、華」
秀人がベッドから降りると、華も降りた。まだ寝ぼけているのか、足取りが怪しい。
この家の寝室は二階にある。
秀人は、華と一緒に階段を降りた。
「おしっこ」
階段を降りてすぐのところに、トイレがある。
わざわざ尿意を口にして、華はトイレに入っていった。
秀人はリビングのドアを開けた。すぐに、猫達が秀人に擦り寄ってきた。猫の餌入れを見たが、まだ残っている。水もある。飢えや渇きで擦り寄ってきたのではない。ただ単に甘えたいだけのようだ。
ジャーッと水を流す音が聞こえた。華がトイレから出てきた。まだ眠そうだ。それでも、秀人に群がっている猫達を見ると、笑顔を浮かべた。
「おはよう、福、タイガ、ヒョウ、ニジ、ミルク」
猫達を警戒させないよう、華は、ゆっくりと近付いてきた。
猫達は逃げなかった。
華がしゃがみ込むと、猫達は、華の匂いを嗅ぎ始めた。彼女の存在にも慣れてきたようで、すっかり警戒しなくなった。華が手を伸ばすと、大人しく撫でられていた。
いつも甘えて、猫のように擦り寄ってくる華。姿勢を低くして、猫達と戯れる華。
秀人は、華の頭を軽く撫でた。
「華。歯を磨いたら、朝ご飯にしようか」
「うん」
華の顔から、笑顔が薄れた。どこか寂しそうに、頷いた。昨日のことを思い出したのだろう。テンマへの疑念。
華の気持ちに気付かないふりをして、秀人は洗面所に足を運んだ。華も後ろからついてきた。歯を磨く。顔を洗う。
手を洗い、秀人はキッチンに立った。簡単な朝食を作る。野菜を出して包丁で切り、パンをオーブンで温める。フライパンに卵を落として、目玉焼きを作る。
歯を磨いた華は、食卓のテーブルについた。椅子に座って、料理をしている秀人を見ている。
この家のキッチンは対面型だ。食卓テーブルと向かい合える。
「秀人。華、何かお手伝いできる?」
「今日のところはいいかな」
返答すると、華の表情が曇った。
彼女の心情が、秀人には手に取るようにわかった。
テンマに対して、疑いの気持ちを抱いている華。彼女がどこまで言語化できるかは分からないが、こう考えているはずだ。
『テンマは、華を金儲けのためだけに使っているのかも知れない。だから、金を稼げなくなったら、捨てられるかも知れない』
大好きな人に捨てられ、一人になることを恐れている。だから、役に立てる人間になって、必要とされたい。好きな人の側にいられる人間になりたい。
トーストが焼けた。目玉焼きも、いい焼き加減だ。サラダはもう、できている。
秀人はトーストを皿に移し、その上に目玉焼きを乗せた。サラダも皿に盛り、上から適度にドレッシングをかける。
用意ができると、華に声をかけた。
「華」
「何?」
「パンとサラダ、テーブルに運んでくれる?」
パッと、華の表情が明るくなった。
「うん!」
椅子から降りて、キッチンの対面部分まで来た。秀人からパンやサラダを受け取ると、テーブルの上に運んだ。
料理がテーブルに並ぶと、秀人も華も椅子に座った。
「ありがとう、華」
礼を言われて、華は嬉しそうだった。
「じゃあ、食べようか」
「うん。いただきます」
華は大きく口を開けて、目玉焼きが乗ったトーストをかじった。サクッと、小気味いい音が鳴った。彼女の姿が子供のようにしか見えないのは、幼い顔立ちのせいだけではない。
秀人もトーストを口にしつつ、華に、今日の予定を伝えた。
「華。食べ終わったら、色々やってもらうことがあるんだ」
華は目を丸くして、こちらを見ている。口の中には、食べ物が詰まっていた。モグモグと噛み、飲み込んだ。
「華のお仕事?」
「そうだよ。お金稼ぐために、今日から色んなことをしてもらう」
「色んなことって、何?」
「まあ、たくさん。とりあえずは、テストを受けてもらうよ」
「テスト? 勉強の?」
「まあ、似たようなものかな」
秀人が昨夜作った、知能テスト。まずはこれで、華の現在の知能を計る。
テストと聞いて、華は唇を尖らせた。
「華、テスト苦手だよ? ちゃんとできるかな」
華は学生時代、成績が悪かったはずだ。彼女の知能と環境から考えれば、容易に分かる。
秀人は手を伸ばした。華を安心させるように、頭を撫でる。
「大丈夫だよ。今日のテストは、学校のテストと違って、成績をつけるものじゃないから。ただ、本当に一生懸命やってくれればいい。手を抜かなければいいから」
「わかった」
華は早々に朝食を食べ終えた。空になった皿をキッチンに運び、水につける。
秀人も食べ終え、食器を片付けた。食器洗いは後でいい。今はまず、華にテストを受けさせる。
「じゃあ、華。こっちに来て」
「うん」
秀人は華を連れ、リビングの隣りにある部屋に入った。机とパソコン、プリンターがある。机の上には、夜中に作ったテスト。華の知能を計るテスト。
机の椅子を引き、華を座らせた。
作成したテストは、全部で十枚ある。計算問題、文章問題などが多数。華の知能でも回答可能な問題ばかりだ。難易度としては、小学校一~四年生のテスト程度。
ただし、いくつか難問も混ぜている。難問といっても、中学三年の数学や国語程度の問題だが。
「時間は、今から二時間。その間に、できるだけたくさん問題を解いて」
説明しながら、筆記用具と、計算用の白紙を渡した。
「全部できなくてもいいの?」
華の質問に、秀人は頷いた。
「時間は二時間だけだから、全部できなくてもいい。ただ、できるだけたくさん解けるように頑張って」
「うん。華、頑張る!」
「じゃあ、用意して」
華は鉛筆を持ち、テスト用紙に向き合った。
今の時刻は、午前八時五十二分。リミットは、午前十時五十二分。
「はい、スタート」
秀人の合図とともに、華は問題に目を通した。最初は計算問題。うんうんと唸りながら、白紙を使って計算し、答えを書き込んでゆく。




