第八話 虐待された猫と虐待された少女
昨夜。
ホテルのベッドで、華が眠った後。
秀人は、檜山組の岡田と連絡を取った。秀人と繋がっている暴力団。
完全に偶然だが、華が働いているソープランドは、檜山組と繋がりのある店だった。
華を退職させると、岡田に伝えた。
岡田は、秀人の申し出を渋った。どうやら、華はなかなか人気があったらしい。客の予約も、二週間後まで入っていたそうだ。
もっとも、店の事情など知ったことではない。秀人は強引に、華の退職を押し通した。病気になったということにでもしておけ、と。
朝になって、チェックアウトの時間になり。
秀人は、華と共にラブホテルから出た。
途中まで一緒に歩き、午後九時半に鳥々川で待ち合わせる約束をして、別れた。
華には、ホテルから出た直後に、今日が最終出勤になることを伝えた。
『今日から華は俺と暮らすから、ソープは退職してね』
華はすんなり受け入れた。彼女は、テンマのために金を稼いでいる。稼ぐ方法は何でもいいのだ。たとえそれが、自分の身を切り売りすることであっても。
自宅に戻る前に、秀人は、テンマの口座に約束の金を振り込んだ。帰宅後は、いつもの日課をこなした。クロマチンの訓練、勉強。仮眠を取って、午後九時に自宅を出た。
午後九時半に鳥々川に着くと、すでに華が来ていた。ドラムバッグを持っている。着替えなど、当面の生活に必要な物が入っているのだろう。
秀人の姿を見つけると、華が駆け寄ってきた。
「秀人。華、ちゃんと来たよ」
「うん。待った?」
「ちょっとだけ」
「そうか」
華の頭を軽く撫でた。
華は目を細めて、緩んだ表情を見せた。昨夜、ホテルで撫でたときも、彼女は嬉しそうにしていた。母親に愛されなかった影響が見て取れた。親の愛を受けられなかったから、優しくしてくれる人に擦り寄ってしまう。
華を連れて有料駐車場まで歩き、彼女を車に乗せて帰宅した。
玄関前。
秀人の家を目にして、華は目を輝かせていた。見た目はごく普通の一軒家なのに。
「俺の家、そんなに珍しい?」
「そうじゃなくてね。あのね、華、二階建ての家に入るの、初めてなの」
華の生家は、古びたアパートだったという。工場で働いていたときは、借り上げ社宅のアパート。テンマの家はマンションらしい。
「子供の頃に、友達の家に行かなかったの?」
聞くと、華は唇を尖らせた。コロコロと変わる表情。悲しそうな、それでいて寂しそうな顔。
「華ね、友達いなかったの。みんな、華のこと、馬鹿って言って。誰も遊んでくれなかったの」
「……」
子供は純粋だ、などと大人は言う。それは正しいだろう。純粋で、邪気がなく、だからこそ残酷なのだ。自分の言葉が他人を傷付けることなど、考えない。ただ純粋に、自分の気持ちを口にする。
馬鹿。華に出会った日に、秀人が口にしてしまった言葉。華に癇癪を起こさせた言葉。そして、恐らくは、彼女を傷付け続けた言葉。
今まで華は、傷付けられたことに対して、怒りの感情を持たなかったはずだ。ただ悲しくて、泣き腫らしていた。昨夜のように。
唇を尖らせる華の頭に、秀人は手を置いた。
「じゃあ俺は、華にとって、初めての友達だね」
また華の表情が変わった。少し前までの面影がないほど、明るくなった。
「秀人、華と友達になってくれるの?」
「俺はもう友達のつもりだったけど。違うの?」
ブンブンと、華は首を横に振った。
「華、秀人の友達だよ! 友達になってくれて嬉しい!」
「そっか」
返事をして、クシャクシャと華の頭を撫でる。
「でも、華の友達は、俺だけじゃないよ。これからまだ増えるんだ」
「そうなの?」
「ああ。俺のウチにいる猫達とも、友達になってよ。優しくしてあげて」
「うん!」
明るく返事をする華を見ながら、秀人は玄関の鍵を開けた。ドアを開く。玄関に入って、明りを点けた。
「ほら、華。今日からしばらくは、ここが華の家だよ」
玄関に足を踏み入れ、華は、キョロキョロと周囲を見回した。左側には、二階に昇る階段。階段の手前に、トイレ。右側には、リビングのドア。
華は、リビングのドアに視線を固定した。ガラス張りになっていて、向こう側が透けて見える。ドアの向こうには、猫が集まっていた。飼っている五匹の猫が、全員集合している。
リビングの明りは点いていないので、猫の姿ははっきりと見えない。五匹のシルエット。玄関の明りを反射する、猫の目。
華の目尻が下がった。
「猫がいっぱいいる!」
「うん。ホテルで話したけど、五匹いるんだよ」
靴を脱いで、秀人は家に上がった。華も秀人に続く。
リビングのドアを開けると、猫達は、一斉に身構えた。皆、華をじっと見ている。
秀人はリビングに入った。華も続いた。
華がリビングに入ると、猫達は一斉に逃げ出した。三メートルほど離れた位置で止まり、また、華をじっと見た。
「みんな逃げちゃった」
露骨に、華はガッカリしていた。
「そうだね」
秀人が飼ってる猫は、皆、人間に虐待されていた。虐待の末に、大怪我をした。今でこそ懐いているが、飼い始めた当初は、秀人のことも警戒していた。唸り声を上げ、シャーッと威嚇してきた。
華に対して威嚇しないのは、秀人と暮らしたことで、攻撃性が減少したからだろう。可能な限りの愛情を注いだ結果だ。けれど、悲惨な記憶が消えることはない。虐待の末に命を失いかけた記憶。
秀人は、リビングの明りを点けた。
光に照らされ、猫達の姿がはっきりと見えるようになった。痛々しい傷が残る、猫達の姿。
華の表情が変わった。醜いものに顔をしかめる――というのではない。驚きと、困惑。
「秀人……猫ちゃん、怪我してるよ」
「うん。そうだね」
「病院行かないの? 痛そうだよ? 可哀相だよ」
五匹の猫。
左の前足が欠損している、黒猫の福。
片目が潰れている、三毛猫のニジ。
左の後ろ足が欠損している、キジトラのタイガ。
かつて全身に大火傷を負い、ところどころ毛が生えなくなっている、キジトラのヒョウ。
外見こそ普通だが、全身を切り刻まれ、神経を痛め、動きがぎこちない白猫のミルク。
猫達の状態について、華には説明していた。しかし、これほど酷いとは思っていなかったのだろう。
「……華、聞いて」
「何?」
「このコ達の怪我はね、もう、治らないんだ」
「どうして?」
「人間にいじめられて、治せないくらいの大怪我をさせられたんだ」
秀人の話を聞いた途端、華は、肩を震わせた。
「だから、今でも人間が恐いんだよ。俺と出会ったときは、もっと恐がってた。一緒に暮らして慣れてくれたけど」
「華のことも恐がってるの?」
華の声色が変わった。涙が混じった声。
「うん。初めて会う人だからね」
「人間にいじめられたから、人間が恐いの?」
「そうだよ。だから、優しくしてほしいんだ」
「うん」
頷くと、華は鼻をすすった。
「ごめんね。そんな怪我するくらい、いじめられたんだね」
華の両目から、涙が流れてきた。
「痛かったよね。恐かったよね。ごめんね」
華が鼻をすするたびに、猫達は、瞳を大きく見開いて彼女を凝視している。
「華、絶対にいじめないから。大事に大事にするから。だから、華のこと、好きになって。華と友達になって」
華が訴えても、猫達は警戒を緩めない。当然だが。
「華、いじめないよ。痛いことしないよ。ひどことしないよ。だから……」
人の言葉は、猫には届かない。言葉で訴えても無意味だ。それでも華は、猫達に伝えた。大切にする、と。大事にする、と。いじめない、と。
言葉が通じなくて悲しかったのか、華は秀人の方を見た。どうしたらいいの、と目で訴えている。
警戒する猫をすぐに懐かせるのは難しい。それでもこの猫達は、もう野良ではない。多少の接触は可能だ。
「ねえ、華」
「何?」
「例えば、だけど。自分よりずっと大きくて、自分よりずっと強くて、自分をいじめた奴に似た人を見たら、華は恐くない?」
「……恐い」
「だよね。だからまずは、このコ達に、自分を小さく見せないと駄目だ」
「どうしたらいいの?」
「そこに、仰向けに寝てごらん」
「仰向け?」
「お腹を上に向けて、寝っ転がってみて」
「?……うん」
涙を流しながら首を傾げつつ、華は、素直に言うことを聞いた。ゴロンと、床に寝っ転がった。
猫達は逃げない。その場に立ち止まったまま、華の方に少しだけ首を伸ばした。
「寝っ転がったよ?」
「じゃあ、本当にゆっくり、猫達の方に手を伸ばしてごらん。指先を伸ばして、猫達の顔よりも下の位置で」
「うん」
そっと、華は手を伸ばした。猫達に指先を向けて、万歳をするような格好になっている。ピンと伸びた、彼女の指先。
猫達は、さらに首を伸ばした。
「しばらく、そのままにしてて。動いちゃ駄目だよ」
「うん」
仰向けに寝たまま、華は手を伸ばして猫達の方を見ている。
最初に動いたのは、キジトラのヒョウだった。そろり、そろりと華に近付いてゆく。
ヒョウに続いて動いたのは、同じキジトラのタイガだった。
「動いたら、このコ達がびっくりするから。だから、動かないでね。あと、大きな声を出しても駄目。いい?」
「……ん……」
小声で、華は返答した。素直だ。
ヒョウが、華の指先に鼻を近付けた。匂いを嗅いでいる。タイガも続いた。
二匹が華に接近すると、他の猫も続いた。一番出遅れたのは、白猫のミルクだった。身を低くして怯えながら、それでも、他の猫に続いた。
五匹が、華の匂いを嗅いでいる。最初は彼女の指先。さらに接近して、腕に鼻を近付ける。もう二歩三歩近付いて、髪の毛の匂いを嗅いだ。
猫達が、華の顔の近くに集まっている。
ほんの少しだけ顔の向きを変えて、華は秀人を見た。涙の跡を残したまま、笑顔になっていた。嬉しいと言いたいが、秀人に注意されたから、声は出さない。でも嬉しいと言いたくて、唇が動いている。
純粋な笑顔だ。子供特有の残酷さなど微塵もない、優しい笑顔。
愛情に満ちた笑顔。
華は、今、間違いなく、愛情を与える喜びを感じているはずだ。弱く可愛い者に愛情を与える喜び。
けれど。
その喜びは、いつか恨みになる。
虐待の連鎖と同じ要領だ。虐待されて育った子供が大人になり、親になったときに、自分の子を虐待してしまう。虐待が連鎖する要因の一つは、自分と、自分の子供の比較だ。
『自分は愛されなかったのに、どうしてこの子は愛されるのか』
理不尽な現実に憤る。結果、抑え切れない怒りを抱える。虐待の連鎖の場合、怒りの矛先は、もっとも身近な弱い者へと向う。
だが、華の怒りの矛先は、まずはテンマに向けさせる。華を利用し、酷使し、性病に罹らせてまで搾取した彼に。
テンマを殺させたら、怒りの矛先を世の中に向けさせる。当たり前に生きている人々。親に愛され、友人に囲まれ、当たり前に進学し、自分の体を売らなくても恋人と生きていける、幸せな人々へ。
どうして世の中は、自分だけに冷たいのか。どうして自分だけが、罵られ、見下され、金と引換えでなければ愛情を得られないのか。
そんな気持ちを、華の心で生み出させる。
秀人の自宅は、華を育成するのに最適な環境だと言えた。
華を大量殺人者に変貌させるには、最適な環境。
同時進行で、華を秀人に惚れさせる。彼女が愛情を向ける対象を、秀人と猫のみに限定させる。
最終的に、華は、愛する人の指示で憎むべき者達を殺すようになる。二つの喜びを、同時に感じるようになる。愛する人の頼みを叶える喜び。愛する人の指示で、憎むべき者達を踏み躙る喜び。
未来の華の姿が、秀人にははっきと見えていた。
『秀人の言う通り、いっぱい殺したよ』
返り血で真っ赤になりながら、笑顔で秀人に報告する華。
その未来は、それほど遠くない。
※次回更新は12/29を予定しています。
他人を操る方法を、秀人は知っている。知識だけではなく、実践した経験もある。
今まで様々な人を様々な方法で操ってきた。
今回の手駒は、華。愛情深く、怒りや恨みを知らない女の子。
愛情深いが故に利用され、自分を犠牲にしてきた女の子。
彼女を操るためにどのような教育をし、どのように動かしてゆくのか。




