第六話② 都合のいい少女(後編)
工場に就職後、華は真面目に働いた。食品製造のライン作業。
ライン作業といっても、完全に単調な作業というわけではない。製造用の機械に、食品の原材料を補充することもある。包装用のアルミやプラスチック容器を補充することもある。行程の中で、機械を操作することもある。
工場でも、華は、仕事ができない馬鹿として見下されていた。
それでも、生活のために働き続けた。
仕事を終えて社宅に帰ると、一人きり。母親はもういない。
寂しくて、悲しくて、夜中に泣きながら目を覚ますことがあった。でも、母親に嫌われたくないから、家には帰れない。
働きながら、ふと、華は思い立った。お金を持っていけば、お母さんが喜んでくれるかも知れない。
華は計算が苦手だ。生活のやりくりも上手くない。給料日前はどうしても生活費が足りなくて、一日にパン一つしか食べないこともあった。
そんな華にも、一つ、分かったことがあった。給料日直後から一日にパン一つしか食べなければ、お金はあまり減らない。つまり、お金を貯めることができる。
お金を貯めて、お母さんに持っていこう。きっと喜んでくれる。きっと、誉めてくれる。
思い立った日から、華は必死にお金を貯めた。食べる量をできるだけ減らした。
しばらくすると、妙に体がフラフラするようになった。いつも倦怠感があって、辛かった。理由は分からないが、調子の悪い日が続いた。
ある日。
華は、職場で倒れた。
職場の救護室に運ばれ、ベッドの上で目を覚ました。
ベッドの近くには、職場の主任がいた。華の、直属の上司。年齢は知らないが、おじさんだ。左手の薬指には、指輪。
目を覚ました後、華は、主任に体の調子を聞かれた。
少し寝たら楽になったけど、お腹が空いた。今の自分の気持ちを、素直に告げた。
主任は、ロスになった食品を華に食べさせてくれた。どうして空腹だったのか、事情を聞いてきた。
華は正直に事情を話した。お母さんにお金を渡したい。だから、あまり食べないようにしてお金を貯めていた。
その日から、主任は、華に、こっそりとロス食品をくれるようになった。食費が大幅に浮くうえに、しっかり食べられるようになった。体調もよくなった。
救護室に運ばれた日から、主任が、華に気を遣ってくれるようになった。食べ物をくれるだけではなく、優しく仕事を教えてくれるようになった。状況に応じて華の手を取り、体に触れ、機械の操作を教えてくれた。周囲に馬鹿にされる華を、慰めてくれた。
『四谷は馬鹿じゃないぞ』
そう言って、頭を撫でてくれた。
時には、褒め言葉までくれた。
『四谷は可愛いな』
華には、人に誉められた経験があまりない。たった一言の褒め言葉でも、胸が躍るほど嬉しかった。
華とはずいぶん歳が離れているであろう、主任。華と同じ年頃の息子がいると、聞いたことがある。そんなおじさんの姿を、華は、いつの間にか目で追うようになっていた。
主任の方も、少しずつ、華との距離を詰めてきた。仕事の後に、一緒に食事に行くようになった。華の社宅に来ることもあった。ひと月に一回くらい、休日に出かけるようになった。
一緒の布団に入り、裸で絡み合うようになった。
主任は、華にとって、二人目の性体験の相手になった。
華にとって初めてのセックスは、ただただ辛かった。痛くて、苦しくて、気持ち悪かった。
でも、主任とのセックスは、少なくとも気持ち悪くはなかった。少し痛いし、少し苦しいけど、平気だった。それよりも、耳元で囁かれる「可愛いな」「好きだ」という言葉に、例えようもない喜びを感じた。
主任は、華にとって初恋の相手になった。主任が悦ぶなら、どんなことでもした。リクエストされて、恥ずかしい下着もつけた。変な道具を使ってセックスもした。
華が主任のリクエストに応えると、その度に、彼は「好き」という言葉をくれた。主任の「好き」が、華を幸せにしてくれた。この幸せのためなら、何だってできた。
気が付くと、デートの費用は華が払うようになっていた。
『ロス食品で食費を賄えば、お母さんにあげるお金くらい貯められるだろ』
主任の言葉を信じた。彼に言われるまま、貯金を下ろした。残額は、確かめなかった。
そんな日々が、一年半ほど続いて。
幸せは、ある日、突如として壊れた。
主任が、女の人を伴って、華の住む社宅を訪ねてきた。
女の人は、主任の奥さんだった。
奥さんは主任を引っ張り、ズカズカと家の中に踏み込んできた。叫び散らし、華を罵った。どうしてこんなに怒っているのか、華には分からなかった。
『華は、主任のことが好きなんだよ。奥さんと同じなんだよ。同じ気持ちなのに、どうしてそんなに怒るの?』
言葉が喉まで出かかったが、恐くて口にできなかった。
奥さんに罵られる華を、主任は守ってくれなかった。奥さんの隣りで正座をして、俯いていた。
怒りを露わにする奥さんが恐くて、華は、主任に助けを求めた。
『主任、奥さん恐いよ。助けて。華のこと、好きって言ってくれたよね。いつもみたいに助けて』
華が縋った途端、主任は表情を変えた。俯いていた彼は、突如として怒りを爆発させた。
『お前みたいな馬鹿を好きになるはずないだろ! 俺は、お前に好きなんて言ってない! お前に誘惑されたから、仕方なく抱いてやっただけだ! それなのに、都合よく解釈するな! この馬鹿が!!』
馬鹿。
華が、幼い頃から、母親に言われ続けた言葉。周囲に言われ続けた言葉。華の心を突き刺す、大嫌いな言葉。
大嫌いな言葉を、大好きな人に言われた。
なんで馬鹿なんて言うの? どうして? 意味が分からなかった。昨日まで、あんなに優しくしてくれたのに。あんなに「好き」って言ってくれたのに。
奥さんに罵られる恐怖なんて、一気で消し飛んだ。恐怖よりも強い悲しみが、華の胸中に溢れた。許容量を越えた悲しみは、華の心の中で決壊した。防波堤が破壊されたように、華の目から涙が流れ落ちた。
華は、幼い子供のように泣きじゃくった。
それでも耳に届く、奥さんの怒鳴り声。主任の、罵りの言葉。
借り上げ社宅の一室。当然、周囲には、他の社員も住んでいる。
華と主任と、主任の妻。三人の修羅場は、瞬く間に職場で話題となった。
華は、自主退職を勧められた。勧告という名の、強制だった。逆らう術もなく、職場を去った。
職場を去ったから、当然、寮も出た。
華の荷物の量は、入社したときとほとんど変わらなかった。ほんの数枚の着替え。
行く場所がなくて、華は、実家に足を運んだ。
お母さんに渡すはずだったお金は、ほとんどなくなってしまった。主任の奥さんに払った、慰謝料というもので。
これまでの一連の流れで、華は、なんとなく理解した。結婚している男の人を、好きになってはいけないのだ。そんなことなんて、今まで知らなかった。男の人に対する「好き」という感情は、決して共有できないものなのだ。
実家に帰ったら、また、母親に怒られてしまうだろう。馬鹿と罵られるだろう。お金もないから、母親に喜んでもらえる方法がない。
とにかく、ひたすら謝ろう。馬鹿でごめんなさい。迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。お母さんの邪魔ばかりして、ごめんなさい。
だが、華は、母親に謝ることさえできなかった。
母親は、もう、実家に住んでいなかった。彼女と住んでいた家には、別の住人がいた。
行き先は知らされていない。母親が、今、どこにいるのか。まったく分からない。
途方に暮れて、華は彷徨った。行き場がなくて、でも、どうしたらいいか分からない。
どうしたらいいか分からないまま、歩いて、歩いて。
公園の水道で水は飲めたけど、食べ物はなくて。疲れたら、適当なところで眠って。
目が覚めたら、また歩いて。
そのうち、凄くお腹が空いてきて。
体に力が入らなくなってきて。
歩くことさえ大変になって。
高いビルの壁に寄り掛かって、華は座り込んだ。
――華、このまま死んじゃうのかな。
はっきりとした予感が頭を過って、恐かった。
そんなときに声を掛けてくれたのが、テンマだった。後の、華にとって二人目の恋人。
テンマのことを好きになって。彼のために、いっぱいお金を稼いで。彼のために、いっぱいお金を使って。
でも、まだまだお金が足りない。もっと稼いで、もっとテンマのために使いたい。
だから毎日、一生懸命頑張った。毎日、色んな男の人とセックスをした。
そして、今に至る。
華の話を聞いて、秀人は、ますます彼女が気に入った。知能の発達が遅れている。年齢的に、この遅れを取り戻すのは不可能だ。脳の成長期は終わっている。どんなに頑張っても、どんなに知能を上げる訓練を積んでも、人並み以下の知能しか身につかない。つまり、いいように利用し易い。実際に、今、彼女は、テンマというホストにいいように利用されている。
上手くコントロールすれば、秀人にとって、都合のいい駒になる。
「じゃあ、華は、大好きなテンマのために、もっといっぱいお金稼がないといけないね」
「うん! 華、頑張るの!」
両手をグッと握って、華が頷いた。
「じゃあ、華。俺が、もっと稼げる方法を教えてあげようか」
「本当!?」
華が、秀人の方に身を乗り出してきた。
「本当だよ。ただ、華は、昨日寝てないんだろ? だから今は、次の仕事まで寝ようか」
「え? じゃあ、いつ、お金稼ぐ方法教えてくれるの?」
「今日の夜に、また俺と会おう。鳥々川に立っててくれたら、迎えに行くから」
「本当に?」
「本当だよ。だから、俺が行くまで、男の人に声を掛けられても、ついて行っちゃ駄目だよ」
「うん。わかった」
「じゃあ、ベッドに行こうか。俺も徹夜だったから、一緒に寝よう」
「うん」
華と一緒に、秀人はベッドに入った。
横になると、華はすぐに眠気に襲われたようだ。よほど疲れていたのだろう。
ふと思い立って、華が眠ってしまう前に聞いてみた。
「ねえ、華。俺の顔、ちゃんと覚えていられる? 今晩会いに行ったとき、俺だって気付ける?」
「大丈夫、だよ」
うつらうつらとしながら、華が答えた。
「華、ね。一回見た人の顔、絶対に忘れないの……」
言いながら、眠りに落ちてゆく。
「特に、ね……秀人は、綺麗だから……絶対に……忘れない……」
そのまま華は、寝息を立て始めた。
記憶力に自信がなく、金の計算もできないほど知能が低い。それなのに、人の顔は忘れない。
その特技は、きっと、華が、本能的に身に付けたのだろう。不遇な目に合い続けたからこそ、自分に危害を加える人間を、忘れないように。発達を阻害された知能の中で、一部分だけが、生きるために成長した。
秀人はそっと、華の額を撫でた。
今はテンマというホストに向けられている、華の愛情。自分を犠牲にすることすら厭わない、深い深い愛情。
この愛情を、自分の方に向かせれば。
華は、秀人のために、何でもするようになるだろう。
秀人の言うことなら、何でも従うようになるだろう。
※次回更新は12/16を予定しています




