第六話① 都合のいい少女(前編)
ラブホテルの風呂場。
秀人があやし続けて十五分ほどで、華はようやく泣き止んだ。泣き過ぎて、目が真っ赤になっている。
涙でベチャベチャの、華の顔。
秀人は、彼女の頬を拭った。お詫びと言って、彼女の頭や体を洗ってあげた。
全身が洗われてさっぱりすると、華は秀人を許してくれた。それどころか、泣き止んで落ち着いた彼女は、どこか申し訳なさそうにしていた。
「怒鳴ってごめんね、秀人」
風呂場から出てバスタオルで体を拭きながら、華は、目を伏せて謝ってきた。
華を泣き止ませたことで、秀人も冷静さを取り戻していた。彼女の頭に手を置く。
「ううん。俺の方こそごめんな。ひどいこと言って」
そんなことない、という意思表示か。華は首を横に振った。
体を拭くと、備え付けのバスローブに着替えた。部屋に戻り、冷蔵庫を開けた。有料の飲み物が複数入っていた。一本一本が、個別に収納されている。収納を開くと、料金が加算される仕組みになっているようだ。
「華、何か飲む?」
「いいの? お金、かかるんだよね?」
「いいよ、奢る。泣かせちゃったお詫び」
優しく微笑みかけると、華も微笑んだ。機嫌は直ったようだ。
「ジュース飲みたい」
「オレンジジュースがあるよ」
「うん。オレンジジュース飲む」
秀人はオレンジジュースを取り出した。別の収納も開け、自分の分の飲み物も取り出す。ビール。
ジュースを華に渡し、二人でソファーに座った。ほとんど同時に飲み物の蓋を開け、口を付けた。一口二口喉に流し込み、ふうと息をついた。
華を見ると、美味しそうにオレンジジュースを飲んでいた。
「華、お腹空いてない?」
「あんまり」
「じゃあ、お腹空いてきたら、ルームサービスでも頼もうか」
「いいの? ホテルのご飯、高いんだよね?」
「いいよ。お腹が空いたら、一緒に食べよう」
「うん」
無邪気な笑顔で、華が頷いた。
「じゃあ、華」
「何?」
「お腹が空くまで、また、華のこと聞かせてくれる?」
「うん、いいよ。何でも聞いて」
「じゃあ、今度は、華の家庭環境のことを聞かせてくれるかな?」
「家庭環境?」
聞き返されて、秀人は、華の知能のことを思い出した。言葉を噛み砕いて、丁寧に話さないといけない。
「華は、どんな家で育ったの? お父さんとお母さんは、どんな人? どんな小学生で、どんな中学生で、どんな高校生だったの?」
「うーんと、ね――」
口元に手を当て、華は、視線を斜め上に向けた。昔のことを思い出しているのだろう。
やがて華は、ポツポツと話し始めた。
華は、父親の顔を知らない。物心ついたときから、母親と二人暮らしだった。部屋が二つある、ボロアパートの一階。母親だけが家族で、それ以外の肉親はいなかった。
幼稚園や保育園に行くこともなく、華は小学生になった。
小学生の頃から、華は、周囲の子達より明かに劣っていた。テストの点数はいつも悪かった。授業で習ったことを、ほとんど理解できない。運動神経や手先の器用さは優れていたが、毎日、頭の悪さを馬鹿にされていた。
華が馬鹿にされるのは、学校の中だけではなかった。家に帰っても、母親に馬鹿にされていた。
――いや。
母親は、華を馬鹿にしていたのではない。「馬鹿」と断定していた。お使いも満足にできない。物覚えは悪い。何の役にも立たない。罵られ、叩かれることが、華の日常だった。
それでも華は、母親が好きだった。たった一人の家族。自分を産んでくれた、お母さん。だから華は、母親に好きになってもらおうと一生懸命だった。怒られたらひたすら謝り、ちょっとしたことでも「ありがとう」を口にした。
理由は分からないが、「ありがとう」と「ごめんなさい」をちゃんと口にすることが、人に好かれる術のような気がしていた。
華の母親は、夜に仕事をしていた。何の仕事をしていたのかは、華も知らない。ただ、明け方に帰宅する母からは、酒の臭いがすることがあった。かと思えば、石けんの匂いがすることもあった。
母親は、時々、男の人を家に連れて来た。
男の人を連れて来たとき、母親は、いつも上機嫌だった。すぐに服を脱ぎ、下着姿になって、男に擦り寄っていた。しな垂れかかり、ベタベタと甘えていた。
男の人が来ると、華は、母親達がいる部屋とは別の部屋に閉じ込められた。絶対に出てきたら駄目、と命令されていた。
母親に嫌われたくなくて、華は、素直に従った。
部屋に閉じこもっていると、壁越しに、男の声が聞こえてくることがあった。
『いいじゃん、子供がいても。ってか、性教育代わりに見せてやろうぜ』
男の言葉の意味が、華には理解できなかった。
すぐに、母親の甘ったるい声が聞こえてきた。
『もう、馬鹿』
母親が口にする『馬鹿』は、華に対する『馬鹿』とはまるで違っていた。
母親が家に連れて来る男は、前回と同じときもあれば、別人のときもあった。華は物覚えが悪いが、人の顔を覚えるのは得意だった。一度見た人の顔は、絶対に忘れない。
でも、母親が連れて来た男の数は、分からなかった。指折り数えていたが、指の数だけでは足りなかったのだ。
母親の罵り。馬鹿にされる学校生活。母親と男の声を聞きながら、部屋に閉じこもる夜。
そんな日々を積み重ねて、華は中学生になった。
華の初めての性体験は、突如訪れた。
中学二年の夜。母親は仕事に出ていた。家で一人、留守番をしていた。
突如、男が訪ねてきた。彼は、家の合鍵を持っていた。
男の顔を、華は覚えていた。母親が、何度か家に連れて来た男だ。
男は、留守番をしていた華を、舐めるように見てきた。
『頭は悪そうだけど、母親に似て可愛い顔してるな』
男は突如、華に覆い被さってきた。
『楽しませてやるよ』
華の耳元で囁いた。
正直なところ、恐かった。恐くて、体が動かなかった。
でも、母親と仲のいい男の人だから、恐いなんて言えなかった。
精一杯の気力を振り絞って、華は笑顔を浮かべた。
『楽しいことしてくれるの? ありがとう、おじさん』
男との行為は、決して楽しくなかった。痛くて痛くて泣きそうだった。でも、この男は、母親と仲のいい人だ。逆らったりしたら、母親に嫌われてしまう。
初めてのセックス。裂けるような痛みと、鳥肌が立つような嫌悪感。吐き気を催すような不快感。それでも華は、必死に堪えた。
華の体で楽しんだ後、男は帰っていった。
『また来るわ』
そう、満足そうに言い残して。
数日後に、華は、母親からひどい暴行を受けた。
『このビッチ!』
怒鳴りながら、母親は、何度も華を殴った。
どうして殴られるのか。どうしてこんなに怒られるのか。華には、まったく心当たりがなかった。でも、母親が怒っているのだから、きっと自分が悪いのだろう。華は泣きながら、何度も何度も謝った。
『ごめんなさい! ごめんなさい! お母さん、ごめんなさい!』
その後、母親は、家に男を連れ込まなくなった。ただ、これまで以上に、家を空けることが多くなった。
中学三年になった頃に、唐突に、母親に言われた。
『中学を卒業したら、ここから出て行って。働いて、一人で暮らしな』
もともと華は、高校進学を諦めていた。テストの成績は常に悪かったし、当然、通知表の評価も低い。
担任の先生によれば、進学可能な高校は、いくつかあったらしい。『名前を書けば入学できる』と揶揄されるような高校。
でも、母親に働けと言われた。それなら、高校に進学するわけにはいかない。家も出て行かないといけない。
母親と離れるのが、寂しかった。悲しかった。でも、言うことを聞かないと嫌われるから、従わないといけない。
担任の先生に相談して、卒業後の働き口を探してもらった。家を出なければならないことも、相談した。
先生が仕事を紹介してくれた。一緒に、就職先へ面談にも行ってくれた。
卒業後の働き口が決まった。
住み込みの寮――借り上げ社宅――がある、食品製造工場。
中学卒業と同時に、華は家を出た。持ち出した荷物は、着替えが数枚だけだった。
――ここまで華の話を聞いて。
一つ、秀人は気付いた。
華の知能の低さは、先天的なものではない。後天的なものだ。正常に知能を発達させる環境を、与えられなかった。母親の顔色を伺い、彼女に好かれることだけを考えた。それ以外に目を向けられなかった。だから、「ありがとう」と「ごめんなさい」という、その場を切り抜ける言葉を使いこなした。
華は、母親や男に言われた言葉を覚えている。一言一句正確ではないだろうが。その事実が、物語っている。本来の彼女は、正常な知能を有しているはずだった、と。
ずっと、自分を押し殺してきたのだ。生きるために。唯一の肉親である母親に、好かれるために。そんな少女。
華は、生家を出るまでは自分を押し殺し、今は、男に騙されて搾取されている。
秀人は薄く笑いそうになった。都合のいい手駒に出会えた。
華の目を覚まさせ、自分がどれだけ不遇かを思い知らせれば。自分を虐げてきた者達への、怒りを覚えさせれば。怒りの発散方法を教えてやれば。
華は間違いなく、大勢を殺せる操り人形になる。
華は話を続けた。自分の話を聞いてもらえるのが、嬉しいようだった。




