第四十話 背負うことと不幸になることは違う
「あんたが私に勝つなんて、絶対に無理だから。背負ってるものの大きさも、覚悟も、あんたとは違うもの」
膝をついた亜紀斗を見下ろし、咲花が言ってきた。
「あんたみたいな甘い奴に負けることなんて、絶対にない。どんなにブランクがあってもね」
無意識のうちに、亜紀斗は舌打ちしてしまった。見上げるように、咲花を睨みながら。
かきつばた中学校での事件から、約五ヶ月。咲花が怪我の治療をし、復帰してから約一ヶ月。
先月の実戦訓練で、咲花は、相変わらずの強さを見せていた。ブランクの影響を多少見せつつも、相手を圧倒していた。
亜紀斗は、この五ヶ月の間、可能な限りの訓練を積んでいた。仕事として入っている訓練以外にも、自主的に自分を鍛えていた。
秀人に圧倒されて、自分の未熟さを思い知った。自分は、秀人にはもちろん、咲花にも劣る。その事実が、悔しくて悔しくてたまらなかった。悔しさに後押しされるように、鍛え抜いた。
今日の訓練で、咲花と戦うことになって。
今の自分なら、ブランクのある咲花であれば優勢に戦えると思っていた。
だがそれは、ただの自惚れだった。咲花を相手に、優勢に戦えなかった。
「調子に乗んなよ? すぐに泣かせてやるから」
湧き上がる暴力性を隠しもせず、亜紀斗は吐き捨てた。負け惜しみだと、自分でも分かっている。分かっていても、言葉が口を突いた。
「せいぜい頑張ってみれば」
鼻で笑って、咲花は待機室に戻っていった。
秀人と戦ったとき、亜紀斗は、咲花と共に戦った。彼女がいなければ、秀人に殺されていただろう。彼女がいたから勝てたのだし、彼女がいたから生き残れた。助けられたことは、もちろん感謝している。
しかし、だからといって、咲花と親しくなったわけではない。
咲花に共感できる部分は、確かにある。彼女と亜紀斗が持つ、共通の気持ち。
――亡くしてしまった大切な人に、報いたい。報いるために生きている。
だが、共通の気持ちを持っているといっても、その方向性が真逆なのだ。
咲花が危機に陥ったら、助けたいとは思う。不幸になってほしい、というわけでもない。むしろ、いつか彼女の心の闇が払われ、幸せになってほしいとさえ思う。
でも、亜紀斗にとって、咲花は敵なのだ。決して憎くはない、恨みがあるわけでもない、共に戦うこともある敵。
だからこそ、咲花に負けたことが悔しい。
戦いの疲労で、亜紀斗の膝は痙攣していた。重い体を立ち上がらせて、亜紀斗も待機室に戻った。
実戦訓練が終了して、報告書を作成して。
他に仕事がなかったので、亜紀斗は、藤山の許可を得て、定時まで自主訓練を行った。
自分の体を、ひたすらいじめ抜く訓練。亜紀斗の頭の中には、二人の人物が浮かび上がっていた。咲花と、秀人。
秀人の追跡や捜査ついては極秘に行うと、藤山から聞かされていた。特別課ではない別の課の刑事が、秀人の足取りを追う、と。
秀人の情報を公開しない理由は、クロマチン能力者が犯罪に走ったと世間に知れたらパニックになるから。銃すらも効かない能力を持った犯罪者が、野に放たれている。そんな事実を公開するわけにはいかない――と、藤山も、上層の人間に言われたらしい。
かきつばた中学校の屋上で、亜紀斗は、秀人にまるで歯が立たなかった。エネルギー消費を度外視して戦ってもなお、子供扱いだった。
今度秀人と対峙したら、必ず捕まえてやる。咲花の力を借りることなく。そのために、力を付けなければ。咲花に負けているようでは、秀人には遠く及ばない。
妥協なく訓練を行う。体力が尽きても、エネルギーが枯渇しかけても、亜紀斗は集中力を失わなかった。目的のためなら、いくらでも自分に厳しくなれた。
集中し過ぎて、気が付くと午後六時半を回っていた。
訓練でクタクタになった体を引き摺り、亜紀斗は帰り支度をした。私服に着替え、特別課を出る。エレベーターに乗って、一階に降りた。
建物の出口付近で、麻衣が待っていた。
「お疲れ様です」
優しく可愛らしい笑顔を向けてくれる、彼女。
「お疲れ。待っててくれたんだ?」
「そりゃあ、まあ。一緒に帰れるの、亜紀斗さんが日勤のときだけですし」
いつからか、麻衣は、亜紀斗を「亜紀斗さん」と呼ぶようになっていた。
「それで、今日はこれからどうします?」
「帰って飯食って、オナニーして寝たい」
「私のウチに来ます? それとも、亜紀斗さんの家の方がいい?」
「ウチでもいいけど、食材の買い出しとか、何もしてない」
「じゃあ、買い物して亜紀斗さんの家に行くのと、このまま私の家に行くのと、どっちがいい?」
「……今日もお邪魔します」
「わかりました」
二人で並んで、地下鉄駅まで歩く。
亜紀斗はまだ、麻衣に返事をしていなかった。彼女の告白に対する返事。初めて彼女の家に行った日から、何度も泊っているのに。もちろん、一度たりとも手を出していないが。
とはいえ、亜紀斗は、もうとっくに麻衣に惚れていた。彼女がいると、どんなに危険な現場にいても、生きて帰ろうという気持ちになれる。秀人を前にしたときでさえ、捨て身になどならず、生きるために戦えた。
――生きて、麻衣のところに帰りたい。
それでも、明確な返事ができずにいる。
昔の彼女が忘れられないから。未練ではなく、後悔と懺悔の気持ちがあるから。
自分が返事を先送りにしているうちに、もし、麻衣に、他に好きな人ができたら。
きっと、辛いのだろう。その辛さすら、懺悔として受け止めるのだろう。大切な人を守れなかった自分には、誰かを好きになる資格などなかったんだ、と。
過去に囚われている。死者から離れられない。咲花と同じだなと、亜紀斗は苦笑しそうになった。
「あ、そうだ」
歩きながら、麻衣が、思い出したように言ってきた。
「亜紀斗さん。ひとつだけ、お願いしたいんですけど」
「何?」
亜紀斗が聞くと、麻衣は、小声で伝えてきた。
「お風呂場でオナニーはしないでほしいんですよ」
「……何で?」
「亜紀斗さんが出したアレって、お湯で固まるみたいで。排水溝が詰まるんですよね」
「そうなの?」
「そうなんです。掃除、意外に大変なんですよ」
「じゃあ、どうしよう? トイレでした方がいいかな。でも、トイレだと、体勢が……」
麻衣は溜め息をついた。
「もういい加減、諦めたらいいと思いますよ?」
「諦めるって?」
「腹をくくって、覚悟を決めて、私に手を出すんです」
「……」
麻衣を好きだという気持ちに、嘘偽りはない。性的な欲求を抜きにしても。反面、雄としての欲求があることも確かだ。だから、我慢できずに、彼女の家の風呂場でオナニーをしていた。
「ムラムラしてるんですよね?」
「そりゃあ、もう。滅茶苦茶ムラムラしてる」
「ですよね。留置所でも我慢できなかったくらいですしね」
「いや、あれは若かったから」
「今も十分若いですよ。だからムラムラするんですよね」
「いや、まあ。正直なところ、奥田さんと一緒にいると、常にムラムラしている」
「そうなんだ」
麻衣は悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、こうしたら、もう我慢できなくなる?」
麻衣が、亜紀斗の腕にしがみ付いてきた。上腕に、彼女の胸の感触。
「いや、あの、奥田さん?」
「何ですか? あ、ちなみに、わざと当ててます」
「奥田さんの風呂場の排水溝、完全に詰まらせるよ?」
「駄目です。お風呂場でのオナニー禁止です」
ピシャリと言った後。
ふいに、麻衣の表情が変わった。悪戯っぽい笑みから、優しい笑みになった。
「背負うことと幸せを放棄することは、違うんじゃないですか?」
「?」
急激な麻衣の雰囲気の変化に、亜紀斗は戸惑った。つい、足を止めてしまった。
亜紀斗に合わせて、麻衣も足を止めた。
街中の歩道。通行人が通り過ぎてゆく。
「亜紀斗さんは、罪を犯したわけじゃないけど。でも、それでも、過去の失敗を償いたいなら」
亜紀斗の目の前に、麻衣の顔がある。童顔の彼女。童顔に似合わない、強い意志を感じさせる瞳。
「私を守って、私を幸せにしてください。私を守ることで、亜紀斗さんも幸せになってください」
「……」
なぜか亜紀斗は、今の麻衣の言葉を、咲花に聞かせたくなった。背負うことと幸せを放棄することは、違う。亜紀斗に向けられた言葉だが、咲花にも当てはまる気がした。
心の中で、麻衣の言葉を繰り返した。
繰り返して、咀嚼して、飲み込んだ。
胸の奥から全身に、何かが染み渡ったようだった。
なんだか、一歩だけ、前進できる気がしてきた。
「奥田さん」
「はい?」
「ありがとう」
麻衣の表情が、また変わった。嬉しそうに微笑んだ。
「いいえ」
「帰ろうか」
「はい」
頷いた麻衣は、またすぐに、悪戯っぽい顔になった。
「ねえ、亜紀斗さん」
「何?」
「帰りに、避妊具、買っていきます?」
亜紀斗は何も返答できなかった。欲求が湧き出て、言葉に詰まってしまった。
麻衣が、楽しそうに笑っていた。
「私はもう、とっくに、その気なんですから」
(第一章・完)
※この後、第一章のおまけを投稿します




