第三十七話 藤山博仁が見たいもの
藤山博仁、四十一歳。北海道警本部刑事部特別課SCPT部隊隊長。
十年近く前の彼に対して、周囲の人間はこんな印象を抱いていた。
「非情に正義感が強い人」
幼い頃――小学生の頃から、藤山は非常に正義感が強かった。
同級生や下級生がいじめられていたら、必ず助けていた。加害者が上級生でも、決して怯まず、屈せず、平伏しなかった。
正義を貫く相手は、歳の近い者達だけではなかった。
彼の学生時代には、理不尽な教師も多かった。生徒の話も聞かずに手を振り上げ、あるいは、生徒が正しくても自分の主張を貫き通す教師。傲慢な大人。
自分より力や立場が強い者にも、藤山は正義を貫いた。
かといって、自分の正義が絶対という、独善者でもなかった。自分が間違っていたときには、過ちを素直に認めた。強力な力に対して下げる頭はなくても、正しいことの前には頭を下げた。
そんな藤山が警察官を志したのは、当然と言えるし、必然と言えた。
警察学校の最後のカリキュラムで、藤山は、クロマチン素養が確認された。訓練を受け、特別課に配属された。
危険を伴う業務。特殊な能力があるといっても、エネルギーが枯渇してしまえば、ただの人間だ。命に関わる、危険な仕事。
それでも藤山は、恐れることはなかった。他の誰よりも厳しい訓練を重ね、自分を鍛え上げた。正義を貫くために。
強力な武器を持ち、人々に害を加える凶悪犯。あるいは、犯罪者集団。そのような者達を駆逐するために、必死だった。
藤山は死刑賛成派だ。たとえ、世界のほとんどの国で、死刑廃止が謳われていようとも。
何の罪もない人達を傷付け、命を奪う者に、生きる場所を与えるべきではない。
凶悪犯を生かし、刑期を終えて娑婆に戻し、再び犯罪に手を染めたら。不必要に発生した犯罪の責任を、誰が負うというのか。不必要に生まれた被害者の傷を、誰が癒すというのうか。不必要に殺された人の命は、二度と戻らない。
反面、犯罪者の背景も考慮していた。世の中には、犯罪に走る以外に生きる道のない者がいる。生まれた環境が貧しく、劣悪で、人から物を奪わなければ生きられない者。自分の体を売らなければ、今日を生きる金すら得られない者。
だからこそ、現場で犯人を殺してしまわないよう、細心の注意を払った。事件の現場では、犯人の背景など分からないのが常だ。同情の余地もない者なら、殺しても問題ないと思っている。しかし、もし、殺すべきではない背景が犯人にあった場合はどうか。
失われた命は、二度と戻らない。だからこそ、現場で犯人の命を奪ってはいけない。もしかしたら、その犯人には、更生させるべき背景があるのかも知れないのだから。
藤山が、道警本部の中でも一目置かれる存在になった頃。
一人の新人が配属されてきた。
金井秀人。内部型と外部型双方の資質を持つ天才。知能が高く、冷静で、それでいて物腰も柔らかい。彼はすぐに、道警本部特別課の中でもトップの実力者となった。実力的には、先輩である藤山よりも上だった。
素質や実力が、自分よりも上の秀人。彼に対し、藤山が嫉妬することはなかった。むしろ、優秀な隊員が増えたことを歓迎した。
正義感が強く、自分の主張をはっきりと示す藤山。冷静に周囲を見て、卓越した頭脳で行動できる秀人。
二人は、不思議なほど気が合った。
どこか影のある秀人に少し壁を感じていたものの、藤山は、彼のことを素直に認めていた。
――その事件が起こったのは、秀人が入隊して二年が過ぎた頃だった。
特別課が対応する事件ではない。捜査一課が対応すべき事件。
しかし、捜査一課は、その事件を捜査しなかった。
事件の内容は、陰湿極まりないものだった。
四人の男が一人の男性を拉致し、銀行で金を引き出させ、豪遊した。ただ金を巻き上げるだけではなく、被害者の男性に凄惨なリンチも加えていた。
銀行の防犯カメラに残されていた、被害者が金を引き出す映像。被害者の周囲で、彼を小突く犯人達。
証拠は山ほどあった。捜査一課が乗り出せば、すぐに逮捕できる事件だった。
それでも警察は動かなかった。
犯人である、四人の男達。そのうち二人の勤務先は、警察の天下り先だった。警察が懇意にしている民間企業。
国家公務員法には再就職に関する規制があるが、完全に機能しているとは言い難い。
さらに、犯人のうちの一人は、警察関係者の――警部補の息子だった。
捜査一課が事件を捜査しないため、「事件」という扱いにもならない。事件という扱いにならないから、警察内で広まることもない。
藤山がこの事件の存在を知ったのは、被害者が殺害された後だった。遺体が発見され、事件が一般的にも知られたとき。
当初、警察側は、この事件に関して事実無根の公表をした。
『殺された青年と犯人達は、もともと、不良仲間だった。仲間割れがエスカレートして、被害者を殺してしまった』
事件が一般的に知られたことで、藤山の耳にも入った。加害者四人の素性も分かり、警察の対応や公表に関して疑問を持つようになった。
藤山に事実を教えてくれたのは、秀人だった。
犯人の中に天下り先の社員がいたから、警察は動かなかった。天下り先の企業と、密な関係でいるために。
犯人の中に警察関係者がいたから、警察は動かなかった。不祥事によって叩かれることを防ぐために。
当然ながら、藤山は怒りに震えた。警察内で、大いに暴れた。もっとも、単純暴力を駆使して暴れたのではない。自分の力は、人の命を容易く奪えるものだ。だから、周囲や上司に、警察における正義とは何かを問いただした。
警察が正しい行動をしなかったことにより、命を失った被害者。
被害者遺族は、当然、警察を訴えた。国家賠償請求訴訟。警察を相手取り、裁判を起こした。
遺族が裁判で戦っている間にも、藤山は、警察内部で主張を続けた。
「警察が捜査をしなかった事実と、その理由を明確にすべきだ。捜査をしていれば助けられた命。被害者を見殺しにしたことを素直に認め、世間や遺族に対し、誠心誠意謝罪すべきだ」
しかし、藤山の主張が、警察内部で認められることはなかった。
もし藤山が、クロマチン素養者でなければ。特別課の中でも、秀人に次ぐ実力者でなければ。おそらく、適当な理由を付けて免職されていただろう。
それでも藤山は、警察内部で戦い続けた。確かに今は、警察内部で、自分の主張が通ることはない。だが、警察側に非を認めさせ、国民の前で謝罪させる道があると信じていた。
遺族が起こした、国家賠償請求訴訟。この事件において、警察に否があることは明らかだ。遺族の主張が全面的に認められれば、間違いなく、警察の対応に問題があると断定されるはずだ。
そんな藤山の目論みは、残酷に崩れ去った。
裁判における第一審では、遺族の主張が全面的に認められた。
国側は――警察側は、判決を不服として控訴した。
控訴審は、高等裁判所で行われる。
その、控訴審で。
司法が出した、結論と判決文に。
藤山は絶句し、絶望した。
判決としては、遺族の主張を一部認めていた。ただし、遺族が求めた賠償額を大きく減額した判決だった。
大幅減額した理由として、このように述べていた。
『警察の怠慢がなくとも、被害者を救出できた可能性は三割程度』
加害者の身元も人数も、動きも分かっていた事件。銀行の監視カメラに、明確な証拠まで残っていた。『被害者を救出できた可能性は三割程度』などでは、決してなかった。
なぜ、被害者を救出できた可能性は三割程度なのか。裁判所がその根拠を示すことは、とうとうなかった。
当たり前だが、遺族は判決を不服とした。不服の意思を表すように、上告した。
しかし。
最高裁判所は、上告を棄却した。二審の高裁判決が――『警察の怠慢がなくとも、被害者を救出できた可能性は三割程度』という判決が、確定した。
警察の怠慢や癒着主義は、こうして守られた。一部賠償を遺族に支払ったものの、行為の重さとしては――人を見殺しにした代償としては、あまりに安かったと言える。
警察は、何も変わらなかった。
藤山の主張など、鼻で笑われた。
鼻で笑われ、風化し、塵のように消えていった。風に吹かれて飛ばされてゆく、砂のように。
――ああ、そうか。
藤山は気付いた。
この国は、三権分立を謳っている。警察等の行政権。立法権。裁判所の司法権。権力を分立させることで、国の力の暴走を防ぐために。
だが、分立しているといっても、どの権力も国のものだ。国家賠償請求訴訟は、国が国を裁くものなのだ。手心が加えられて当然だと思えた。
結局のところ、国という大きな力の前には、何もできないのだ。
世の中は――世界は、大きな流れに沿って動いている。海に向う川のように。その流れを逆向きにすることなど、できはしない。
それならば、自分も、流れに沿って生きるしかない。
藤山は、大きな流れに――大きな力に従うことを覚えた。腰を低くし、穏やかな口調で喋り、常に笑みを浮かべて、全てを受け流すようになった。
この世に、正義などというものはない。強いて言うのであれば、力のある者の主張こそ正義なのだ。だから、裁判でこんな判決が出た。
様子が変わった藤山に、秀人は、白けた目を見せた。
「その喋り方も生き方も、気持ち悪いよ、藤山さん」
藤山と秀人の仲に、大きな亀裂が入った。争うことはないものの、親しくすることもない。ただの、必要最低限しか会話をしない同僚。
大きな流れに身を任せた藤山は、その能力の高さも手伝って、割とすぐに出世した。特別課の隊長に任命された。
不思議だったのは、秀人が隊長に任命されなかったことだ。彼は、藤山以上に優秀だ。クロマチン能力者としても、その頭脳も。
きっと、長いものに巻かれる態度が、出世の要因となったのだろう。藤山自身は、そう判断した。
藤山が隊長になってしばらくしてから、咲花が入隊してきた。努力家で、優秀な隊員。秀人を目標とし、他の者の追随を許さない力を身に付けていった。
咲花が入隊してから、半年ほど後。
秀人が、失踪した。
さらに四年ほど経った後。
咲花が、凶悪犯を殺すようになった。明かに、意図的に。
藤山は、咲花が変わった理由を探した。答えと思える理由は、すぐに見つかった。彼女は、有名な事件の被害者遺族だった。美人女性誘拐監禁虐殺事件。被害者と姓が違っていたが、その理由もすぐに知れた。
もっとも、腑に落ちない部分もあった。被害者遺族なら、まずは復讐を考えるはずだ。それなのに咲花は、姉の仇を討つ気配すら見せない。ただただ、凶悪な犯人を手にかけるだけだった。
咲花の行動は、かつて藤山が抱いた正義に似ていた。死刑賛成派である、かつての藤山。もっとも、咲花の行動は、かなり行き過ぎていたが。
咲花がどれだけ凶悪犯を殺しても、お咎めはなかった。上層部から、彼女の行動を黙認するように指示が出されていた。指示の出所までは、藤山にも分からない。ただ、藤山は、その流れに身を任せた。咲花の行動に、かつての自分を懐かしみながら。
咲花が凶悪犯を殺すようになってから、二年ほどが過ぎた頃。
江別署から、亜紀斗が異動してきた。
藤山は、以前から、亜紀斗の噂を聞いていた。圧倒的な力があるのに、武装犯罪の現場で、その力を振るうことはあまりない。犯人を説得し、無傷で――ほぼ自首に近いかたちで、投降させることもある。
咲花とは別の意味で、藤山は、亜紀斗に昔の自分を見た。犯罪者でも、抱えている背景によっては、更生し償える者がいる。
まったく逆の二人が、藤山の目の前にいる。
まったく逆なのに、二人とも、昔の自分の理想に近い。
だが、理想に近いだけで、理想とは言えない。
二人とも、視野が狭すぎる。偏った価値観に縛られ、自分の理想を貫くことに意固地になり過ぎている。
藤山は、権力に逆らわないことを覚えた。長いものに巻かれ、大きな流れに身を任せることを覚えた。
覚えたつもりだった。
それなのに、咲花と亜紀斗を見て、胸が熱くなった。
この二人なら、大きな権力にすら影響を与える、何者かになれるかも知れない。
一介の隊員に過ぎない彼等に、そんな希望を抱いた。
だからこそ、二人をぶつかり合わせたかった。まったく違う二人をぶつかり合わせ、彼等の狭い視野を、広げたかった。互いにあって互いにないものを、吸収させ合いたかった。
目論みは、上手くいっているように思えた。咲花と亜紀斗は嫌い合っているが、同時に、影響を与え合っている。その証拠のように、お互いを意識し、感情が揺さ振られている。
二人の未来が、楽しみだった。
楽しみだったから、秀人の出現には驚いた。彼が犯罪者になったことにも驚いたが、何より、咲花や亜紀斗の前に立ちはだかったことに驚いた。
――二人を失いたくない。
藤山の感情は、隊長という立場から芽生えたものではなかった。
一人の人間として――かつて理想を追い、大きな権力に屈し、それでも捨て切れない理想がある人間として。
本当の意味での「正義」を求める人間として、彼等を必要としていた。
咲花と亜紀斗の二人に、何ができるのか。一人の人間として、見てみたかった。
彼等は、秀人を相手にしてなお、生き残った。あの秀人に、負けを認めさせた。
大きな流れに身を任せ、流れの中で染みついた口調や笑顔。
秀人に「気持ち悪い」と言われた笑顔の奥底で、藤山は、心を躍らせていた。
咲花と亜紀斗の未来に。
※次回更新は11/10の夜を予定しています。
自分の力や決意が足りず理想を諦めたとき、人は何を思うか。
全てを諦め、流されるまま生きるかも知れない。
後世に夢を託すかも知れない。
あるいは、理想に沿わない世界を壊すことを考えるかも知れない。
藤山は、当初は諦めた。
しかし、託せる者の出現に、夢を見た。
これから藤山の周囲は、どんなふうに変ってゆくのか。
あるいは、何も変らないままなのか。




