第三十二話 勝てない相手でも戦える
亜紀斗は咲花が嫌いだ。
咲花は、事件の犯人を躊躇なく殺している。亜紀斗とは、真逆の信念を持っている。言葉を交わせば、大抵の場合は言い争いになる。
はっきり言って、これほど馬が合わない者も珍しいだろう。
だが、同時に、共感する部分もある。
自分の信念に、命すら懸けている。信念を貫くために、苦痛も苦難も厭わない。努力に努力を重ね、自分を磨き上げている。
そんな咲花だからこそ、亜紀斗は信用していた。自分の背中を任せ、彼女の指示に従った。
もっとも、全てを咲花の言う通りにはしない。
『あんたは死ぬよ』
死ぬわけにはいかない。守りたい人ができたから。守りたい人に「守って下さい」と言われたから。
咲花の指示を受けた直後、亜紀斗は、秀人に向って踏み込んだ。
秀人には、外部型と内部型の双方の能力がある。亜紀斗が接近してきたら、まずは外部型で距離を取るだろう。
そう思っていた。
そう思っていたから、意外だった。
秀人は、亜紀斗の接近を簡単に許した。
亜紀斗の頭に、先ほどの咲花の言葉が浮かんだ。
『私と戦ったとき、秀人さんは、外部型しか使ってなかった』
つまり秀人は、咲花が得意とする戦い方に付き合っていた。
亜紀斗相手にも、同じ事をするつもりなのだろう。あえて亜紀斗の土俵で戦う。亜紀斗の土俵で戦い、圧倒することで、力の差を見せつける。
――舐めやがって!
亜紀斗の胸中で、十年前の自分が顔を出した。凶暴性と暴力性に任せて、喧嘩ばかりしていた頃。挑発しながら喧嘩を売ってきた奴等を、一人で叩きのめしていた。
とはいえ亜紀斗も、あの頃とは違う。素人ではない。血の滲むような訓練を重ねて、様々な戦い方を身に付けた。
秀人に接近した瞬間に、亜紀斗は構えた。左足を前。右足を後ろ。彼に向って斜に構える。前に出した左拳を、真っ直ぐ打ち出した。
秀人はバックステップで亜紀斗の拳を避けると、すぐに蹴りを繰り出してきた。左の回し蹴り。
亜紀斗は秀人の左足を避け、再度踏み込んだ。秀人から四十センチほどの距離。今度は、秀人の顔面に左フックを放った。
秀人は、半歩下がって亜紀斗の左フックを避けた。直後、突き出すような蹴りを打ってきた。
秀人の動きは滑らかで、無駄がない。しかも速い。
反射的に、亜紀斗は避け切れないと判断した。突き出してくる秀人の足は、亜紀斗の腹に向っている。
亜紀斗は、エネルギーを腹に集中させた。肉体を強化させる、内部型クロマチン。
秀人の前蹴りが、亜紀斗の腹に当たった。ドスッという鈍い音。腹部を強化していなければ、胴体に穴が空いていた。それほどの威力だった。息が詰まる。
秀人の攻撃は止らない。亜紀斗の腹に当てた左足を引っ込めて、また左足で蹴りを放ってきた。回し蹴り。狙いは、亜紀斗の頭。
またも反射的に、亜紀斗はバックステップした。秀人の足が届かない距離まで、大きく下がった。
秀人は追撃をしてこなかった。口元には微笑。明かに余裕がある。
亜紀斗が秀人に接近してから、時間にして一秒弱。ほんの一瞬の攻防。亜紀斗が出したパンチは二発。秀人が出した蹴りは三発。
たったそれだけの攻防で、亜紀斗は思い知った。秀人は、自分よりも数段上にいる。遙かに高い、手の届かない存在。内部型の能力に限定しても、まともに戦って勝てる相手ではない。
亜紀斗は、昔から強かった。喧嘩で負けた記憶はない。SCPT隊員となった後も、実戦訓練で、他の隊員に劣勢になったことはない――咲花を除いては。
つまり亜紀斗は、今まで、多くの者を圧倒してきた。余裕を持って相手の攻撃を捌き、狙った場所に狙った通りに攻撃を当てることができた。実戦訓練では、相手に怪我をさせないように気を遣ってすらいた。
だからこそ分かる。自分と秀人の力の差が。今の秀人は、きっと、実戦訓練の時の亜紀斗と同じような気分なのだ。亜紀斗が、咲花以外の隊員を相手にしているときの感覚。
仕留めようと思えば、いつでも仕留められる。
――どうする?
雪が降るほど寒いのに、亜紀斗の頬には汗が流れていた。冷や汗。
こんな化け物と、どうやって戦えばいい?
亜紀斗の凶暴性と暴力性は、すっかり消えていた。恐怖からではない。凶暴性と暴力性に任せていたら、瞬く間に殺されるから。
絶対に負けられない――死ぬわけにはいかない。圧倒的な力の差があっても、勝たなければならない。
でも、勝つ方法など思い浮ばない。考えれば考えるほど、不可能という言葉が頭を埋め尽くしてゆく。
秀人に勝つなんて、不可能だ。
「佐川!」
咲花に名を呼ばれて、亜紀斗の頭がクリアになった。
「動き回って!」
そうだ。亜紀斗は、咲花の指示を思い出した。動き回って戦え、という指示。
咲花には勝算があるのだ。だから、亜紀斗に指示を出してきた。亜紀斗に出した指示を布石にして、何かを仕掛けるつもりなのだ。彼女の意図は分からない。だが、この場では、彼女の考えに任せるしかない。
しかし、秀人相手に動き回って戦っても、すぐにやられるだろう。
普通の――基本的な戦い方をしていたら、どんなに動き回っても、すぐにやられる。
クロマチン能力は、体内のエネルギーを大量に消費する。だからこそ、無駄なエネルギーを使わずに戦うことが重要となる。必要な部分を必要なだけ強化し、必要最低限のエネルギーで戦う。そうしなければ、すぐにエネルギーが枯渇する。
亜紀斗は非常食を持っていない。警備車を出てから、何も食べていない。ここに来るまで、それほどエネルギーを消費することはなかった。それでも、全力でエネルギーを使ったら、五分ももたない。
――いや。
クロマチン能力を全開で使用し続けたら、エネルギーが尽きる前に、激しい動きで酸欠になる可能性がある。そう考えると、全力で動けるのはせいぜい三分か。
亜紀斗は大きく息を吸った。体中に酸素を送る。同時に、全身の耐久力を、内部型クロマチンで強化した。自分の動きに体が耐え切れる程度に、ではない。最大限に全身を強化した。
自分は、秀人の動きについていけない。それが分かっているからこそ、攻撃を受けても耐えられるように強化した。同時に、秀人に少しでもダメージを与えられるよう、身体能力も限界まで強化した。
直後、亜紀斗は動き出した。秀人を幻惑するように左右に動き、その合間合間に攻撃を仕掛ける。驚異的な速度と運動量。実戦訓練のときに、こんな動きをしたことはない。事件現場でも、これほどエネルギーを注いだことはない。
クロマチン能力者の常識を無視した、限界を超えた全力。
秀人は、基本的な内部型クロマチンの戦い方をしていた。エネルギー消費を最小限に抑え、必要な部分を必要なだけ強化している。
それでも、亜紀斗の動きに的確に対応している。
亜紀斗は素早く右にステップし、秀人の視界から外れようとした。
しかし秀人は、亜紀斗の動きに対応してきた。蹴りを放ってくる。左の回し蹴り。顔面にまともに食らった。
全身を最大限に強化しているため、亜紀斗に、それほど大きなダメージはない。
亜紀斗は、一瞬だけ左に動いた。秀人の瞳が、亜紀斗を追ってくる。その直後、秀人を幻惑するように、反対方向にステップした。左右の動きを混ぜたフェイント。ステップの直後に、右ストレートを放つ。
秀人は、右に動いて亜紀斗の蹴りを避けた。そのまま、亜紀斗の太股に蹴りを放ってくる。
亜紀斗は素早くバックステップし、左に旋回しながら秀人に接近した。
接近した瞬間に、秀人の膝をカウンターで食らった。右腹部に鈍痛。肝臓がある、胴体の急所。最大限に強化していても、息が詰まるほど苦しい。
それでも亜紀斗は、止らなかった。
咲花の指示通り、亜紀斗は左右に動き回り、積極的に攻勢を仕掛けた。全力でエネルギーを使っているから、普段よりもはるかに速く動けている。普段よりもはるかに、威力のある攻撃を放っている。
それなのに、秀人にはまったく通用しない。
亜紀斗を相手に、秀人は足しか使っていない。蹴りが得意だから――という理由からではないだろう。
咲花が攻撃してきたら、両手で対応する。そのために、亜紀斗の相手は足のみで行っている。
秀人の様子から、亜紀斗は、本能的にそれを悟っていた。
もし秀人が、両手両足を使って戦ったら。
全力で全身を強化しても、一方的に打ちのめされるだろう。
足しか使っていない秀人に、手も足も出ない。攻撃はまるで当たらないし、要所要所で的確な蹴りを食らう。
屈辱しか感じられない戦い。悔しさで、涙さえ出そうだった。
それでも亜紀斗は、動き続けた。
秀人は亜紀斗を捌きながら、自分達の位置関係にも気を配っているようだ。決して、咲花に背を向けない。彼女に背を向けるのは危険だと、警戒しているのだろう。
もしかして、と思う。咲花が「動き回って」と指示したのは、秀人の背後を取るだめではないか。秀人の背後を取るために、亜紀斗に、動き回りながら戦うよう指示したのではないか。
だとしたら、絶望的だ。秀人は確実に、自分達の位置関係を把握しながら戦っている。
咲花は今、屋上の塔屋付近にいる。コンクリートでできた塔屋。鉄製の分厚い扉。じっとこちらを見つめ、何かを狙っている。
亜紀斗が全力で全身を強化してから、おそらく一分ほどが経過した。
体内のエネルギーがどんどん消費しているのが分かる。激しく動いているため、体は大量の酸素を求めている。横隔膜は激しく動き、肺に空気を送り続けている。心臓の動きは、信じられないほど速くなっていた。一分間の脈拍は、おそらく三五〇を超えているだろう。内部型クロマチンで強化しているからこその、脈拍数。
心臓や横隔膜は筋肉である。そのため、内部型クロマチンで動きを強化できる。反面、酸素を吸収する肺は、筋肉ではない。動きを強化することはできず、内部型クロマチンで強度を増すことしかできない。
亜紀斗の肺が、悲鳴を上げ始めていた。胸に、圧迫されるような痛みを感じる。吐き気がするほど苦しい。自分の限界を三分と考えていたが、もっと短いだろう。せいぜい二分か。
時間がない。亜紀斗は勝負に出た。どうにかして、秀人の背中を咲花に向けさせる。
秀人は今、咲花に、体の左側面を向けている。
亜紀斗が左に動き、秀人が亜紀斗の動きを追ってきたら、咲花に背を向ける位置関係になる。
まず亜紀斗は、一歩、秀人に向って踏み込んだ。同時に、左のジャブを放つ。
秀人は余裕を持って、亜紀斗の拳を避けた。
その瞬間に、亜紀斗は動いた。左回りに、大きく足を踏み出そうとした。
だが――
亜紀斗の視界が、突如揺らいだ。足が地面から離れ、目に映る景色が九十度回転した。
秀人に足を引っ掛けられ、転倒した。そう気付いたときには、もう、地面に落下していた。
秀人は、咲花に背後を見せていない。その位置関係にできなかった。
転倒した亜紀斗に、秀人が足を振り上げてきた。踵落としを狙っている。
避けることも防ぐことも不可能な、亜紀斗の体勢。
しかし、秀人の踵が亜紀斗に落ちてくることはなかった。
咲花が、秀人に向って外部型クロマチンの弾丸を放った。
一直線に伸びてきた弾丸を、秀人は難なく防いだ。掌に防御膜を張って。
咲花の放った弾丸が、秀人の手元で弾けた。飛び散ったエネルギーにより、景色が歪んで見える。まるで、水が弾け飛んだようだった。
「佐川! すぐに立て! 動け!」
咲花の声を聞いて、亜紀斗は、跳ね上がるように体を起こした。再び、秀人の周囲で激しく動きながら、攻撃を仕掛ける。
体内のエネルギーも肺の状態も、驚くほどの早さで限界に近付いていた。
※次回更新は10/13を予定しています。
亜紀斗よりも数段高みにいる秀人。まるで歯が立たず、いいように翻弄されている状態。
それでも亜紀斗は、咲花を信じて戦い続ける。
嫌いでも、啀み合っていても、認めているから。
そんな亜紀斗に、指示を出しながら。
咲花は、何を思うのか。




