第三十一話① 嫌いだけど認めてる(前編)
完全に思い違いだった。
あるいは、自惚れだった。
まさか、ここまで実力差があるなんて思っていなかった。
かきつばた中学校の屋上で。チラチラと降る雪の中で。
地面に片膝を付きながら、咲花は、じっと秀人を睨んでいた。咲花から十メートルほど離れた場所にいる、彼を。傷一つなく、余裕の表情を見せている。
秀人は、圧倒的に強かった。内部型の力を使うこともなく、外部型の力だけで咲花を圧倒した。致命傷になるほどではないものの、咲花の体には、ところどころに傷がある。秀人との戦いで負った傷。
咲花には自信があった。外部型の能力に関しては秀人を上回っている、と。外部型の力で彼を圧倒し、その先に勝機を見出していた。
外部型で対応できなくなった秀人が、内部型を使って接近してくる。彼が接近した瞬間に、近距離砲で仕留める。
そんな算段は、見事に崩れ去った。外部型の能力で圧倒するどころではなかった。むしろ秀人は、咲花に付き合うように、外部型の距離で戦っていた。
余裕のある秀人は、笑みさえ浮かべていた。
「ねえ、咲花。まだ戦う? 正直、無駄だと思うけど」
確かに無駄だろう。接近して近距離砲が撃てれば、まだ勝機はある。しかし、あまりに実力差があり過ぎる。接近することなど不可能だ。
咲花が返答しないので、秀人はそのまま話し続けた。
「このまま戦っても無駄死にするだけだし、俺と一緒に来ない? 悪い話じゃないと思うよ」
目を奪われるほど美しい、秀人の容貌。その声は耳に心地好く、甘美ささえ感じる。
「お前は凶悪犯を殺してるけど、それに何の意味がある? 確かに、被害者の冥福を祈る意味にはなるかも知れない。被害者遺族が、事件に決着をつけることに繋がるかも知れない。痛みや悔しさ、悲しさを抱える人達に、寄り添えるかも知れない」
心地好い声で紡がれる言葉には、心を動かす力があった。
「でもそれで、咲花は救われるのか? 痛みは癒されるのか? 悲しさは薄れるのか? 悔しさは消えるのか?」
救われはしない。心はずっと痛い。涙が涸れるほど悲しい。胸が焼かれるほど悔しい。
大好きな姉は、二度と戻らない。苦しんで苦しんで殺された姉は、もう二度と、咲花に笑顔を見せてくれない。
「殺したいと思わないか? お前の姉を殺した、ゴミ共を」
殺してやりたい。
「お前の姉以上の苦痛を与えて、自分達の行いを後悔させて、苦しみのあまりに『殺して』って懇願させて、でも、ひと思いに殺したりせずに。長い時間を掛けて、正気さえ失うほどの地獄を見せて」
苦しめて、苦しめて。この世の地獄を見せて。
「そうやって殺したくない?」
そうやって殺してやりたい。
世間では、姉の事件を振り返る人もいる。少年犯罪史上最悪の事件として。事件を検証し、犯人の心理を分析する人もいる。犯人達を批難する人。犯人達の家族を批難する人。
決して風化することなく語られるほど、残虐な事件。
事件を振り返ることで、法律の欠点が見直された。他の事件の影響もあって、法改正も行われた。そういう意味では、姉の死は、世の中を変えるきっかけになった。
でも、本質的には何も変わっていない。
姉の事件の後も、凄惨な事件はいくつも起こった。咲花が警察官になった後も。同情の余地すらない犯人のせいで、苦しむ人がいる。悲しむ人がいる。絶望する人がいる。
犯人は刑務所に入り、一定の刑期を終えて出所する。刑期を終えたことで「罪を償った」とされて。
でも、被害者にとっても被害者遺族にとっても、事件は終わらない。傷は癒えない。悲しみは消えない。心はいつまでも痛い。憎しみは尽きることなく湧き出てくる。
咲花にとっても、事件は終わっていない。
一生、この苦痛は続く。大好きな姉を嬲り殺しにされた、苦痛が。
反面、咲花には、事件を終わらせる力がある。犯人達を探し出し、捕らえて、嬲り殺しにする力がある。
本当は、事件を終わらせたい。
司法が終わらせてくれないのなら、自分の力で終わらせたい。
犯人を殺したからといって、姉が生き返るわけではない。
犯人を殺したからといって、姉を失った悲しみが消えるわけではない。
痛みが和らぐわけではない。
悔しさが薄れるわけではない。
ただ、それでも。
一つの区切りにできる。
秀人の言うことは、何一つ間違っていない。
姉を殺した犯人を、全員殺してやりたい。思いつく限りの苦痛を与えたうえで。
――殺して……やりたい……。
咲花の心の中で、信念が揺らいだ。波打つ水面のように。静かな水面に小石が落ちて、円状の波が広がった。波は、さらに大きく咲花の心を揺るがした。
その瞬間だった。
バンッと音を立てて、屋上の扉が開かれた。
咲花は我に返って、扉の方を見た。
秀人も、屋上の扉に目を向けている。
扉を開けたのは、亜紀斗だった。
屋上の入口で、亜紀斗の目線が動いた。最初に咲花を見て。次に、秀人を見て。その目を、大きく見開いた。
「笹島!」
亜紀斗は咲花に駆け寄ってきた。ただし、秀人を警戒したまま。驚きながらも的確な行動を取れるのは、彼の能力の証明と言えた。認めたくはないが。
「笹島。大丈夫なのか?」
亜紀斗の問いに、咲花は鼻で笑ってしまった。
「大丈夫そうに見える?」
「……」
亜紀斗の表情は変わらない。驚きに満ちた顔。それでも秀人をじっと見て、いつでも戦える体勢を保っている。
「どういうことだよ? お前が、こんなふうに……」
亜紀斗は、信じられない、という様子だった。
無理もない。咲花も、亜紀斗と同じ気持ちだった。こんなに一方的にやられるなんて、思ってもいなかった。
「あいつ、誰なんだ? 隊長は何か知ってるみたいだったけど」
秀人は黙って、咲花達の様子を見ていた。変わらない笑顔のままで。仕掛けてくる様子はない。自信があるのだろう。咲花と亜紀斗の二人を相手にしても、問題なく勝てる自信。
咲花は呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がった。体の所々が痛い。さらに、秀人との戦いで、かなりのエネルギーを消費した。手持ちの非常食はない。つまり、あと少ししか戦えない。
「六年前に失踪した、外部型と内部型の双方のクロマチン能力者、って知ってる?」
「まあ、噂くらいなら」
答えて、亜紀斗は小さく声を漏らした。
「あいつが?」
「そう。あと、念のため言っておくけど、あの人、男だから。名前は金井秀人」
「は?」
二重の意味で、亜紀斗は驚いたようだった。それでも秀人から視線を離さず、聞いてきた。
「何で、その失踪したSCPT隊員が、こんなところにいるんだよ?」
「答えは簡単。あの子達に銃を渡してこの中学校を襲撃させたのが、俺だから」
亜紀斗の質問に答えたのは、秀人だった。
「何か分からないことがあったら、何でも聞いて。嘘偽りなく答えてあげる」
秀人に言われて、咲花は、昔ことを思い出していた。六年以上前のこと。秀人が失踪する前――彼が、咲花の先輩だった頃のこと。
賢く、努力家だった。知能の高さと天賦の才で、圧倒的な能力を身に付けていた。後輩にも優しく、指導能力も高かった。
当時の咲花は、まだ、姉の死の詳細を知らなかった。ひたむきに職務を全うしていた。そんな咲花にとって、秀人は大きな目標だった。優しく、強く、真面目で、優秀な先輩。
そんな秀人が、どうして――
「どうして秀人さんは、こんなことをしてるの?」
先ほどは、はぐらかされてしまった質問。どうして秀人は、犯罪者となったのか。




