第三十話 嫌いだけど助けたい
二年三組の教室を出た亜紀斗は、屋上に向っていた。
廊下の所々が、血で滑る。走っていると転倒しそうになる。
亜紀斗は全力で走っているが、内部型クロマチンは発動していない。藤山の言葉が、気になっていたから。
『いいから早く屋上に行け! 咲花が殺される! 早く!』
屋上にいる犯人のことを――黒幕が誰なのかを、藤山は知っている。彼の言葉から、それは容易に想像がつく。
だが、想像できないこともあった。
咲花が負けるところなど、想像できない。
悔しいが、咲花は強い。実戦訓練で何度か戦ったが、亜紀斗は、一度も彼女に勝てなかった。勝敗をつけているわけではないが、自分が劣勢なことは、はっきりと自覚していた。
亜紀斗が駆けつける頃には、咲花は黒幕を仕留めているだろう。黒幕が一人なら、自供させるために殺しはしない。だが、目も当てられないほどの重傷を負わせているはずだ。
きっと、屋上に辿り着く頃には、決着が着いている。
そう思いつつも、藤山の慌て振りが気になった。普段の彼からは考えられない、口調と声。まるで別人だった。語気の強い――昔の亜紀斗のような怒鳴り方をしていた。
念のため、亜紀斗は、万が一に備えていた。咲花がやられていたら、自分が、彼女を負かした相手を捕らえなければならない。だから、内部型クロマチンを発動せずに屋上に向っていた。エネルギーを温存するために。
階段に辿り着いた。
階段には、遺体も血痕もなかった。これなら、滑ることなく駆け上がれる。
一段飛ばしで、亜紀斗は階段を昇った。
咲花が屋上に向った直後から、藤山は、亜紀斗に連絡を取ろうとしたはずだ。咲花の援護に向わせるために。
七回もの不在着信。それだけ、咲花が屋上に向ってから時間が経っている。
黒幕の正体など、亜紀斗には想像もつかない。ただ、藤山の慌て振りから考えると、相当危険な人物なのだろう。咲花が負けるとは思えないが、かなり苦戦するほどの。
亜紀斗は咲花が嫌いだ。考え方も信念も、まるで違う。出会ってまだ八ヶ月程度なのに、数え切れないほど争ってきた。実戦訓練のときも、互いに殺す気で戦っていた。
――それでも。
自分の心の中にある気持ちに、亜紀斗は気付いていた。
咲花を助けたい。助けなければならない。
同じ部署にいる仲間だから、などという薄っぺらな理由からではなく。黒幕を捕らえるために必要だから、なんて損得勘定でもなく。
亜紀斗と咲花は真逆だ。さらに彼女は、亜紀斗が尊敬している先生とも真逆の価値観で生きている。亜紀斗や先生の考え方を、否定している。
反面、咲花は、亜紀斗と同じなのだ。過去の自分を呪い、未来の幸せを放棄している。自分の幸せを捨てて、目的のためだけに生きている。自分を犠牲にしている。
亜紀斗は過去に、自分のせいで恋人を失った。自分を責めて、幸せになることを放棄した。先生や恋人に報いるためだけに生きていた。
誰かを好きになるなんて、許されない。誰かに好かれることも、許されない。そんな自責の念を抱えていた。
咲花も同じだ。
彼女には婚約者がいた。きっと、幸せを夢見ていただろう。幸せな未来を夢見ながら、悔いを残して亡くなった姉に誇れるように、警察官になったのだろう。でも、姉が亡くなった際の状況を知り、何も知らなかった自分を許せなくなった。姉が地獄のような苦痛を味わいながら死んでいったのに、何も知らずに幸せになろうとした自分が、許せなかった。
ただ、咲花の抱える心の闇は、亜紀斗よりも深い。大好きな姉を失った状況が、あまりに凄惨過ぎる。
復讐のために犯人の命を狙うなら、まだ救いはあるのだ。姉を殺された恨みを晴らし、恨みを晴らすことで自分を救おうとするのだから。
けれど咲花は、復讐には走らない。自分を救おうなんて、思っていないから。自分を救いたくないから。
最近になって、亜紀斗の心情は変わってきている。幸せな未来を夢見る、とまではいかないが。麻衣に好意を向けられて、彼女に「守って下さい」と告げられて、意識が変化してきている。
自分を押し殺して理想を追うのではない。大切な人を守りながら理想を追っても、いいのではないか。麻衣の気持ちを受けて、考え方が変わってきていた。
でも咲花は、亜紀斗のようには変わらない。自分を責め、自分を苦しめながら生きている。
亜紀斗は咲花が嫌いだ。
嫌いだが、不幸になってほしいわけではない。
その優れた能力を、もっと前向きに活かしてほしい。
たとえ、自分と真逆の価値観を持っていたとしても。
何か一つでも、咲花に救いがあれば。
三階を通り過ぎ、さらに階段を昇る。
もし、万が一。万が一にでも、今、咲花が危機に陥っているのなら。
まずは、黒幕から彼女を助けよう。自分は彼女より弱いが、足手まといになるほど力不足ではない。
もっとも、そんな心配は杞憂だろうが。
屋上に辿り着いた。
目の前には、鉄製のドア。
ここまで駆け抜けてきたが、息は切れていない。普段から厳しい訓練を積んでいるので、走ってきた程度でスタミナは切れない。
亜紀斗はドアノブに手を掛け、捻った。
ドアを開ける。
外の光が、視界に射し込んできて。
目の前に広がる光景に、亜紀斗は息を飲んだ。
※次回更新は明日(9/30)の夜を予定しています。




