第十六話① 後悔するより守って下さい(前編)
藤山との面談を終えた後。
亜紀斗は特別課に戻り、すぐに帰り支度をした。エレベーターに乗り、一階に降りる。
エレベーターから出た。
建物出口付近に、麻衣がいた。
「佐川さん」
亜紀斗の姿を確認した麻衣は、早足でこちらに来た。
「お疲れ様です。もう帰るんですよね?」
「いや、まあ、そうだけど。奥田さんは? 今終わったところなのか?」
聞いた後に、間の抜けた質問だと気付いた。定時はとうに過ぎている。残業をしていたという可能性もあるが、そうではないだろう。
「佐川さんを待ってたんです。色々と聞いちゃったんで。だから、話したいな、って思って」
「聞いたって、何を?」
「今日の事件での、笹島さんとのことです。有名なんですよ、佐川さんと笹島さん」
「そうなの?」
「そうですよ。二人とも優秀で、二人とも、特別課に配属される特殊な才能がある。しかも、そんな二人の仲は険悪。話のネタになりやすいんですよ」
「そんなもんなのかな?」
「そんなもんなんですよ」
麻衣はクスクスと笑った。笑顔が可愛らしい。こんな子に好かれているなんて、未だに信じられない。
「帰り、ご一緒していいですか? なんか私、家には押し掛けるし、待ち伏せするし、ストーカーっぽいことしちゃってますけど」
「ストーカーとは思ってないよ」
正直なところ、悪い気はしない。もっとも、亜紀斗には、麻衣と付き合う気など微塵もなかった。彼女に限らず、恋人をつくる気もなければ、この先結婚するつもりもない。
亜紀斗が結婚したかった相手は、もういない。
「じゃあ、帰りましょう」
「そうだな」
麻衣と一緒に、亜紀斗は道警本部から出た。
七月の夜。緩やかに吹く風はぬるく、湿気を感じる。汗がじっとりと滲んできそうな空気。
人通りが多い市内の中心地を、並んで歩く。
「そういえば、奥田さんの家ってどの辺なんだ? 俺と同じ方向なのか?」
「あ。私の家、来ます?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、また、佐川さんの家にお邪魔してもいいですか?」
「いや、そういう意味でもなくて」
麻衣は、亜紀斗の顔を覗き込んできた。童顔の、可愛らしい顔。しかも、男を惹き付ける体つきをしている。
亜紀斗は、麻衣から目を逸らした。
恋人を作る気はない。結婚する気もない。とはいっても、人を好きになる感情がないわけではない。性欲がないわけでもない。性欲に関しては、一般的な男よりも強いと思っている。
昔の恋人に、言われたことがあった。
『亜紀斗って、戦っても強いけど性欲も強いよね』
彼女が、冗談めかして言っていたこと。
彼女の両親にも紹介してもらっていた。婚約者と言えた。先生が亡くなって塞ぎ込んでいた亜紀斗を、献身的に支えてくれた恋人。
麻衣の積極的なアプローチに、心が動かないわけではない。療養中に押し掛けられたときは、押し倒したい欲求を必死に堪えていた。付き合う気もないのに、一時の欲求に任せて不誠実なことをしたくなかった。彼女を傷付けたくもなかった。
「で、奥田さんの家って、結局どの辺? どこの駅で降りるんだ?」
「えっ、と」
言葉を詰まらせて、少し考え込んで、麻衣は答えた。
「岸平駅です。南西線の」
南西線は、市内を走る地下鉄路線のひとつである。亜紀斗が乗る地下鉄とは別の路線。亜紀斗の家は、豊東線という路線の学院前駅だ。
「あの、佐川さん」
「何だ?」
「もしかして、駅まで一緒に行ったら、そこで『お疲れ様』なんてことはないですよね?」
「いや、でも、路線が違うし」
「でも、もう夜ですよ?」
「まあ、夜だな」
「夜道で、女の子を一人で歩かせるんですか?」
夜道と言っても、まだそれほど遅い時間ではない。午後八時前。
麻衣は相変わらず、亜紀斗の顔を覗き込んでいる。
「ちなみに私、結構、痴漢とかに遭いやすいんですよね」
そうだろう。小柄で、童顔で、可愛くて、しかも胸が大きい。痴漢にとっては至高の獲物だろう。
「特別課でも特に強い佐川さんが送ってくれたら、すーっごく安心なんだけどなぁ」
「……」
「もしくは、佐川さんの家に泊めてくれたら、それはそれで安心なんだけどなぁ」
「いや、それ、俺に何かされるとは思わないのか?」
「言いましたよね? 佐川さんになら襲われてもいい、って」
「ヤり捨てするかも知れないけど?」
「ヤり捨てする人は、そんなこと言わないですよ。って、これも、以前に言いましたよね」
言っていた。確かに。
亜紀斗は考え、溜め息をついた。
「いいよ。送っていくよ」
家に来られたら、自制する自信がない。前回は怪我をしていたから、痛みのお陰で我慢できた。けれど今は、怪我もしていない。麻衣も、亜紀斗を拒否する気はない。こんな状況で二人きりになったら、確実に流されてしまう。
「ありがとうございます」
してやったり、という様子で麻衣は笑った。療養中の亜紀斗の家に押し掛けて来たことといい、今の発言といい、かなり積極的な子だ。江別署で一緒に仕事をしていたときは、こんな子だとは思っていなかった。
亜紀斗と麻衣は駅まで歩くと、南西線の乗り場まで行った。ICカードで改札を通り、乗り場まで足を運ぶ。
地下鉄は、概ね十分に一本は通る。岸平駅に停まる地下鉄は、すぐに来た。
地下鉄に乗っている間は、当たり障りのない会話をした。ほとんど麻衣が話していた。学生時代のことや、女友達のこと。男友達はほとんどいないらしい。やたらと呑みに行きたがり、無理矢理呑ませようとする人が多くて、嫌になったそうだ。
岸平駅で降りて、麻衣の家まで向かう。彼女は実家を出て、一人暮しをしているそうだ。実家は市内だが、江別署に配属になったと同時に出たという。
麻衣の家は、岸平駅から歩いて七、八分のところにあった。五階建ての、オートロックのマンション。その三階。間取りは一LDKだという。岸平街道という大きな通りに面しているため、安全性も高そうだ。強盗などの家に忍び込む類の犯罪者は、とにかく人目につかない場所を狙う。
「はい。無事に送り届けたよ」
溜め息混じりに言いながらも、亜紀斗の胸は熱くなっていた。
咲花に自分の信念を否定され、反論の言葉を返せず、落ち込んでいる。心は沈んだままだ。自分の生きる目的や目標を否定されたようで、苦しくてたまらない。
それでも、麻衣に積極的に迫られて、欲求は湧き上がっている。
男としての――雄としての本能。
どこまでも沈み込むような落胆と、溺れそうな欲求。まるで違う二つの感情で、頭も心もグチャグチャだった。
「ねえ、佐川さん」
麻衣が、じっと亜紀斗を見つめてきた。
「どうしてそんなに沈んでるんですか?」
「!?」
突然、気持ちを言い当てられた。亜紀斗は肩を震わせた。
麻衣の様子は、先ほどとはまるで違っていた。どこか切なそうで、でも深刻そうな顔。
「笹島さんとまた揉めた、っていう話は聞きました。だから、色々話したいと思ったんです。でも、佐川さん、ひどい顔してますよ」
亜紀斗は、無理に笑顔を浮かべた。いつもの、女性職員にセクハラ発言をするときの顔。
「そう? いつも通りだけど? とりあえず今日は、帰ってすぐ、奥田さんをオカズにオナニーしようと思ってるし」
「嘘。そんな気分じゃなさそう」
また気持ちを言い当てられた。
亜紀斗の中で、確かに欲求は湧き上がっている。けれど、欲求を発散する気分にはなれない。それどころか、こんな欲求が湧き上がる自分に、嫌悪感すら覚えている。男でいることが嫌になる。
麻衣は、亜紀斗の袖を掴んできた。ギュッと、強く。
「ねえ、佐川さん」
「えっと……何?」
「私がどうして佐川さんを好きになったか、聞いてくれます? 聞いてくれたら、きっと、私が本気だって分かってくれると思うんです」
初めて、明確に「好き」と言われた。
麻衣は、亜紀斗の療養中から、積極的な態度を取っていた。それでも、はっきりと気持ちを明言したことはなかった。
「どうして俺なんだ?」
亜紀斗は、周囲の女性職員に、問題になっても不思議ではない発言を繰り返している。女性職員に白い目で見られているのも知っている。業務上で必要なこと以外は関わらないようにしよう、と思われていることも知っている。
分かっていて、下品な発言を繰り返していた。女性と親しくならないように。恋愛も結婚も、縁遠くなるように。
先生を亡くして、一歩も動けなくなるほど塞ぎ込んでいたとき。献身的に支えてくれたのは、当時の恋人だった。彼女は決して亜紀斗を見捨てず、ただ見守ってくれた。悲しみと苦しみと絶望に沈む亜紀斗を、ひたすら優しく包み込んでくれた。
『あなたが立ち上がれるまで待つよ』
態度で、そう伝えてくれる女性だった。
亜紀斗にとっての恋人も、生涯の伴侶も、彼女以外は考えられない。他の女性を好きになる資格もない。だから、女性を遠ざけたかった。
――生涯孤独で、寂しくオナニーしてるのがお似合いだ。
そんな亜紀斗を、麻衣は好きになったという。
「どうして……?」
信念が揺らいだことで、大切な人まで否定された気になった。苦しかった。そんなときに「好き」とはっきり言われた。
亜紀斗は、なんだか泣きそうだった。格好悪い気がして、必死に涙を堪えた。
「それを聞いて欲しいんです。だから、上がっていって下さい。お茶くらいは出しますよ」
「いや、でも、一人暮しの女の子の家に、男が上がり込むとか」
「好きな人だから、問題ないです」
麻衣の表情が変わった。どこか照れ臭そうに笑っていた。掴んだ亜紀斗の袖を、くいっと引っ張った。
「心配しなくても大丈夫ですよ。襲ったりしないんで」
「いや、それ、男が言うセリフだから」
つられて、亜紀斗も笑った。涙が出そうな気持ちに変わりはないが。




