第十一話② 晒された弱点(後編)
「華? 今、どこにいるの?」
『道警本部だよぉ』
電話の向こうから返ってきたのは、華の声ではなかった。男の声。しかも、知っている声だった。
秀人の声が、ワントーン低くなった。意図してではなく、無意識のうちに。
「久し振りだね、藤山さん。で、どうして藤山さんが、華の電話に出たの?」
『決まってるだろ? 僕達が、今、華さんと一緒だからだよぉ』
「それは分かるよ。どうして藤山さんが華と一緒なのかを聞いてるんだ」
『秀人君に、道警本部まで来て欲しかったから。だから、華さんに同行してもらったんだ』
「要するに、華を人質に取ったってこと? 俺を誘き寄せるために?」
『そうだねぇ。はっきり言うと、そういうことかなぁ?』
間延びした藤山の口調に、秀人は少なからず苛ついた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。今すべきことは何か。何が最優先か。そんなの、決まっている。
「華は無事なんだろうね? 妊婦なんだから、丁重に扱ってるよね? ちゃんと、楽な体勢を維持させてるよね?」
『そりゃあね。僕達は警察なんだから。罪もない妊婦さんに危害を加えるつもりはないよ』
「それを俺が信じると思う? 五味秀一の罪を隠蔽して、俺の家族を貶めた警察を。まあ、実際にそれを命じたのは、五味浩一なんだろうけどね」
『それについては、耳が痛いとしか言い様がないけどねぇ』
「……やっぱり、藤山さんも知ってたんだ。俺の家族のこと」
『カマをかけられたかぁ』
「まぁね。で、いつから知ってたの? まさか、俺が道警本部にいた頃からじゃないよね?」
『一年くらい前からかなぁ。咲花君に聞いたんだ』
「そう」
『それで、話を戻すよ。華さんは無事。すごくゆったりとした椅子を用意して、座ってもらってる。ただ、暴れられたら困るし、お腹の子にも良くないから、両手は拘束してるけどねぇ』
「じゃあ、華と話せる?」
『少しだけならね』
「替わって。本当に無事か、確かめたい」
『分かったよぉ』
電話の向こうの音質が変わった。藤山が、スマートフォンを耳から離したのだ。すぐにまた、音質が変わる。華の耳にスマートフォンが当てられたのだろう。
『秀人ぉ』
華は涙声だった。
『この人達、お巡りさんなんだよね? どうしてこんなことするの? 華のこと攫って、どうするの?』
グスッ、グスッと華が鼻を啜っている。
『あのね、お腹でね、赤ちゃんがいっぱい動いてるの。きっと、怖がってるの。秀人、助けてあげて。華のことはいいから、赤ちゃん助けて』
以前にも、同じようなことがあった。華が、人質としてテンマに捕まったときだ。
あのときも、華は助けを求めなかった。人質となった自分を「馬鹿」と卑下して、ひたすら謝っていた。
そんな華が、今は助けを求めている。自分ではなく、自分の子を助けて欲しいと。
秀人は意図的に、優しい声を出した。華を安心させたくて。
「大丈夫だよ、華。その人達は、華にも、赤ちゃんにも危害を加えない。俺を誘い出したくて、華を攫っただけだから。俺が行けば大丈夫」
『ごめんなさい、秀人。華、また、秀人に迷惑かけた』
「迷惑じゃないよ。華、知ってるだろ。俺は世界一強い、って。だから、全然問題ない」
『ほんとぉ?』
「ああ。本当だ。だから、大人しく待ってて」
『うん。わかった』
「じゃあ、さっきのおじさんに電話替わって」
『うん』
電話の向こうから「おじさん。秀人が電話替わって、って」と声が聞こえた。電話の向こうの音質が変わる。スマートフォンが、再び藤山の耳に当てられた。
『華さんが無事なのは分かってくれたかい?』
「ああ。で、俺は、何時までにそっちに行けばいいの?」
『二時間以内には来て欲しいかなぁ。ただ、できるだけ早くねぇ』
「二時間以内に行かないと、華の安全は保証しない?」
『個人的には、そう言いたくないんだけどねぇ』
「……分かったよ。二時間以内にそっちに行く」
『じゃあ、道警本部の玄関先で待ってるねぇ』
「ああ」
秀人は電話を切った。スマートフォンを持つ手が、震えていた。
華は、自分の心配などしていなかった。お腹の中の赤ん坊だけを心配していた。自分のことはいいから赤ちゃんを助けて欲しい、と。
命懸けで秀人を守った、姉のように。
無惨に殺された、秀人の家族。命を捨てて秀人を守った、両親と姉。大切な家族を殺したクズ共。クズを守り、秀人の家族を貶めた国。国の情報に踊らされて、秀人の家族の魂を汚した国民。
秀人の心に、どうしようもない怒りが湧き上がってきた。華は、秀人にとって、久し振りにできた家族だ。華の子は、秀人にとって、今度こそ失いたくない血の繋がった家族だ。
大切な家族が、また危害を加えられている。この国の機関に。
決して忘れることなどできない、忌まわしい記憶。怒りと、悔しさと、恨みが敷き詰められた記憶。
三十年近く前の地獄を思い出して。両親や姉の姿を思い浮かべて。
「……あれ?」
秀人は目を見開いた。体の震えが、大きくなった。
頭の中に、両親の顔が思い浮かばなかった。最後に見た姉の顔すらも、思い浮かばなかった。記憶力には絶対の自信があるのに。この三十年近く、一日たりとも忘れなかったのに。いつでもその姿を思い浮かべることができたのに。
先ほどもそうだった。車の中で、両親や姉の顔が思い浮かばなかった。
「嘘だろ?」
震える手で、秀人は頭を押さえた。どんなに思い出そうとしても、思い出せない。大事な家族の顔が、霞がかかったようにボンヤリしている。
秀人の生家は、正義を気取った奴に放火され、ほぼ全焼した。家族の写真は、全て燃え尽きた。両親や姉の姿を残した物は、もうこの世にはない。
つまり、もう二度と、家族の姿を見ることができない。手にできる物はもちろん、自分の記憶の中ですらも。
「……は」
小さく息を漏らす。
「はは……」
乾いた笑いがこぼれた。
秀人の心にある怒りは、消えることはない。恨みは、薄れるどころか強くなる。
怒りや恨みと同時に、秀人は自分に失望した。両親や姉の姿を思い浮かべられない、自分に。今の家族と、これから産まれる家族を人質に取られた自分に。
「は……はははは……」
笑い声は止まらない。笑いながら、考えた。自分は何をしていたのだ、と。家族を守れなかったから、復讐に走った。復讐に人生を捧げるつもりだった。それなのに、足枷となる家族をつくった。足枷になると知りながら家族をつくったのに、その家族すら守れなかった――人質に取られた。
俺は、何をしていた?
俺は、何をしている?
俺は、何のために生きてきた?
俺は、何のために生きている?
俺は今、何をすべきだ?
俺は今、何をしたいんだ?
自問を繰り返す。震えながら、何度も何度も。
頭の回転力には自信がある。常人が熟考して結論を出すことを、秀人は、一秒にも満たない時間で回答できる。そんな秀人が、数分に渡って自問を続けた。考えるうちに、少しずつ、震えが止まってきた。
やがて、自問の回答が出た。同時に、体の震えが止まった。やりたいことも、やるべきことも、明確になった。
押さえていた頭から、手を離した。フーッと、大きく息を吐いた。
「もういいや」
無意識のうちに、言葉が漏れた。本心からの一言。もういい。
藤山が指定してきた時間は、二時間以内。十分に時間はあるので、秀人は、必要なものを用意した。華を利用するつもりだったときに使わせていた、サバイバルナイフ。シースに入れて、ベルトに固定した。華の写真や動画を撮るときに使った、スマートフォン用の三脚。折りたたんで、手に持った。
秀人が出掛ける気配を察したのか、猫達が擦り寄ってきた。
左の前足が欠損している、黒猫のフク。
片目が潰された、三毛猫のニジ。
左の後ろ足が欠損している、キジトラのタイガ。
全身に大火傷を負い、所々の毛が薄くなっているキジトラのヒョウ。
神経に到達するほどの傷を負い、動きがぎこちない白猫のミルク。
この子達も、秀人にとっての家族だ。それは同時に、秀人にとって足枷だということを意味する。華や、彼女のお腹の子と同じように。
秀人は五匹を撫でた。丹念に、慈しむように。秀人を頼り、慕い、縋ってくる、小さな命達。
五匹を満遍なく撫でると、秀人は、何も言わずにリビングを後にした。
藤山が指定した時間まで、あと一時間四十五分。
※次回更新は5/24の夜を予定しています。
秀人は、自問の末にどのような答えを出したのか。
華を捕えた藤山は、どのようにして秀人を殺すつもりなのか。
藤山の作戦に渋々ながらも賛同した亜紀斗は、何を思い、何をするのか。
秀人に死んだと思われている咲花は、どのような心境なのか。
――これから、最終章のクライマックスに入ります。




