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罪と罰の天秤  作者: 一布
第四章 この冷たく残酷な世界でも
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第十一話② 晒された弱点(後編)


「華? 今、どこにいるの?」

『道警本部だよぉ』


 電話の向こうから返ってきたのは、華の声ではなかった。男の声。しかも、知っている声だった。


 秀人の声が、ワントーン低くなった。意図してではなく、無意識のうちに。


「久し振りだね、藤山さん。で、どうして藤山さんが、華の電話に出たの?」

『決まってるだろ? 僕達が、今、華さんと一緒だからだよぉ』

「それは分かるよ。どうして藤山さんが華と一緒なのかを聞いてるんだ」

『秀人君に、道警本部まで来て欲しかったから。だから、華さんに同行してもらったんだ』

「要するに、華を人質に取ったってこと? 俺を(おび)き寄せるために?」

『そうだねぇ。はっきり言うと、そういうことかなぁ?』


 間延びした藤山の口調に、秀人は少なからず苛ついた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。今すべきことは何か。何が最優先か。そんなの、決まっている。


「華は無事なんだろうね? 妊婦なんだから、丁重に扱ってるよね? ちゃんと、楽な体勢を維持させてるよね?」

『そりゃあね。僕達は警察なんだから。罪もない妊婦さんに危害を加えるつもりはないよ』

「それを俺が信じると思う? 五味秀一の罪を隠蔽して、俺の家族を貶めた警察を。まあ、実際にそれを命じたのは、五味浩一なんだろうけどね」

『それについては、耳が痛いとしか言い様がないけどねぇ』

「……やっぱり、藤山さんも知ってたんだ。俺の家族のこと」

『カマをかけられたかぁ』

「まぁね。で、いつから知ってたの? まさか、俺が道警本部にいた頃からじゃないよね?」

『一年くらい前からかなぁ。咲花君に聞いたんだ』

「そう」

『それで、話を戻すよ。華さんは無事。すごくゆったりとした椅子を用意して、座ってもらってる。ただ、暴れられたら困るし、お腹の子にも良くないから、両手は拘束してるけどねぇ』

「じゃあ、華と話せる?」

『少しだけならね』

「替わって。本当に無事か、確かめたい」

『分かったよぉ』


 電話の向こうの音質が変わった。藤山が、スマートフォンを耳から離したのだ。すぐにまた、音質が変わる。華の耳にスマートフォンが当てられたのだろう。


『秀人ぉ』


 華は涙声だった。


『この人達、お巡りさんなんだよね? どうしてこんなことするの? 華のこと(さら)って、どうするの?』


 グスッ、グスッと華が鼻を啜っている。


『あのね、お腹でね、赤ちゃんがいっぱい動いてるの。きっと、怖がってるの。秀人、助けてあげて。華のことはいいから、赤ちゃん助けて』


 以前にも、同じようなことがあった。華が、人質としてテンマに捕まったときだ。


 あのときも、華は助けを求めなかった。人質となった自分を「馬鹿」と卑下して、ひたすら謝っていた。


 そんな華が、今は助けを求めている。自分ではなく、自分の子を助けて欲しいと。


 秀人は意図的に、優しい声を出した。華を安心させたくて。


「大丈夫だよ、華。その人達は、華にも、赤ちゃんにも危害を加えない。俺を誘い出したくて、華を攫っただけだから。俺が行けば大丈夫」

『ごめんなさい、秀人。華、また、秀人に迷惑かけた』

「迷惑じゃないよ。華、知ってるだろ。俺は世界一強い、って。だから、全然問題ない」

『ほんとぉ?』

「ああ。本当だ。だから、大人しく待ってて」

『うん。わかった』

「じゃあ、さっきのおじさんに電話替わって」

『うん』


 電話の向こうから「おじさん。秀人が電話替わって、って」と声が聞こえた。電話の向こうの音質が変わる。スマートフォンが、再び藤山の耳に当てられた。


『華さんが無事なのは分かってくれたかい?』

「ああ。で、俺は、何時までにそっちに行けばいいの?」

『二時間以内には来て欲しいかなぁ。ただ、できるだけ早くねぇ』

「二時間以内に行かないと、華の安全は保証しない?」

『個人的には、そう言いたくないんだけどねぇ』

「……分かったよ。二時間以内にそっちに行く」

『じゃあ、道警本部の玄関先で待ってるねぇ』

「ああ」


 秀人は電話を切った。スマートフォンを持つ手が、震えていた。


 華は、自分の心配などしていなかった。お腹の中の赤ん坊だけを心配していた。自分のことはいいから赤ちゃんを助けて欲しい、と。


 命懸けで秀人を守った、姉のように。


 無惨に殺された、秀人の家族。命を捨てて秀人を守った、両親と姉。大切な家族を殺したクズ共。クズを守り、秀人の家族を貶めた国。国の情報に踊らされて、秀人の家族の魂を汚した国民。


 秀人の心に、どうしようもない怒りが湧き上がってきた。華は、秀人にとって、久し振りにできた家族だ。華の子は、秀人にとって、今度こそ失いたくない血の繋がった家族だ。


 大切な家族が、また危害を加えられている。この国の機関に。


 決して忘れることなどできない、忌まわしい記憶。怒りと、悔しさと、恨みが敷き詰められた記憶。


 三十年近く前の地獄を思い出して。両親や姉の姿を思い浮かべて。


「……あれ?」


 秀人は目を見開いた。体の震えが、大きくなった。


 頭の中に、両親の顔が思い浮かばなかった。最後に見た姉の顔すらも、思い浮かばなかった。記憶力には絶対の自信があるのに。この三十年近く、一日たりとも忘れなかったのに。いつでもその姿を思い浮かべることができたのに。


 先ほどもそうだった。車の中で、両親や姉の顔が思い浮かばなかった。


「嘘だろ?」


 震える手で、秀人は頭を押さえた。どんなに思い出そうとしても、思い出せない。大事な家族の顔が、霞がかかったようにボンヤリしている。


 秀人の生家は、正義を気取った奴に放火され、ほぼ全焼した。家族の写真は、全て燃え尽きた。両親や姉の姿を残した物は、もうこの世にはない。


 つまり、もう二度と、家族の姿を見ることができない。手にできる物はもちろん、自分の記憶の中ですらも。


「……は」


 小さく息を漏らす。


「はは……」


 乾いた笑いがこぼれた。


 秀人の心にある怒りは、消えることはない。恨みは、薄れるどころか強くなる。


 怒りや恨みと同時に、秀人は自分に失望した。両親や姉の姿を思い浮かべられない、自分に。今の家族と、これから産まれる家族を人質に取られた自分に。


「は……はははは……」


 笑い声は止まらない。笑いながら、考えた。自分は何をしていたのだ、と。家族を守れなかったから、復讐に走った。復讐に人生を捧げるつもりだった。それなのに、足枷となる家族をつくった。足枷になると知りながら家族をつくったのに、その家族すら守れなかった――人質に取られた。


 俺は、何をしていた? 

 俺は、何をしている? 

 俺は、何のために生きてきた?

 俺は、何のために生きている? 

 俺は今、何をすべきだ? 

 俺は今、何をしたいんだ?


 自問を繰り返す。震えながら、何度も何度も。


 頭の回転力には自信がある。常人が熟考して結論を出すことを、秀人は、一秒にも満たない時間で回答できる。そんな秀人が、数分に渡って自問を続けた。考えるうちに、少しずつ、震えが止まってきた。


 やがて、自問の回答が出た。同時に、体の震えが止まった。やりたいことも、やるべきことも、明確になった。


 押さえていた頭から、手を離した。フーッと、大きく息を吐いた。


「もういいや」


 無意識のうちに、言葉が漏れた。本心からの一言。もういい。


 藤山が指定してきた時間は、二時間以内。十分に時間はあるので、秀人は、必要なものを用意した。華を利用するつもりだったときに使わせていた、サバイバルナイフ。シースに入れて、ベルトに固定した。華の写真や動画を撮るときに使った、スマートフォン用の三脚。折りたたんで、手に持った。


 秀人が出掛ける気配を察したのか、猫達が擦り寄ってきた。


 左の前足が欠損している、黒猫のフク。

 片目が潰された、三毛猫のニジ。

 左の後ろ足が欠損している、キジトラのタイガ。

 全身に大火傷を負い、所々の毛が薄くなっているキジトラのヒョウ。

 神経に到達するほどの傷を負い、動きがぎこちない白猫のミルク。


 この子達も、秀人にとっての家族だ。それは同時に、秀人にとって足枷だということを意味する。華や、彼女のお腹の子と同じように。


 秀人は五匹を撫でた。丹念に、慈しむように。秀人を頼り、慕い、縋ってくる、小さな命達。


 五匹を満遍なく撫でると、秀人は、何も言わずにリビングを後にした。


 藤山が指定した時間まで、あと一時間四十五分。


※次回更新は5/24の夜を予定しています。


秀人は、自問の末にどのような答えを出したのか。

華を捕えた藤山は、どのようにして秀人を殺すつもりなのか。

藤山の作戦に渋々ながらも賛同した亜紀斗は、何を思い、何をするのか。

秀人に死んだと思われている咲花は、どのような心境なのか。


――これから、最終章のクライマックスに入ります。

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