第八話① 今が凄く幸せ(前編)
「秀人、動画撮って」
華の頼みは、いつも唐突だ。とはいえ、どうしてこんなことを言い出したのかは、概ね想像がつく。
十一月。華は妊娠六ヶ月目に入り、お腹もどんどん大きくなっている。性別も分かった。男の子だそうだ。
「動画? どうして?」
華の意図に気付きつつも、秀人は聞いてみた。
「あのね、華ね、この子が大きくなってお父さんになるときに、動画を渡したいの。この子がお腹にいるときの気持ちを、将来のこの子に伝えたいの」
やっぱり。胸中で、秀人は呟いた。華に勧めた動画の中に、その類のものがあった。大きくなった息子に送る、息子を宿していた頃の母からのメッセージ。
夕食後の午後七時半。
最近になって、華の体調は少しずつ良くなってきた。食器洗いなども手伝ってくれる。とはいえ秀人は、決して無理をさせなかったが。
今は二人で、夕食に使った食器を洗っている。この家に食洗機はない。
秀人は、洗い物をする華に、薄いゴム手袋を履かせていた。手が荒れないように。これから華は、出産と子育てという、大変な仕事をしなければならない。さらに、そう遠くない未来に、言葉が通じない異国へ移り住むことになる。彼女の負担を、できる限り減らしたかった。それがたとえ、どんなに小さなものであっても。
「じゃあ、洗い物が終わったら撮ろうか」
「ううん。撮る前に、お風呂入りたい」
皿についた洗剤を流しながら、華は首を横に振った。
「あのね、華ね、できるだけ綺麗にして撮って欲しいの。赤ちゃんの前で、綺麗なママになりたいの」
つい、秀人は微笑んでしまった。
「華はそのままでも可愛いよ」
スポンジで食器を洗いながら、華は秀人を見上げてきた。頬が少しだけ赤くなって、口元が緩んでいる。
秀人の言葉は本心だ。もう、華をいいように操ろうとは思っていない。以前とは違う。今の彼女は、秀人にとって、絶対に守るべき存在になっている。
「んー。でもぉ」
目尻を下げて、照れと嬉しさが混じった顔で、華は緩み切った唇を動かした。
「やっぱりね、華ね、少しでも綺麗なところを赤ちゃんに見せたいから。馬鹿なお母さんだけど、いいところ見せたいの」
「そっか」
馬鹿。以前は、華を傷付けていた言葉。彼女が、自分を責めるときに口にしていた言葉。けれど、今の華には、自分を責める様子はない。自分を受け入れて、自分にできることをしようとしている。知能は相変わらずだが、母親になるために強くなろうとしているのだ。
食器を洗い終えて、秀人は蛇口のお湯を止めた。
「じゃあ、湯船にお湯を入れてくるよ。華はソファーで休んでて」
「うん。秀人も一緒に入ろうね」
「ああ」
浴室に足を運ぶ。給湯器で、湯船にお湯を入れる。浴槽にお湯が溜まるまで、約二十分。
秀人はリビングに戻った。
ソファーの上で、華はタブレットを手にしていた。動画の音が聞こえる。女性が何かを語る声が聞こえる。きっと、華が影響を受けた動画だ。
ソファーに足を運び、秀人は、華の隣りに腰を降ろした。
華は動画を止めて、タブレットを隅に置いた。秀人に寄り掛かってくる。
「あのね、秀人」
「ん?」
「今日はね、華、一人で動画に映るね」
「どうして?」
先月から、華は、大きくなってゆくお腹を出して写真を撮っている。必ず秀人と一緒に。スマートフォンを立てる三脚も購入して、タイマーでシャッターをセットして、二人で並んで撮っていた。
今回も一緒に撮るものだと思っていた。
「んーと、ね」
唇に人差し指を当てて、華は考えを巡らせていた。自分の気持ちを言語化するために、言うべきことを思い浮かべているのだろう。
「華ね、今回はね、お母さんとして赤ちゃんに伝えたいことがあるの。いつか赤ちゃんが大人になって、好きな女の子ができて、その女の子と子供ができたときに、観て欲しいの。だからね、今回は、華一人で映るの」
いつか大きくなった息子に、息子を産む前の母として、メッセージを伝えたい。両親からではなく、母からのメッセージを伝えたい。
「わかった」
秀人は華の肩を抱き、彼女の腹を撫でた。大きくなってゆくお腹。大きくなってゆく赤ん坊。柄にもなく、秀人の心が高揚した。
自分に、血の繋がった家族ができる。血の繋がった子供ができる。両親にとっての孫。姉のとっての甥っ子。
自分の子を、両親に見せたかった。姉に抱かせたかった。感謝を伝えたかった。
みんなが俺を命懸けで守ってくれたから、この子ができたんだ。みんなが俺を命懸けで守ってくれたから、この子が、この世に生を受けられるんだ。
守ってくれた家族に、感謝している。けれど、その感謝は、憎しみと一心同体なのだ。本当はすぐ側にあったはずの幸せ。両親や姉に華を紹介して、生まれた子をみんなで見守る。そんな未来が、確かにあったはずなのだ。
下衆共に壊され、粉々にされた未来。
両親や姉のように、自分は、華とこの子を守る。両親や姉を殺した、この国を沈めて。仇を討って、どこか静かな場所で、新しい家族と平穏に生きるんだ。
ピーッと、給湯器のタイマーが鳴った。湯船にお湯が入った。
「華、お風呂に入ろうか」
先にソファーから立ち上がり、秀人は華に手を差し出した。
「うん」
秀人の手を取って、華は立ち上がった。一緒に風呂場に行く。服を脱いで、浴室に入る。
秀人は湯船に手を入れ、お湯の温度を確かめた。それほど熱くなく、かといって温くもない。いい温度だ。あまり熱すぎると、華やお腹の子に負担がかかる。
「じゃあ、華。頭と体洗うから、座って」
風呂場にあるプラスチック製の椅子を、華の前に置いた。
「うん」
華は椅子に座ると、秀人を見上げた。
「あのね、秀人」
「何?」
聞きながら、シャワーヘッドを手にする。お湯を出し、温度を確かめる。大丈夫だ。熱過ぎない。
華は両手で、自分の胸を持ち上げるように触った。
「華のおっぱい、大きくなってるの」
「うん。わかるよ」
「それでね、乳首も黒くなってきてるの」
「うん。そうだね」
「先生に聞いたら、これって、お母さんになる準備をしてるんだって言われたの」
先生――産婦人科の医師だ。医師には、華の事情を説明している。だからこそ、母体に起こる変化を噛み砕いて説明してくれたようだ。
秀人はシャンプーを手に注ぎ、両手で泡立てた。
「そうだよ。華の体はね、お母さんになろうとしてるんだ」
言いながら、華の頭に両手を添える。
「頭洗うね」
「うん」
彼女の髪の毛で、シャンプーをさらに泡立てる。
「じゃあ、華、もうすぐおっぱい出るようになるのかなぁ?」
「うーん。どうかなぁ?」
母乳が出始めるタイミングには、個人差がある。
「ただ、赤ちゃんが産まれたら、出るようになると思うよ」
華の頭のシャンプーを洗い流す。コンディショナーで整える。綺麗にして動画を撮りたいと言っていたから、できるだけ丁寧に整えた。
コンディショナーも洗い流す。
「じゃあ、次は体洗うよ」
「うん」
風呂用のスポンジにボディーソープを付けて、秀人は華の体を洗った。強く擦らず、優しく。背中を洗って、腕を洗って、体の前面を洗う。彼女の胸や腹に触れると、秀人の心の中に、また実感が込み上げてきた。
――俺が、父親になるんだ。
自分が父親になるなんて、少し前まで想像もしていなかった。この国を壊して、猫達と一緒に海外に移住して、残りの人生をのんびりと過ごすつもりだった。人との関わり合いを極力避けて、両親や姉の魂と共に生きるつもりだった。
「ね、秀人」
華が、秀人の手に触れてきた。
「ギュッってして」
スポンジを離して、秀人は華を抱き締めた。優しく、包み込むように。
華が楽しそうに笑った。
「石けんでヌルヌルだね」
「そうだな。洗い流そうか」
「うん」
自分と華の体を、秀人は洗い流した。
一緒に湯船に入る。華は秀人に背中を向けて、寄り掛かってきた。一緒に湯船に入るときは、いつもこの格好だ。秀人が華を後ろから抱き締めて、触れ合って、お湯に浸かる。
華を抱き締めながら、秀人は、彼女の横顔を覗き込んだ。満ち足りた顔。嬉しそうな表情。それなのに、どこか泣きそうにも見える。
華が妊娠する前。彼女は、秀人とのセックスの最中で、こう言っていた。
『なんかね、凄く……凄く、嬉しいの。秀人とエッチすると、凄く嬉しいの』
『いっつも嬉しいの。秀人がいないときは寂しいけど、秀人がいると嬉しいの。ずっと嬉しいの』
秀人といるとき、華は、確かに幸せを感じている。けれど彼女は、幸せというものがどういうことなのか、分かっていなかった。だから「嬉しい」と表現していた。
今の華は、分かるのだろうか。幸せという気持ちが、どういうものなのか。
秀人は唇で、華の首筋に触れた。彼女に触れることで、今の自分の気持ちを、はっきりと自覚できた。
――俺は、幸せなんだ。
利用するつもりで拾った、知能の低い女。けれどその女は、天使のように純粋で、女神のように優しかった。裏表のない美しさが、秀人の庇護欲を搔き立てた。絶対に守るべき女だと思えた。妊娠してからは、なおさら。
今が幸せだ。しかし、だからといって、仇討ちを止めるつもりはない。秀人の家族を殺した鬼畜共。殺された家族を貶めた下衆共。下衆が流した情報に踊らされ、秀人の家族の魂を汚し、生家に火を点けたこの国の人間。
これから秀人は、未来に進む。新しい家族がいる未来。未来に進むために、過去を精算する。心残りなど残さないように。この国全体に、罪に見合った罰を与えてゆく。
触れ合って湯船に浸かっていると、体が温まってきた。
「華。そろそろ出ようか」
「うん」
二人は湯船から出た。体を拭いて、風呂場から出る。洗面所に足を運ぶと、秀人は、華の髪の毛をドライヤーで乾かした。丁寧に整えて、華の見栄えを良くする。
「ほら、華。髪の毛がサラサラになったよ」
華は、自分の髪の毛に手櫛を入れた。水面を通すように、髪の毛の中を指が通り抜けてゆく。
「ホントにサラサラ。秀人、ありがとう」
「どういたしまして。髪の毛は縛ろうか?」
「じゃあ、ポニーテールがいい」
華は、秀人と暮らすようになってから、色々なことを覚えた。少し前までは、ポニーテールのことを「後ろでキュッってするやつ」と言っていた。
洗面台にある棚からヘアゴムを取り出して、秀人は華の髪を結んだ。愛らしいポニーテール。
湯冷めしないように、華にカーディガンを羽織らせた。厚手でゆったりとしたサイズの、可愛らしいグレイのカーディガン。ゆったりとしているから、大きくなっているお腹にも負担はかからない。
「はい、華。可愛くできたよ。普段から可愛いけど、もっと可愛くなった」
洗面所の鏡で、華は、自分の姿を左右から見た。幼い顔立ちと幼い仕草は、まるで、お洒落に目覚めたばかりの小中学生のようだった。大きいサイズのカーディガンが、さらに彼女を幼く見せた。
鑑に映った自分に納得できたのか、華は「ん」と声を漏らした。
「ありがとう、秀人。じゃあ、動画撮って」
「ああ」




