第十四話 亜紀斗対咲花~訓練ではない戦い~
「せいぜい、奇跡に期待でもしてろ」
高野に吐き捨てて、亜紀斗は苦笑しそうになった。
明りが点いたプレハブの中。窓の外は暗い。壁や床には血や失禁の痕があり、咲花が行った拷問の苛烈さを物語っていた。彼女はここで、姉が殺された場面を再現しようとしたのだ。犯人達に、姉と同じ苦しみを与えようとしたのだ。もっとも、姉と同じように一ヶ月も時間をかけることは不可能だったようだが。
咲花はすでに、復讐の大半を完遂させている。残る仇は、高野一人。
もう後戻りはできないのだから、目を瞑ってもいい気がする。亜紀斗がそんなことを思ってしまうほど、今の咲花は痛々しかった。
それでも、咲花を止めたかった。彼女の罪を、少しでも軽くしたかった。罪を軽くし、側にいてほしいと願った。たとえ彼女が、刑事でいられなくなったとしても。
意見を戦わせる好敵手でいてほしい。競い合う仲間でいてほしい。痛みを背負う同志でいてほしい。
だから、咲花と戦う。
亜紀斗の体調は最悪と言ってよかった。連日、咲花のことを調べていた。彼女を追跡し、行動を追った。睡眠時間は、一日二時間あれば多い方だった。食事は常に移動しながら食べていた。
奇跡、か……――亜紀斗は、高野に吐き捨てた言葉を反芻した。
今まで咲花に勝てたことは、一度もない。彼女は強い。こんな体調で勝てる相手ではない。それこそ、奇跡でも起きない限りは。
ゆらりと、亜紀斗は姿勢を低くした。一気に距離を詰める構え。咲花との距離は、概ね五メートルほど。
亜紀斗に一つだけ有利な点があるとすれば、このプレハブの狭さだ。十メートル四方ほどの面積。道警本部の訓練場に比べると、一辺の距離で言えば三分の一。面積で言えば九分の一。訓練場に比べて、はるかに距離が詰めやすい。
亜紀斗は床を蹴った。咲花に向って踏み込む。いつもの訓練と同じく、無心で。本能と感覚に任せて。
今まで何度も戦って、咲花の手の内は知り尽くしている。彼女への対応手段が、身に染みついている。
距離を詰めようとする内部型に対し、足元を撃って転倒させるのが咲花の常套手段だ。当然のように、亜紀斗は、足元への攻撃を警戒していた。
だから、驚いた。
亜紀斗が踏み込むと同時に、咲花も距離を詰めてきた。二人の距離が、一気に三十センチメートルほどまで縮まった。
亜紀斗の攻撃が当たる距離。しかし、咲花の予想外の行動に、亜紀斗は動きを止めてしまった。
亜紀斗が止まった隙を、咲花は見逃さなかった。右手を、亜紀斗の胸もとに突き出してくる。ただの掌底ではない。外部型の常識を打ち破る攻撃。近距離砲。
近距離砲の威力は、亜紀斗も経験している。咲花と初めて戦ったとき、これで重傷を負った。苦い経験が、咄嗟に防御動作を取らせた。バックステップ。
亜紀斗と同時に、咲花もバックステップを踏んだ。二人の距離が、三メートルほどまで広がった。
咲花はバックステップと同時に、弾丸を放ってきた。一気に六発。
反射的に、亜紀斗は全身を強化した。最大限のエネルギーを全身に流す。
咲花が放った六発の弾丸は、全て破裂型だった。全身を強化してダメージは抑えられたが、弾丸が破裂した際の爆風までは防げない。亜紀斗は後方に押しやられ、咲花との距離がさらに開いた。約七メートル。
咲花は追撃をかけてこない。じっと亜紀斗を観察している。この一瞬の攻防で、亜紀斗の体調の悪さに気付いたのだろう。
後方に押しやられながらも、亜紀斗は体勢を整えた。ほんの一瞬しか戦っていないのに、背中には、冷たい汗が大量に流れていた。
――強い……。
この狭い空間は、自分にとって有利な材料になると思っていた。亜紀斗は、自分の考えがあまりに甘かったことに気付かされた。
遠近両方で戦える咲花にとって、この程度の狭さは足枷にならない。前後の動きと駆け引きを駆使して、自在に戦える。
――どうすればいい?
自問する。どうしたら咲花に勝てる? どうしたら咲花を止められる?
咲花はどんな距離でも戦えるのに対し、亜紀斗は、手の届く位置でなければ戦えない。戦える距離も、駆け引きの上手さも、戦闘時の頭脳も、咲花の方が圧倒的に上だ。
咲花が撃ってきた。今度は一発だけ。
亜紀斗は咄嗟に防いだ。様子見のような攻撃だったが、威力は十分だった。弾丸を防いだ左腕に、鈍い痛みが残った。
一発だけ撃ってきて、咲花はまた亜紀斗を観察した。次の攻撃に繋げなければ、今の攻撃は無意味になるのに。そんなことは、咲花自身が一番よく分かっているだろうに。
なぜか。
なぜか亜紀斗には、今の無意味な攻撃が、自分へのメッセージのように思えた。咲花からのメッセージ。
『細かいことをいちいち考えるタイプじゃないでしょ、あんたは』
咲花の挑発的な物言いが、耳の奥に届いた気がした。
『あんたにできることなんて、限られてるんだから』
――そうだ!
亜紀斗は足を踏ん張り、姿勢を低くした。
咲花がどんなに強くても、どれだけのことができても、関係ない。自分はまず、手の届く位置に踏み込まないといけない。
近付かないと、咲花に勝てない。近付かないと、咲花を止められない。近付かないと、咲花に側にいてもらえない。
亜紀斗は踏み出した。咲花を幻惑するように左右に動きつつ、彼女との距離を詰めてゆく。
二人の距離は、約六メートル。
咲花が弾丸を放ってきた。三連発。左右に動く亜紀斗の足元を狙っている。
亜紀斗は跳び上がり、弾丸を避けた。
跳んだ亜紀斗の動きに、咲花はすかさず反応した。亜紀斗が着地する前に、さらに一発放ってくる。
亜紀斗は、弾丸を右腕で払い落とした。咲花が撃ったのは貫通側の弾丸だったようだ。払い落とされ、床に穴を開けた。
着地した。咲花との距離は、約五メートル。
咲花が動いた。亜紀斗から見て右に動き、距離を取ろうとしている。
右斜め前方に踏み出して、亜紀斗はさらに距離を詰める。
咲花が撃ってきた。亜紀斗の足元に、ではない。顔面を狙って。
亜紀斗は強化した額を突き出し、あえて咲花の弾丸を受けた。額の骨は――頭蓋骨は、人間の骨の中でも一番頑丈だ。強化すれば、咲花の全力の弾丸でも堪えられる。
ゴンッ!――と、額から鈍い音がした。首の筋肉が衝撃を受ける。そのまま亜紀斗は額を突き出し、強引に突進した。
咲花との距離は、約三メートル。
このまま無理矢理、距離を詰めてやる。亜紀斗は、額と首回りを強化したまま、咲花に接近していった。
距離が二メートル弱まで近付いたところで、咲花が前進してきた。先ほどと同じパターンだ。前進する亜紀斗にあえて接近し、近距離砲を放つ。
今度は後退しない。亜紀斗は、接近してきた咲花を迎え撃った。
亜紀斗の体調は最悪だ。こんな状態で、何の犠牲もなく咲花に勝てるとは思っていない。
打撃で咲花を仕留めようとは思わない。捕まえて、首を絞め、失神させる。
首を絞めたら、咲花は、防御膜で締める力を防ぐだろう。締めを防御しながら、近距離砲で攻撃してくるはずだ。
どんなに近距離砲を打ち込まれても、決して咲花を離さない。エネルギーが尽きるまで締め続ける。
どちらのエネルギーが先に尽きるか。そんな勝負に持ち込む。今の亜紀斗では、博打のような方法でしか勝機を見出せない。
咲花が攻撃態勢になった。
亜紀斗は両手を、咲花の首に向って突き出した。
咲花が、右手で近距離砲を放ってきた。アッパーのように、下から上へ。狙いは、亜紀斗の左腕。
骨の軋むような痛みが、亜紀斗の左腕に走った。左手が下から上へ弾かれ、咲花の首から大きく逸れた。これでは、首を絞めることはできない。
続け様に、咲花は、左手で近距離砲を放ってきた。今度の狙いは、亜紀斗の顔面。
反射的に、亜紀斗は顔面を強化した。ゴンッという鈍い音が、頭の中に響いた。脳を揺らすような衝撃と振動。突き刺さるような痛みが鼻に走った。顎が大きく跳ね上がった。
咲花は大きくバックステップをし、亜紀斗から距離を取った。
亜紀斗の口に、鉄臭い味が広がった。鼻から出た大量の血が、口に入ったのだ。顔面に打撃を食らって、頭がフラフラする。足を踏ん張り、構え直した。
亜紀斗は、袖口で血を拭いた。鼻に鋭い痛みが走っている。もしかしたら、鼻骨が折れたのかも知れない。
距離を取った咲花は、冷静に亜紀斗を観察していた。彼女はエネルギー消費を最小限に抑えながら、常に亜紀斗を上回っている。亜紀斗の攻撃が、ギリギリのところで全て防がれている。
絶望とも言える戦況。打撃を当てることも、捕えることもできない。
血で、亜紀斗の鼻が詰まっていた。鼻血は、拭いても拭いても流れてくる。口で大きく呼吸をした。呼吸器を一つ封じられたようなものだ。戦いが長引けば、先に息切れをするのは自分の方だろう。
亜紀斗は改めて、咲花の強さを実感していた。どんなに追いかけても、常に先を行かれる。常に、彼女の背中を追っている。そんな存在。
――でも……。
咲花は確かに強い。だが、絶望するほどではない。亜紀斗は、彼女よりも強い者と戦ったことがある。
金井秀人。
彼と戦ったのは、もう二年半も前だ。亜紀斗も咲花も、あの頃よりは強くなっている。しかし、秀人にはまだ遠く及ばない。ベストコンディションで、咲花と二人がかりで戦っても、まるで勝てる気がしない。
そうだ。どんなに勝算が薄くても、気持ちが折れるほどではない。秀人と戦うことに比べたら、まだ勝機はある。
亜紀斗は、口から大きく息を吐いた。大きく吸う。
血で詰まって、鼻呼吸ができない。このまま戦えば、エネルギーが尽きる前に息切れを起こす。時間が経てば経つほど、自分が不利になる。
亜紀斗は本能的に、自分の状況を認識した。状況を認識し、自分が取るべき戦術を導き出した。
秀人と戦ったときと同じだ。エネルギー消費を度外視して、全力で全身を強化する。どうせ、先に息が切れるのは自分の方だ。戦いを引き延ばしても意味はない。それなら、短期決戦で勝負する。
亜紀斗は姿勢を低くした。咲花との距離は、約六メートル。視線の先にいる彼女に、全力で集中する。体中にエネルギーを巡らせた。全身くまなく、耐久力を強化。同時に、筋力も強化。
二年半前に、秀人と戦った後。亜紀斗は、全力でエネルギーを使用する訓練もしていた。秀人と戦ったときは、二分ほどで限界を迎えた。エネルギーを使い切ったのではなく、大量のエネルギー消費に酸素供給が追い付かず、肺が限界を迎えたのだ。酸欠で意識を失いかけた。
訓練をして、三分ほどは全力でエネルギーを使用できるようになった。とはいえそれは、体調が万全の場合だ。今の体調では、二分が限界だろう。
二分で咲花を捕えられるか。それとも、彼女との対戦戦績が〇勝三十八敗となるか。
今回だけは負けられない。絶対に必要な一勝。
決意が、亜紀斗の拳を固く握らせた。
たとえこの先、咲花に負け続けるとしても。
今回だけは、勝たなければならない。
口で大きく呼吸をし、亜紀斗は床を蹴った。
※次回更新は明日(4/24)の夜を予定しています。




