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罪と罰の天秤  作者: 一布
第三章 罪の重さを計るものは
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第九話 信じたい


 磯部康文が殺害されてから、二ヶ月ほど経った。


 捜査については、一応、ある程度の進展はあるようだ。


 捜査一課の護衛に過ぎない亜紀斗に、直接、捜査上の情報が知らされることはない。もっとも、何度か藤山に呼び出され、詳細な内容を聞かされていたが。


 進展があったといっても、まだ犯人を特定できていない。


 四月。


 雪はほとんど溶け、歩道のアスファルトがはっきりと顔を出していた。


 南伸一が殺されたのは、そんな時期だった。美人女性監禁虐殺事件の、犯人の一人。


 南の死体も、磯部と同じく損傷が激しかった。全身を切り刻まれ、火傷を負わされ、銃で四肢を撃ち抜かれていた。それだけではなく、肛門に異物が挿入されていた。性器には激しい裂傷があり、それら傷の全てから生体反応が見られた。死ぬ間際の彼の苦痛は、想像を絶するものだったに違いない。


 とはいえ亜紀斗は、磯部や南に同情できなかった。かつて彼等は、咲花の姉に同様の苦痛を味合わせ、殺したのだから。


 拷問のごとく痛めつけられ、殺害された南と磯部。当然ながら、犯行動機は怨恨と見られていた。


 犯行動機が怨恨なのだから、彼等に恨みを持つ者が洗い出された。


 しかし、現時点で、有力な犯人候補は選出できていない。理由は単純で、彼等に恨みを持つ者があまりに多いからだ。


 咲花の姉を殺した犯人達は、当時、他にも数多くの犯行を重ねていた。強姦、傷害、恐喝、窃盗。被害者との示談で片付いた事件がほとんど。未成年だからという理由で、家庭裁判所で軽い罰を言い渡された事件もある。その犯行の数は、両手両足の指の数では到底足りないほどだった。


 当たり前だが、理不尽に傷付けられた被害者は、犯人を恨む。犯行により心に傷を負った者は、何年経っても痛みを忘れない。痛みを覚えているのであれば、憎しみも怒りも残り続ける。


 いじめと同じだ。いじめた者は、「昔のこと」と言って、時間の経過とともにいじめたことを忘れる。だが、いじめられた者は、何年経っても忘れない。過去を思い出すたびに、いじめられていた恐怖と、痛みと、屈辱が蘇る。蘇る記憶が、怒りに変貌する。


 捜査一課は、彼等四人が重ねた犯行を洗い出すことになった。二十年ほども経った今になって。もちろん、資料が破棄されているケースも珍しくない。示談で済まされた事件は、特に。


 弁護士に推奨されている示談書の保存期間は、示談成立から十年。推奨であって義務ではない。さらに、その推奨期間の倍近い時間が経過している。


 南や磯部に恨みを持つ者を洗い出す作業は、困難を極めていた。


 とはいえ、大きな進展もあった。


 南と磯部の殺害事件について、容疑者候補は数多くいる。捜査一課が把握していない者も含めると、百人近くに上るかも知れない。しかし、犯人である可能性については、全ての容疑者候補が同列ではない。事件の大きさ、悲惨さ、被害者が受けた傷の大きさで序列を作ることができる。


 南や磯部が起こした事件で最も大きなものは、考えるまでもなく、美人女性監禁虐殺事件だ。咲花の姉が被害者となった事件。


 犯人への怨恨の大きさから考えると、犯人の最有力候補は咲花だった。


 だが、咲花は、南殺害において、容疑者候補からほぼ外れた。殺害時刻におけるアリバイが確認されたのだ。


 南の死亡推定時刻は、四月四日の午前十一時から午後七時頃。


 咲花はその日、非番だった。彼女のシフトだけ見れば、犯行は可能に思える。


 しかし咲花は、その日、ずっと友人と通話をしていた。彼女のスマートフォンには、通話記録が残っていた。殺害時刻のスマートフォンの位置情報は、彼女の自宅を指し示していた。


 あまりに通話時間が長いことに、捜査一課も、最初は疑いを持った。携帯電話会社に、記録の照会も求めた。


 照会の結果は、咲花の無実を示すものだった。


 咲花の通話の相手は、四谷華という女性。自分の友人だと咲花は証言したらしい。知能に多少の障害がある華は、その日、街中に出掛け、迷子になってしまったそうだ。


 咲花は、華と電話で話しながら、帰宅方法を案内していたのだという。


 通話が途切れた時刻は、午後六時二十七分。通話ログから、華のスマートフォンがバッテリー切れを起こしたと考えられている。


 もっとも、咲花が完全に容疑者候補から外れたわけではない。華との通話記録は残っているが、通話内容までは確認できていないからだ。


 警察が携帯電話会社に通話記録の照会を求める場合、裁判所の令状が必要となる。その令状の内容によって、開示可能な範囲が決定する。


 通話内容――通話時の会話の内容――の開示は、憲法上の通信の秘密に反する可能性がある。そのため、裁判所も、開示範囲には細心の注意を払うことになる。


 今回の事件において、裁判所は、通話内容の開示までは必要ないと判断した。だから、通話した記録のみ開示する令状を発行した。


 通話内容までは分からない。だから、咲花と華がどんな会話をしていたかは不明。これが、咲花が完全に犯人候補から外れない理由だった。


 亜紀斗は今回、捜査一課のヘルプに入っている。同行しているのは、川井の――咲花の元婚約者の班。


 川井は、少し前まで、精神的にかなり疲弊していた。


 いや。疲弊していた、という表現は少し違う。明らかに苛立っていたのだ。間違いなく、咲花が犯人の最有力候補となっていたせいで。


 麻衣に「鈍い」と言われる亜紀斗の目から見ても、はっきりと分かる。川井は未だに、咲花に想いを寄せている。その気持ちのせいか、彼は、咲花を微塵も疑っていないようだった。それこそ、咲花は犯人ではないと確信しているレベルで。


 愛している女性を、信じている。信じているのに、周囲は疑っている。川井が苛立つのは当たり前と言えた。


 咲花の疑いが薄まって、川井の表情は明るくなった。殺人事件の捜査をしている刑事とは思えないくらいに。彼にとって今すべきことは、薄くなった咲花への疑いを、完全に晴らすこと。


 咲花が犯人だと断定するための捜査が、彼女の疑いを晴らすための捜査に変わったのだ。


 川井のモチベーションは、大きく上がっているだろう。


 しかし、そんな川井に反する思いが、亜紀斗の胸で渦巻いていた。少し前に藤山が言っていたセリフが、頭の中から離れないのだ。


『正直なところ、僕は、咲花君が犯人である可能性は高いと思うんだよねぇ』


 当時、亜紀斗は、藤山の意見を真っ向から否定した。


『俺は、笹島を信じます。笹島は犯人じゃない』

『あいつは、そんなに弱くない。俺よりも強い。だから、俺みたいに、自暴自棄にならないはずです』


 藤山に対して、亜紀斗が言い放った言葉。


 これは嘘だ。亜紀斗も、心の底では咲花を疑っていた。


 確かに咲花は強い。単純な戦闘能力だけではなく、心も強い。


 けれど、ただ強いだけの人間が、この世にいるのだろうか。心が折れない人間など、この世にいるのだろうか。


 咲花は、姉に報いるために生きていた。以前の亜紀斗と同様に、死者に報いることだけを考えていた。自分の幸せを捨ててまで。それなのに、警察庁長官が辞職し、姉に報いる手段を失ってしまった。


 ――もし俺が、今の笹島の立場なら……。


 亜紀斗は、咲花の心情を思い浮かべた。自分に置き換え、想像した。


 もし自分が、先生や元婚約者に報いる手段を失ってしまったら。生きる目的を失ってしまったら。一体、どんな気持ちになるのだろう。


 間違いなく、自暴自棄になる。


 自暴自棄になった自分がどんな行動を取るのかなんて、亜紀斗には想像もつかない。


 亜紀斗も咲花も、大切な人を失った。失った大切な人に報いるため、生きていた。


 だが、大切な人を失った理由が違う。


 先生も元婚約者も、事故死だった。事故の加害者にも、同情できる点があった。


 先生が亡くなった事故の加害者は、運送業者の従業員だった。一日平均十八時間もの労働を何日も続け、意識が朦朧としながら運転していた。


 元婚約者が亡くなったのは、冬場のスリップ事故だった。加害者の運転手は法定速度を守り、安全運転を心掛けていた。それでも、アイスバーンでは車はスリップする。


 加害者は、二人とも、事故で人を殺してしまったことにショックを受けていた。正気を失うほど苦しみながら、それでも、土下座をして詫びていた。ゴンッと音が響くほど、額を地面に叩き付けていた。


 そんな加害者達を恨むことなど、亜紀斗にはできなかった。同時に、先生や元婚約者が、加害者を恨んでいるとも思えなかった。亜紀斗が憎しみに縛られることを望んでいるとも思えなかった。


 加害者への怒りも憎しみもない。だから亜紀斗は、自暴自棄になった自分がどんな行動に出るのか、想像すらできない。


 でも、と思う。


 例えば、先生を殺した加害者が、飲酒運転をしていたらどうだろうか。


 例えば、元婚約者を殺した加害者が、他の車を煽った末に巻き込み事故を起こしていたなら、どうだろうか。


 それでも亜紀斗は、二人の仇を討つよりも、二人に報いることを優先しただろう。二人とも、亜紀斗に対してそんな生き方を望むだろうから。


 では、その状況で、二人に報いる手段を失ってしまったら? 生きる目的を失ってしまったら?


 消えることのない怒りに、身を任せるのではないか。色褪せない憎しみに、従うのではないか。風化することのない恨みを、晴らそうとするのではないか。


 考えれば考えるほど、咲花への疑いが強くなる。磯部や南を殺したのは、咲花ではないのか。それどころか、神坂が刑務所で死んだのも、彼女の仕業ではないのか。残る犯人の一人も、殺すつもりではないのか。殺す計画を、着々と進めているのではないか。


 咲花を信じたい気持ち。咲花を疑う気持ち。


 相反する気持ちが入り交じり、渦巻いて、亜紀斗は胸が痛くなった。心臓が締め付けられるようだ。胸骨が折れるほど、押し潰されているようだ。


 一緒に捜査をしている川井は、もう、咲花が犯人ではないと断定しているようだった。最初から、彼女を疑ってすらいなかった。


 川井が咲花を疑っていなかったのは、彼女の芯の強さを信用しているからだろう。また、同時に、彼は知らないのだ。死者に報いるために生きることが、どれだけ困難かを。


 どんなに求めても、死者は意見を伝えてくれない。気持ちを聞かせてくれない。だから、自分の記憶にある生前の姿が、全ての道標になる。


 本人はもういないから、生前の姿は、日に日に薄くなる。顔。表情。声。薄くなる記憶を無理矢理引き起して、死者の意思を想像する。毎日思い出し、思い浮かべる。道標が消えないように。


 けれど咲花は、報いることができなくなった。姉の姿を、毎日頭に浮かべていたはずなのに。必死に、姉の記憶を繋ぎ止めていたはずなのに。


 亜紀斗は咲花を信じたい。疑いの気持ちなど忘れてしまいたい。


 どうすれば咲花を信じられる? 川井のように、一点の曇りもなく信用できる?


 答えが出ない疑問。それでも答えが欲しい。


 悩んだときに亜紀斗の頭に浮かぶのは、いつも麻衣だった。かつて、亜紀斗の心を救ってくれた人。今の恋人。


 仕事中だというのに、亜紀斗は、麻衣の胸に飛び込みたくなった。


※次回更新は4/17の夜を予定しています。

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