第二話① してあげたい(前編)
ゴォーン、という音が遠くから聞こえる。除夜の鐘の音。
大晦日。午後十一時五十分。
秀人はソファーに座り、テレビを見ていた。隣には、体を密着させている華。
テレビで放送されているのは、大晦日の特番。普段はこんな番組など見ないのだが、華が見たいと言ったのだ。
華は、秀人と暮らし始めるまで、テレビなどほとんど見たことがなかったそうだ。大晦日の特番のことを秀人が教えたら、興味津々という様子でテレビを点けた。
猫達は、秀人や華にくっついて寝ている。一年という区切りなど、猫には何の意味もない。
進行してゆく番組。時計の針が進んでゆく。
年が明けた。
『明けましておめでとうございまーす!』
テレビの中のアナウンサーが、大声で正月の挨拶をした。
華が、秀人に腕を絡めてきた。
「秀人」
「何?」
「あけましておめでとう」
「うん。おめでとう」
どこか嬉しそうに、華は微笑んでいた。
「今年も、来年も、ずっとよろしくね」
「……うん。よろしくね」
秀人にとって、華は、何の利用価値もない女だ。本来なら、すぐに切り捨てる女。それでも、こうして一緒に暮らしている。大きな猫を飼っているような気持ちで。
けれど、華は人間だ。猫よりもずっと長く生きる。年齢差から考えて、秀人よりも長生きする可能性が高い。
この国を沈没させたとき、華も、国外に連れて行くべきだろう。今いる猫達と同じように。でも、海外で暮らし、秀人が死んだ後、華はどうなるのだろう。一人で生きていけるのだろうか。こんな、知能の低い子が。
華が口にした「ずっと」の言葉で、秀人は、遠い未来に不安を覚えた。
テレビの画面が変わった。神社の映像から、一年の行事に関する特集。一月の成人式、二月のバレンタイン、三月の卒業式、四月の入学式、五月のゴールデンウィーク、六月のジューンブライド、七月の夏祭り。
夏祭りの話題になったとき、画面には、りんご飴が映し出された。綿飴と並んで、祭りの定番商品。
「りんご飴だ!」
画面に映るりんご飴を見て、華が少し大きな声を出した。猫達が驚いて、パチリと目を開けた。
「華、りんご飴なんて知ってたの?」
秀人が知る限り、華は、親の愛情を受けないで育った子だ。祭りに連れて行ってもらったことなど、ないと思っていたが。
「うん」
頷いた華は、少し嬉しそうな、どこか懐かしそうな、それでいて悲しそうな顔で笑っていた。知能のせいか、普段の彼女は子供っぽい。言動だけではなく、表情も。しかし、今の華の表情は、二十二歳の年相応に見えた。
「お母さんがね、一回だけ、華をお祭りに連れて行ってくれたことがあるの」
正確な時期は覚えていないが、四、五歳の頃だそうだ。母親が、一時期だけ、凄く優しかった。そのときに、夏祭りに連れて行ってくれたという。
大勢の人だかりの中で、華は、母親と手を繋いで歩いた。もの珍しさに周囲をキョロキョロと見ていると、一つの出店が華の目に止った。りんご飴の店。
「りんご飴がね、キラキラ光ってて、凄く綺麗だったの。いい匂いがして、凄く美味しそうでね。華ね、ずっと見てたの」
りんごを包む、透き通った赤い飴。周囲の光を、飴が反射する。幼い華が見たりんご飴を、秀人は容易に想像できた。未知の世界の、未知の食べ物。
りんご飴をじっと見つめる華に、母親が聞いてきた。
「華、りんご飴食べたいの?」
遠慮がちに華が頷くと、母親は、出店まで連れて行ってくれた。りんご飴を一本、買ってくれた。
「持ってみたらね、りんご飴って凄く大きくて、凄く綺麗で、いい匂いがして、凄く美味しそうだったの」
嬉しくて嬉しくて、華は、母親に「お母さん、ありがとう!」と伝えた。
母親は優しく微笑んでくれた。
華は舌を出して、りんご飴をペロリと舐めてみた。甘い味が広がって、驚くほど美味しくて、体から力が抜けるようだった。
実際に、力が抜けてしまったのだろう。母親がせっかく買ってくれたりんご飴を、華は落としてしまった。
嬉しかった華の気持ちは、一瞬にして悲しみに変わった。せっかくお母さんが買ってくれたのに。それなのに、ひと舐めしただけで駄目にしてしまった。悲しみと同時に、恐怖も感じた。また「馬鹿」と怒られてしまう、と。
とっさに、華は「ごめんなさい!」と口にした。目には涙が浮かんでいた。
母親は怒らなかった。
「しょうがないね」
呆れたように言って、もう一本、りんご飴を買ってくれた。
「もう落とさないようにね」
りんご飴を受け取りながら、華は、母親の顔をじっと見つめた。華が最後に見た、優しい母親の記憶。
「本当に美味しかったなぁ」
昔を思い出す、華の顔。年相応に見える、今の華の顔。
たぶん――と秀人は、昔の華と、彼女の母親の状況を推測した。
華の母親は、その時期、人に優しくなれるほど充実していたのだろう。理由は、たぶん男だ。付き合っていた男と上手くいっていたのだ。それこそ、結婚を考えるくらいに。だから、華に優しくできた。
大人の都合による、身勝手な優しさ。きまぐれの優しさ。
華は、母親の優しさを忘れなかった。「ありがとう」と伝えたときに、母親が微笑んでくれたことを。「ごめんなさい」と素直に謝ったら、怒らずに許してくれたことを。
だから華は、今でも、素直過ぎるほどに「ありがとう」や「ごめんなさい」を口にする。それが人に喜ばれ、あるいは自分を守る手段だと思っているから。頭で考えているのではなく、本能で学習したのだ。
そんな母親に、華は捨てられた。
それでも華は、優しさを失わなかった。
近付いてきた男達には、いいように弄ばれた。
それでも華は、愛情を忘れなかった。
今では、目一杯の愛情を秀人に向けている。
秀人への愛情に満ちているから、華は、秀人とセックスをしたがっている。「セックスは、好きな人とだけするものだ」と学習したから。




