第一話② 再会と誘惑(後編)
秀人は、コートのボタンを四つ開けた。肩掛けにしたウェストポーチを外す。ずっしりと重いウェストポーチ。中から、ジャラリと金属音がした。
外したウェストポーチを、咲花の方に放り投げた。
ウェストポーチを受け取った咲花は、首を傾げた。
「何これ? ずいぶん重いけど。何が入ってるの?」
「銃と、弾が五十発くらい。あと、知人の名前で契約したスマホも」
「!?」
咲花の表情が少しだけ動いた。受け取ったウェストポーチを開けもせず、手触りで中身を確かめている。
「こんなの渡して、どうしたいの? もしかして、私に誰かを銃殺でもさせたいの?」
「違うよ」
言いながら、秀人は立ち上がった。
途端に、咲花が体を強張らせた。警戒の色を滲ませている。
秀人はポケットに両手を入れた。両手を塞いで、戦うつもりはない、と意思表示をした。そのまま、咲花に近付いた。
立ち上がったことで、今度は、秀人が咲花を見下ろす状態になった。
咲花の前に立ち、彼女に顔を近付ける。
「俺が咲花に殺させたいんじゃない。咲花が殺したくなるんだ」
「……どういうこと?」
咲花の瞳に、秀人の姿が映っている。鏡のように。
互いに目を離さない。わずか三十センチほどの距離。
「咲花のお姉さんを殺した犯人、全員出所したね」
咲花の目の色が変わった。ようやく彼女が、秀人の想像通りの反応を見せてくれた。
「主犯は出所して二ヶ月くらいだから、まだ何もしてない。でも、準主犯格は、もう再犯で捕まった。監禁罪と暴行罪。笑えるほど反省してないよね」
咲花の瞳が揺れ動いている。秀人を見つめながら、少し震えていた。怒りと、恨みと、悔しさで。
「でも、今回の犯罪と咲花のお姉さんを殺した罪は、別物だ。咲花のお姉さんを殺した罪は、服役したことで償ったとされる。少なくとも、法律上では。今回の事件はまったくの別件として裁判にかけられて、軽い罰しか与えられない。だから、何年か服役したら、当たり前に娑婆に出てくる」
咲花は今まで、姉に報いるために生きてきた。だから、自分の復讐には走らなかった。凶悪犯を殺すことで、少しでも遺族の傷が癒えることを願っていた。裁判の前に凶悪犯を殺すことで、彼等の出所後の再犯を未然に防いでいた。
でも、警察庁長官が辞職したことで、犯罪者を殺せなくなった。姉に報いる方法がなくなって、咲花は分からなくなっているはずだ。何をどうすべきか。何をしたいのか。
それなら自分が、咲花の背中を押してやろう。彼女が一番したいことをさせてやろう。
「さらにね、犯人の一人も、結構好き勝手やってるよ。まだ捕まってないけど、半グレ紛いなことをしてるみたいだね」
これは事実だ。秀人が独自に調査した。
「何もしてない犯人は、一人だけ。四人の中で一番年下の奴だね。こいつ、少年院の中でいじめられたらしくて、今じゃほとんど引きこもりになってる。まあ、朝刊配達のバイトはしてるみたいだけど」
これも、秀人が調べた事実だ。
「どいつもこいつも、クズだよね。捕まった奴とか半グレ紛いの奴はもちろん、引きこもりになった奴も。咲花のお姉さんを殺したくせに、いじめられたくらいで引きこもりになるんだから」
咲花は必死に、冷静さを保とうとしていた。顔を強張らせながら、表情を動かさないようにしている。秀人の挑発に乗らないようにしている。
秀人は、咲花の耳元に唇を近付けた。そっと、囁く。
「もういいんじゃない?」
秀人の顔の位置が動いても、咲花は、視線を動かさなかった。もう、彼女と目が合っていない。
「犯罪者を殺せなくなった。お姉さんを殺した奴等は、反省も後悔もない。それなら、咲花がやるべきことは一つだろ?」
咲花の瞳が動いた。再び、秀人と視線が絡んだ。先ほどよりも距離が近い。額と額がくっ付きそうなほどに。
「お姉さんの仇を討ちなよ。あいつらを殺したいんだろ?」
「……」
咲花は何も言わない。けれど、表情が物語っている。殺してやりたい、と。
「銃を見せて怯えさせて、手足を撃って痛めつけて、苦しめて、地獄を見せて。何なら、ナイフか何かで切り刻んでもいい。武器は俺が用意するよ。それなら、使った武器から咲花が疑われることはない」
咲花の顔が近い。だから分かる。彼女の息が、少し荒くなっている。怒りと恨みで、心が焼かれているのだ。焼かれ、焼けただれ、それでも燃え尽きることはない。心の中の炎は、燃え盛り、決して消えることはない。
秀人自身と同じように。
「犯人の一人は刑務所の中だけど、俺なら手引きできるよ。懲罰房にでも突っ込んで、嬲り殺したらいい」
咲花は無言を貫いている。言葉を発しないことが、物語っていた。彼女の心は揺れている。揺らぎ、仇討ちに傾きかけている。迷いがないのなら、秀人の誘いをあっさりと突っぱねているはずだ。
咲花の中にある理性が、かろうじて彼女を留まらせている。私利私欲の復讐に走ってはいけないと。決して、自分のためだけに人を殺さないと。
秀人は咲花から離れた。一歩引いて、彼女に微笑みかけた。
「まあ、すぐにはその気になれないだろうから、俺が背中を押してあげる」
部屋の中は、まだ寒い。ストーブに表示された室温を見ると、十一度だった。
まだ寒いのに、咲花の額には、薄らと汗が浮かんでいた。
「何をする気なの?」
ようやく咲花が口を開いた。ベッドに座りながら、鋭く秀人を睨んでいる。
「さあ? まあ、見てて。すぐに咲花をその気にさせてあげるから」
秀人は、開けたコートのボタンを締めた。
「俺の用事はそれだけ。あと、その銃はあげる。使いたくなったら使いなよ」
言い残し、きびすを返した。咲花に背を向けた。あえて、隙だらけになって見せた。
咲花は何もしてこない。彼女の視線を感じるが、それだけだ。彼女の頭の中には、秀人を捕らえるという発想はないはずだ。別のことで、頭がいっぱいになっている。
そのまま秀人はリビングから出て、咲花の家を後にした。
外に出ると、雪が降っていた。チラチラ、チラチラと。空には星ひとつ見えない。もしかしたら、大雪になるかも知れない。
秀人は、ポケットからスマートフォンを取り出した。歩きながら電話を架ける。ディスプレイには「華」と表示されていた。
電話が繋がった。
『秀人、どこにいるの?』
開口一番で、華が聞いてきた。天使のように純粋で、恨みや憎しみとは無縁の、知能に難がある女の子。
「遅くなってごめんな、華。もうすぐ帰るよ」
華には、今日は遅くなると伝えていなかった。本当は、もっと早く帰る予定だった。
『晩ご飯、作っておいたよ。一緒に食べようね』
「まだ食べてなかったの?」
スマートフォンを耳から離し、ディスプレイに表示された時刻を見た。午後八時三十三分。
スマートフォンを耳に戻す。
『秀人のこと、待ってたの。一緒に食べたくて』
「そっか。ごめんな、遅くなって」
『ううん。あのね、秀人。今日の晩ご飯はね、本を見ないで作れたんだよ。ちゃんと味見もしたよ。秀人ほどじゃないけど、美味しくできたよ』
華は最近、一生懸命料理を覚えている。秀人との約束を果たしたくて。
『まだ全然覚えられてないけど、華、頑張るから。そしたら、華とエッチしようね』
甘えるような、華の声。
本に書かれている料理を全て覚えたら、華とセックスをする。秀人が彼女と交わした約束。絶対に無理だと確信しながら、秀人が彼女に出した条件。
「うん。頑張って」
華は頑張っている。毎日頑張る姿を、秀人は見ている。
そんな彼女の姿を見ていると、なんだか、少しだけ胸が痛い。この痛みの正体が何なのか、秀人自身にも分からない。
「じゃあ、急いで帰るから」
『うん。華、待ってるね』
「うん。待ってて」
電話を切った。車を停めた有料駐車場まで歩く。
自分でも気付かないうちに、秀人は早足になっていた。
※次回更新は3/26の夜を予定しています




