第二十七話① 無垢な優しさは下衆にも向けられるのか(前編)
帰宅してから、家の金庫を開けた。帯付きの札束が、十四。
札束を五つ取り出し、秀人は金庫を閉めた。
時刻は午後五時。テンマの電話を受けてから、一時間ほど経っていた。日付が変わるまでは、まだ十分に時間がある。
テンマ達が、拉致した華をレイプすることはないだろう。テンマは、華に、避妊具を使用せずに売春をさせていた。性病に罹っている可能性が高いことは、分かっているはずだ。実際にテンマは、華がソープランドで働き始めたあたりから、彼女とセックスをしなくなったという。
ひどい暴行を受けている可能性も低い。人質は、無事だからこそ人質の価値がある。
秀人は、動きやすい服装に着替えた。黒いカーゴパンツに、ジップアップの黒いパーカー。ショルダーバックを用意し、札束を入れた。
猫達の給餌器を確かめた。餌は十分に入っている。給水機の中身も確かめた。水も十分にある。
これからテンマの家に行って、彼を殺す。
しかし、テンマに直接手を下すのは、秀人ではない。
まずは秀人が、適当にテンマを痛めつける。骨の二、三本ほどへし折って、抵抗する気力を奪う。
華に、テンマがどれだけ非道なことをしていたか、言って聞かせる。テンマは、金稼ぎのために華を利用していたのだ、と。華の体が病気に蝕まれても、気にも留めなかった、と。
信じていた者に裏切られたとき、人は、絶望を抱く。絶望は悲しみとなり、やがて、悲しみは怒りに変わる。信頼や愛情が大きければ大きいほど、裏切られたときの怒りも大きい。
華の怒りを、テンマ達に向けさせる。彼等を嬲り殺しにしても飽き足りないほどの怒りを。
テンマ達を殺す道具は、ナイフがいいだろう。銃で撃つよりも、殺す実感と感触を確かめられる。華の怒りをテンマにぶつけさせ、切り刻む。人殺しの感触と怒りが晴れる爽快感を、同時に彼女に覚えさせる。
秀人は、華に使わせていたサバイバルナイフを持った。ボタン着きのシース――サバイバルナイフを収納する、革製の鞘のような物――に入れた。シースのボタンで、ベルトに固定する。
出掛ける準備を終えても、時刻はまだ午後五時二十分だった。タイムリミットは、日付が変るまで。
まあ、早く着いても問題ないだろう。準備をした秀人は、自宅から出た。車に乗り、走らせる。テンマが指定してきたマンションは、しろがねよし野の付近。車で三十分もかからないはずだ。
九月の、夕方と言っていい時刻。まだ陽は沈み切っていない。
道路は、それほど混んでいなかった。
秀人がしろがねよし野付近に着いたのは、午後五時四十六分だった。
速度を落として走り、有料駐車場を探す。簡単に見つかった。繁華街なので、有料駐車場は無数にある。混み合う時間でもないため、ほとんどの駐車場に空きがあった。
秀人は、テンマの住所を頭に浮かべた。華のスマートフォンから送信されてきた住所。
テンマの家の近くに、ちょうどいい有料駐車場があった。車を入れ、停車した。料金は、出庫時に払うシステムになっている。
車から出て、歩く。
テンマの家に行く途中に、コンビニエンスストアがあった。栄養補助食品を四箱と、お茶を購入した。
コンビニエンスストアから出て、歩きながら栄養補助食品を口にする。
テンマが指定してきたマンションに着いた。マンション自体の大きさと、外から見える窓の数から考えて、一部屋一部屋はそれほど広くないだろう。単身者用のマンションのようだ。間取りは、各部屋一DKか一LDK、といったところか。
マンション内に入った。オートロックではない。エントランスの左端に、エレベーターがある。
エレベーターに乗り、「7」のボタンを押した。送られてきた住所の一番最後に、「705」とあった。どう考えても七階だ。
七階についてエレベーターから降りると、廊下の左側にドアが並んでいた。各部屋のドア。六つある。五つ目のドア――七○五号室まで足を運んだ。
ドアの横に、スピーカーとカメラ付きのインターホンがあった。
さて、どうやって乗り込もうか。秀人は少しだけ考えた。クロマチンを発動させて鍵を壊し、そのまま乗り込むか。その方が面白くはあるだろう。とはいえここは、マンションだ。あまり騒ぐと、警察を呼ばれるかも知れない。
無難に、インターホンを押すか。秀人は人差し指を突き出した。ボタンを押すと、家の中からピンポーンと聞こえてきた。
しばらくすると、インターホンのスピーカーから声が聞こえてきた。
『はい、どちら様?』
インターホンにはカメラが付いてる。向こうから、こちらの姿が見えているはずだ。秀人は素直に、要件を伝えた。
「華を引き取りに来たよ。電話で話しただろ?」
秀人は今、髪の毛を後ろで束ねている。顔立ちから、女性にしか見えない。電話で話した者だと理解させるには、声を聞かせるのが一番手っ取り早かった。
案の定、インターホンの向こうから「はぁ?」という声が聞こえてきた。
念のため、秀人はもう一度、インターホンの向こうに伝えた。
「だから、華を引き取りに来たんだよ。約束の物もちゃんと用意したよ」
インターホンの向こうから、奴等の声が聞こえる。「女みたいな奴だ」とか、「声は電話したときと同じだ」とか言っている。
やがて、インターホンの向こうが静かになった。
『ちょっと待ってろ』
スピーカー越しに指示されて、インターホンが切れた。
家の中から、足音が聞こえる。
足音が止った。
鍵の開くガチャリという音。ドアが開いた。
ドアを開けたのは、明るい茶髪の男だった。中肉中背。こいつがテンマだろうか。
ドアを開けた直後、茶髪の男は、秀人のパーカーを鷲掴みにしてきた。そのまま、家の中に引き込んでくる。
「とっとと入れ!」
秀人を玄関まで引き入れると、男は鍵を閉めた。
「靴脱いで、さっさと入ってこい」
顎をクイッと動かして、指示してくる。高圧的に出て、こちらを萎縮させる気なのだろうか。まったくもって無意味だが。
秀人は素直に従った。靴を脱いで、家の中に入った。短い廊下の奥にドアがある。リビングに通じるドアだろう。
男がドアを開けた。彼に続いて、秀人はリビングに入った。
玄関に出てきた男を含めて、リビングには四人いた。玄関に出てきた男。金髪で長身の、ガッチリとした体格の男。さらに、中肉中背の黒髪の男。
そして、黒髪の男の側に、下着姿の女性――華。彼女は両手を後ろで拘束され、座り込んでいた。
「秀人!」
秀人の姿を確認した途端、華は、大粒の涙を流した。
「秀人、ごめんぇ。こんなことになって……華が馬鹿だから……ごめんねぇ」
まただ。また華は、自分を「馬鹿」と言って謝っている。
確かに華は、知能が低い。当たり前の環境で育ち、当たり前に知育ができた者からすると、馬鹿に見えるだろう。秀人自身も、かつて華に「馬鹿」と言ってしまったことがある。
それなのに。
華が泣きながら「馬鹿」と言うと、なぜか、秀人の胸が痛んだ。自分の心情を隠すように、秀人は微笑を浮かべた。
華の泣き声を耳にして、黒髪の男が舌打ちをした。
「うるせえよ。少し黙ってろ」
言いながら、彼は華を足蹴にした。
華がその場に倒れた。
秀人の胸にある痛みが、別の感情に変わった。それでも表情は崩さない。
倒れ込んだ華は、黒髪の男をじっと見ていた。目にたくさんの涙を溜めながら。彼女の顔は、悲しみに満ちている。
「どうして? テンマ」
どうやら、黒髪の男がテンマらしい。
「どうして、こんなことするの? 華のこといじめて、秀人からお金盗ろうとして」
華の声には、怒りの色など見えない。酷いことをされたのに。両手を拘束されて、秀人を誘き寄せる道具にされたのに。
華の両手は、結束バンドで拘束されていた。両手の親指を固定されている。明らかに素人が行った拘束だ。彼女の親指は鬱血し、紫色になっている。おそらく、もう感覚がないだろう。
「テンマ、華のこと助けてくれたよね? 優しくしてくれたよね? 華の彼氏になってくれたよね? それなのに、どうしてこんなことするの?」
華がテンマの本音に気付かないのは、知能が低いからか。それとも、信じたくない事実から目を逸らしているからか。
再度、テンマは舌打ちした。倒れた華の髪の毛を鷲掴みにし、頬を引っ叩いた。
「うるせぇよ。俺と別れるとか、寝ぼけたこと言いやがって。お前は黙って、俺のために稼いでりゃよかったんだよ。馬鹿なんだから、体売って、俺に貢いでりゃよかったんだ」
言うだけ言うと、テンマは、放り出すように華の髪の毛を離した。
華は再び倒れ込んだ。彼女の目から、涙は流れたまま。けれど、嗚咽は漏らさない。視線は明後日の方向を向いている。テンマと目を合せていない。震える唇を、か細く動かした。
「……テンマ、知ってたの?」
「あ? 何がだよ?」
「ゴムしないでエッチしたら病気になるかも知れないって、知ってたの? 知ってて、華に、立ちんぼするように言ったの?」
何が可笑しかったのか、金髪の男が吹き出した。
茶髪の男はテンマの肩に手を乗せ、ヘラヘラと笑いかけた。
「お前、そこまでさせた女にフラれたのかよ」
「うるせぇよ」
テンマは、茶髪の男の手を振り払った。冷たく、嘲るように華を見下ろした。
「当たり前だろ。ゴムありじゃ、高く売れないからな。いい加減、気付けよ。馬鹿が」
華の体が、ブルッと震えた。小さく、嗚咽を漏らし始めた。必死に堪えて、でも堪え切れなくて漏れた嗚咽。
「まあ、でも、最後に大金運ばせたしな。もう十分か」
テンマは、金髪の男に目配せをした。三人の中で一番体格がいい男。
金髪の男は頷き、秀人に近寄ってきた。秀人の胸ぐらを掴み、顔を寄せてくる。
「ほら。さっさと金出せよ。そうしたら、お前も華ちゃんも、無事に帰してやるからよ」
秀人は知っている。この手の奴等が、何を考えるか。金を渡したところで、すぐに秀人達を帰したりしない。金を取り上げ、徹底的に痛めつけ、恐喝されたことを他言できないように恐怖を植え付ける。決して無事に帰すつもりはない。
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