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罪と罰の天秤  作者: 一布
第二章 金井秀人と四谷華
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第二十三話② 誰もが皆できるわけじゃない(後編)


「前提として聞きたいんだけど、どうして笹島さんは、そんなに犯人を殺すことが多いのかな? 問題にならないってことは、緊急性や非常性が認められてるってことだよね? でも、それにしても、統計を取ってると頻度が多過ぎだし……」


 麻衣の仕事のひとつとして、犯罪統計資料の作成がある。


「知らなかったり言えないことなら言わなくてもいいんだけど、亜紀斗君、何か知ってる?」


 亜紀斗は口を(つぐ)んだ。


 咲花が犯人を殺すのは、有名な事件の被害者遺族だから。あまりに残酷な経緯で姉を失った彼女は、犯人を殺すことで、自分と同じ被害者遺族に寄り添おうとしている。


 この事実は、安易に口にしてはいけない。たとえ亜紀斗が、咲花のことを嫌っていても。麻衣を愛し、信頼していても。


 でも、今の亜紀斗の気持ちを打ち明けるには、咲花の事情も話す必要がある。


 黙り込む亜紀斗に何かを察したのか、麻衣が体を寄せてきた。


「いいよ、亜紀斗君。無理に話さなくても」


 咲花の事情は、人に話していいものではない。それでも亜紀斗は、麻衣に、今の自分の気持ちを聞いて欲しかった。麻衣がどう思うのか、聞かせて欲しかった。


 亜紀斗は、咲花の概要だけ伝えた。こんなことで事実は伝えていないなんて、浅はかだ――そう思いつつも。


「笹島は、被害者遺族――家族を殺されたんだ。でも、加害者はそれほど重い判決を受けなかった。だからあいつは、自分と同じ被害者遺族に寄り添おうとして……」


 世の中には、殺人事件など無数にある。咲花の家族が殺された事件など、麻衣には分からないだろう。まして咲花は、姉が殺された後、姉とは別の姓を名乗っているのだから。


「そっか」


 応えて、麻衣はしばし黙り込んだ。亜紀斗に体を寄せたまま、動かない。


 触れ合った部分から、麻衣の体温が伝わってくる。元婚約者を亡くしてから、しばらく忘れていた感触。好きな人の体が、自分の体を温めてくれる感触。


 今は、自分の心を癒やしてくれる感触。


「亜紀斗君」


 寄せていた体を離し、麻衣は、真っ直ぐに亜紀斗を見つめてきた。亜紀斗の右手を取り、握ってきた。


「分かってくれてると思うけど、最初に伝えておくね」

「……?」

「私、亜紀斗君のこと、好きだよ。一緒にいたいと思うし、私にできることなら力になりたいし、支えにもなりたい。亜紀斗君の考えを否定したくないし、それどころか、頑張ってる亜紀斗君を見て、好きになったの」


 知っている。麻衣が告白してくれたときのことを、亜紀斗はよく覚えている。忘れられないし、忘れたくないし、忘れるはずがない。


「亜紀斗君は本当に先生を尊敬していて、先生みたいになりたくて一生懸命で。それは、亜紀斗君自身が、先生に救われたからだよね。荒れて喧嘩ばかりしてて、相手にも否があったけど、相手を必要以上に傷付けてた」

「ああ」


 喧嘩をしていたときは、相手の顔など見ていなかった。目には映っていたが、印象には残っていなかった。だが、先生に諭され、彼に色々と教わるうちに、思い出してきた。亜紀斗に一方的にやられ、恐怖し、許しを乞う相手の顔を。抵抗する気力すら失った相手を、必要以上に痛めつけた。


 被害者の顔を思い出せたからこそ、生き方を変えられた。被害者の顔を思い出させてくれた先生を、心の底から尊敬した。


「先生は、亜紀斗君を救ってくれた。亜紀斗君が尊敬する気持ちも分かるよ。でも、考えてみて」

「何を?」

「たった一人で、自分が関わった犯罪者全員を更生させるなんて、できるかな? それどころか、関わった犯罪者全員と交流を持ち続けることさえ、難しいんじゃないかな。本人の能力云々じゃなく、単純に時間の問題で」


 もっともな話だと思う。


 亜紀斗も、自分が関わった犯罪者とはできるだけ交流している。とはいえ、全員と関わり続けるには、どうしても時間が足りない。人に与えられた時間は、一日二十四時間。たったそれだけの時間で、どれだけのことができるというのか。


 それでもできる限りのことをしているが、そうすると、どうしても、一人一人に割ける時間が少なくなる。


 先生は、自分と交流していたとき、どうしていたのだろうか。長い時間を掛けて、色々と諭してくれた。保護猫活動をしている団体のところに連れて行ってくれた。


 怯えて威嚇してくる猫に、亜紀斗はどこか悲しい気持ちになり。人間に縋ろうと甘えてくる猫に、胸が痛くなり。


 そんな猫達を通じて、先生は、虐げられる痛みを伝えてくれた。


 先生のどこに、そんな時間があったのだろう。彼は少年課の刑事だった。暇な仕事ではない。むしろ、激務と言っていい。


「私は、亜紀斗君の先生に会ったことがないし、もう会えない。だから、ただの推測なんだけど」


 亜紀斗の右手を握る、麻衣の手。その手に、少しだけ力が込められた。離れたくない、という気持ちを示すように。


「きっと、先生は、何度も裏切られてきたんじゃないかな。更生させようとした元犯罪者の人達に。裏切られて、傷付けられて、迷惑を掛けられて。でも、償わせることに力を注いでた」


 更生させようとした元犯罪者に、裏切られる。その経験は、亜紀斗にもある。もっとも、神坂ほど――咲花の姉の事件ほど、ひどい事例ではないが。


「時間がなくて、それでも必死で。でも、裏切る犯罪者が多くて。だから先生は、与えられた時間でできることを考えたんだと思うよ」

「与えられた時間でできること、って?」


 亜紀斗の右手は、麻衣の両手に握られている。少しだけ力が込もった、彼女の両手。


 亜紀斗は、自分の左手を、麻衣の両手に添えた。


 触れ合った手が、熱で少し湿ってきている。それでも、決して不快ではない。


「人を選ぶの」


 端的に、麻衣は答えを口にした。


「何度も何度も裏切られて、色んな人を見て、判断できるようになっていったんじゃないかな。加害者であり続ける人と、償える人を」


 判断し、償える人を選び、選んだ人だけに時間を割いた。


「私ね、亜紀斗君は誠実な人だと思う。直情的で、激情家で、単純だけど、誠実で優しい人」


 誠実と言われて、亜紀斗は戸惑った。自分のことを、そんな綺麗な人間とは思えない。綺麗どころか、汚れ切っている気がする。だからこそ、麻衣と付き合い始める前は、女性に蔑まれるためにピエロを演じていた。


「あのさ。誠実とか、俺には一番遠い気がするんだけど」


 正直な気持ちを口にすると、麻衣に笑われた。


「亜紀斗君は誠実な人だよ。誠実じゃなかったら、付き合う前から私に手を出してただろうし。手を出しても、真剣に付き合ったりしないで、適当に弄ぶだけだっただろうし」

「……」


 付き合う前も考えたが、麻衣には、そういう経験があるのだろうか。不誠実な男に弄ばれた経験。


 ただの想像なのに、亜紀斗は、麻衣の過去に嫉妬してしまった。


 そんな亜紀斗を見つめながら、麻衣は続けた。


「そう考えるとね、私、笹島さんの気持ちも分かるの。償うどころか、反省も後悔もしない人がいる。出所した後に罪を犯したら、どうやったら捕まらないかを経験から考えるだけ。捕まったら、どうやったら重い罪にならないかを経験から考えるだけ」


 否定できない。だから、咲花の姉を殺した犯人は、再び罪を犯した。過去の罪が、経験でしかないから。反省や後悔や、償いの気持ちを芽生えさせるものではないから。


「加害者がのうのうと生きてると、被害者遺族は、ただ悲しいだけで。悔しくて、辛くて、憎くて。でも、そんな気持ちのやり場もなくて。だから笹島さんは、犯人を殺すんじゃないかな。加害者は償いなんてしない、って思ってるから」


 咲花の気持ちに関しては、麻衣の言う通りだと思う。


 では、先生の気持ちは? 麻衣の言う通り、人を選んで接していたのだろうか。


 先生に会いたかった。何を考えて、どう行動していたのか聞きたかった。自分はどうすべきかを、指し示して欲しかった。


 でも、もう、何も教えてもらえない。一緒に保護猫を撫でていた時には、もう戻れない。


「なあ、麻衣ちゃん」


 麻衣の両手に添えた、亜紀斗の左手。少し震えた。咲花の気持ちが想像できる。彼女のことは嫌いだが、力になりたい。でも、自分の信念も捨てたくない。


「俺、どうしたらいいのかな。どうすべきなのかな」


 亜紀斗が聞くと、麻衣は、亜紀斗の手を離した。自由になった両手で、亜紀斗を抱き締めてきた。


「私は、亜紀斗君を信じてるよ。私にできることなら力になりたいし、支えにもなりたい」


 麻衣の声が、亜紀斗の耳に入ってくる。絶対に失いたくない、どんなことがあっても守り抜きたい、好きな人の声。


「だから、亜紀斗君の信じることは、亜紀斗君自身が見つけて。もし亜紀斗君が間違ってると思ったら、そのときは正直に言うから」


 何が正しいのか。どうすべきなのか。罪と罰を推し量るものとは何なのか。罪に対して何をすべきなのか。


 麻衣を抱き締めて。


 亜紀斗は、思いを巡らせた。


※次回更新は2/16を予定しています。


どんなに苦しくても、過去の罪を償おうとする者は確かにいる。

自分の罪を自覚せず、誰かを傷付け続ける者もいる。


見極めが極めて困難な、人の心。

見極めが困難であったとしても、怠ると、また被害者を生み出してしまう。


亜紀斗は、罪を目にして何を思うようになるのか。

咲花は、罪に対して今まで通りの罰を与え続けるのか。

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― 新着の感想 ―
刑務所は更生に向けて矯正教育をほどこすことが一番の目的という場所ではないですものね。 そんな中で、たった一人の刑事が勤務外の時間帯に情熱を傾けようと、犯罪を犯した人間の根本的な原因に触れるというのは、…
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