第366話 世界を愛しているが故に
残された帝国の近衛達は、動けずにいた。放射される強烈な魔力――神気に当てられているのか、目の前でトラヴィスが悲惨なことになったのを目の当たりにして、次は自分がそうなることを恐れているのか。エルンストとトラヴィスが立て続けに討ち取られ、戦意を喪失している者もいるようだ。
それはそうだ。自分達が生きるか死ぬかは女神の気分次第。その上制御する方法は彼らには既になく、侵入者であり咎人だと、帝国に対するスタンスを明確にしている。
しかし女神は彼らを見るも、邪魔をしないのなら興味がないというように再びグライフ達に視線を向けた。
これは――やはりクレアとは違う存在だとグライフ達は思う。
クレアであれば、トラヴィスを斬る時であっても淡々と処断しただろう。
運命を司る力を使って呪いと縁を紐づけることで倒すという方法ならば……トラヴィスだけでなく、エルンストにも通用した。それをしなかったのは死や死よりも厳しい結末になる呪法を人が人に用いるということの意味をクレアが重く見ているからだし、重大な結末を齎すような呪法を軽々しく人に向けるべきではないという、ロナの教えを守っているからだ。
事実、クレアは羽根の呪いや小人化の呪いも他者に使う時は了承を取っていたし、直接攻撃の手段として使うことはなかった。
だから……呪いを用いて死すら許さないというような裁きを下せるのは――人ではなく神であるからなのだろう。呪いを罰として下せるのも、完全なる上位者として断罪できるのも、神であるが故だ。
トラヴィスが処断されたのはクレアの器の中にいる三つの意志の――そのいずれもがトラヴィスは許されないと判断し、そして主導権を握っているのがクレアではないからだ。故にあんな結末になった。
問題は――この女神や王の守護獣が何を望んでいるかだ。そして、それらが何を望んでいたとしてもクレアやこちらの望みは決まっている。
「貴女は――何を望んでいる」
グライフは間合いを保ちながらも女神に尋ねる。
「我が望み……。端的に言うのならば、それは人の望みを叶えることだ」
「望み――それはゴルトヴァールの住民が望んだような、ですか?」
セレーナも身構えているが、剣は向けていない。女神が顕現している依り代がクレアであるために対応に迷っている部分というのもあるし、現状、自分達は侵入者ではなく、許可を得て正面から入って来たし、ゴルトヴァールに対して破壊行為を働いたわけでもない。寧ろ侵入者である帝国を止めようとしている。
そして鳥といったからには、女神は恐らく天空の王とも関わりがあるし、アルヴィレトとも繋がりがある。自分達にとっての敵なのかが定かではないし、会話もできる相手だ。
しかし、望みを叶えることが望み、というのは。そこに女神自身の意志のようなものが感じられないようにもセレーナには思えた。守護獣の影響を受けているからこそのゴルトヴァールを維持するシステムとしての一面が表に出ているというのか。或いは神族であるからこそ、人に望まれる加護や祝福を与えてようとしているのか。
在り方が違うものと接する時は、対応に気を付けなければならないというのは、ロナの教えにもあったし、姉弟子であるクレアも領域主達と接する時はそのように実践していた。それを、セレーナだけでなく皆も知っている。
対話と対応は、慎重にならねばならない。見極める必要がある。神気――畏怖すら感じる力の放射に、セレーナは気圧されぬように、しかし敬意は失わぬように、四肢に力込めて女神と向かい合う。
「そうだ。だが、王や守護獣の言う幸福と、巫女やそなた達の想う幸福の形というのは違うものであろう」
「そう、ですわね。私達はゴルトヴァールの形を歪んでいると感じていますし、望みというのならば依り代であるクレア様を返して欲しいと……そう望んでいます」
セレーナが言うと、女神は表情を変えずに一同を睥睨する。感情の読めない表情。クレアの感情が表に出ないものとはまた違う。凪のような無感情だ。
「であろうな。だが、我も依り代も、今はその時ではないと判断している」
女神だけではなく、クレアも。その言葉にグライフ達は一瞬視線を交差させる。クレアがその必要がある、と判断している何かがあるということだ。
それは、一体何か。
その時だ。塔の破壊を察知したからか。それとも後方の戦場が優位に状況を運んでいるからか、ルファルカが広場に飛来してくる。
「守り人か。そなたも、管理者と情報を共有して、情報は把握しているな?」
「はっ……」
ルファルカは塔の管理者の隣――地上に降りると恭しく女神に一礼する。
「そなたらは――我が誰であるかに固執することなく、これからの話を聞いた上で自らの判断と心に従い行動せよ」
「――承知致しました」
管理者とルファルカは少し要領を得ないといった様子ではあったが女神の言葉に疑問を差し挟むことをせずに応じる。
事と次第では敵にも味方にも成り得る。或いは――中立で傍観者に徹する可能性もあるか。
少し昔の話をする、と女神は言った。
「エルカディウスの者達が神々の力を欲し、神々は奢った人間を見限り、世界が廻るように因子だけを残し、櫛の歯が欠けるように一人また一人と世界を去っていく。やがて我は最後の神族となった。我は――この世界を愛しているが故に」
女神は少し遠くを見るような目をする。表情は変わらないが、感情の揺らぎのようなものはそこに見えた気がした。
「紡いだ糸が重なり合い、糸そのものが更なる糸を紡ぎ世界を織り成し、色付いていく世界――。その美しい輝きを見ることが我の喜びだった。だからこそ織り成したものと共にあるのならば、利用されることも構わぬのではないか、と思った」
女神はそこで初めて自嘲するように笑う。
「しかし、エルカディウスの王は不安で堪らなかったのだろう。残った我もが人を見放し、去っていけば、それで世界の何もかもが終わるのではないか、とな。だから、自分達と我とを、この世界に永劫に留めるためにこの都を作り上げた」
その一方で、それを快く思わない者達もいたと、女神は語る。
「我がそのような形で都を維持し続けることを。ゴルトヴァールが外に拡がっていくことを危惧した者達。それが我に仕えていた巫女姫達の血筋。つまりアルヴィレトの者達であるな」
女神の解放を目指し、しかし王に逆らって解放に至るまでは彼らにはできなかったのだ。女神自身も、日に日に完成度を高めていく統制の術式と、世界の全てが繰り返すように織り成されることで均一化されることを残念に思う気持ちとの間で揺らいでいた。
統制が完璧なものとなり、全てを揺籃に飲み込む前に。姫巫女や守護獣達の力を借りて、封印させることで、揺籃を望む者達のみを取り込んだ。
互いが求める希望を、女神は両立させつつ世界を存続させる為の選択を、運命の糸が独りでに織り成すに任せた。
それが、エルカディウスとゴルトヴァールの顛末。今日に至る神の揺り籠の歴史。
「さて――。そなたらは否定するが、ゴルトヴァールの在り方を望む者もいる、ということも理解しておるな?」
「そう、ね。そういう人も、いるかも知れない」
女神の問いにシルヴィアが頷く。何にも思い悩むことなく、神の揺り籠の中で心安らかに。歪んでいてもそんな平穏を望む者も、確かにいるだろう。
「けれど、私達はそれを望まない。例えば私は、自分の意志で立って歩いて、生きて次の世代に託して……悪くない人生だったと、最後に振り返って笑えるような生き方が良い。そうやって……人としての在り方を全うしたいわ」
次の世代――シルヴィアにとっては娘であるクラリッサはその最たるものだ。ゴルトヴァールがその影響を更に広げていくのであればクレアも、自分達も、取り込まれてしまうのだろう。それは、許容できない。
「そうか。今の我の内では、巫女の想いと王の守護獣の統制とが相反する状態で存在している。揺蕩う運命の天秤は、どちらにも傾くであろう。だからこそ見極めねばならない」
女神は掌を上に向ける。そこに緩やかに廻る糸車が浮かぶ。
「巣立つことを拒否し、揺籃の中で永劫を生きていくことに安寧を見出すのが幸福であるのか。それとも神族を必要とせずに自らの足で立ち、歩みを進めて生きていける種族であるのか。我にその力と意志を示してみるが良い」
糸車が輝きを放ち、その速度を増していく。
ああ。これこそが、女神と結びついてその想いを受けた時に、クレアが言っていたことなのだろうとグライフは思う。
戦っても問題はないと言ったのも。今はみんなの所に戻るわけにはいかないと女神の口を通して伝えてきたのも。
運命の天秤を自分達の選択に傾かせるためのものだ。器の内で均衡を保つ役割を果たし、その間に王の守護獣の統制を止めるために、女神にその力を示して欲しいと自分達に言ったのだと。そう理解した。




