第365話 誤算と裁き
「結界が壊れてしまったようではありますが……まだ戦闘は終わっていないようですね」
壁の破壊痕から結界塔の外を見て、クレアが言った。
「城側に侵入されても拙いな。まだ十分に戦えるから、俺は加勢に向かおうと思う。クレアは安全な場所で待っていてくれ」
「私も支援だけなら問題なく出来ますよ。とりあえず――広場に降りてしまいましょう」
クレアは言いながら必要なものを回収しつつ、管理者にも目を向ける。
「崩落の危険もありますし、一緒に外へ」
そう言うと管理者は少し塔の内部を見回してから一瞬俯き、それから顔を上げて頷いた。自分が崩落に巻き込まれることに意味はない。復旧を困難にするだけだと判断したのだ。
管理者は守り人よりも自我が薄いものの、それでも判断能力は高い。力及ばず塔を守れなかったということを残念に思う気持ちはあるし、最後の局面で自分を守ったクレアという少女に、王族の血縁と言うことも相まって畏敬の念のようなものもあった。
そうして。壁の破壊痕から外に出て、クレアが広場に降り立ったその時だ。それは起こった。
「これ、は……」
クレアがこめかみのあたりに手をやって、ふらりと身体を揺らがせる。
グライフやエルムが身体を支え、スピカも心配そうな様子でクレアの顔を覗き込む。
「クレア……大丈夫か?」
「これは――。ああ。ああ。そう……。これが帝国の狙いでした、ね……。いえ、けれど、今なら……」
クレアはグライフの声が届いているのかいないのか、呟くように言う。
「グライフ、さん。お願、いが、あります」
クレアは心配している仲間達を近寄らないようにと、手で押し留めるような仕草を見せる。否。近寄れないように防護結界まで構築している。ふらふらと、顔を抑えながら数歩、後ろに下がった。
「私、を……止め、て下さい。それは、私では、なく、て……。戦って……も。多分、問題は……だから、躊躇、う必要は」
断片的で、要領を得ない言葉。
「何を言って……いや、それよりも結界を解除してくれ……! 体調が悪いのならば、撤退も――」
ウィリアムの力で一時的に退避し、シェリル王女の力を借りて立て直す。強敵は排除したのだから、防衛線の維持だって出来る。出来るはずだ。それぞれの戦況は、こちらが優位に運んでいるようなのだから。
だが、グライフが言い切るよりも前に状況は更に変化していく。クレアの身体が脱力したままふわりと宙に浮いて、眩い輝きを放つ。
感じたことのない魔力が広がる。広場にいる者達の視線がクレアに集まる。顔の前に腕を翳して光の量を抑えながらもグライフはその向こうにあるものを見据える。
腕を軽く広げて、光に包まれるクレアの、そのシルエットが変貌していっているようにグライフには見える。異形になっているわけではない。女性的な輪郭は変わらない。
ロナの若返りを見たことがある者ならば、それを連想するだろう。但し、クレアの場合は若返っているというよりは、成長しているように見える。
髪が、身長が。光の向こうで伸びているようだった。衣服も形状が変化していく。
最後に一際眩く光が放射されて、ゴルトヴァールの街を、城を。白く染め上げて、その光が爆ぜた。
急速に光が収まっていく。だが、完全に光が消えたわけではない。皆が見上げるそこに、それはいた。
クレアの、面影はある。髪や瞳の色はクレアのものと同じだろう。ゆらゆらと、長い髪が淡く光りながら揺れている。絶世の美姫。そんな言葉では形容し切れない程の美貌。
両手を僅かに広げ、足首のあたりで両足を交差させて。それは宙に浮かんでいた。糸を使っているわけでもなく。さりとて箒を使っているわけでもない。
「クレア……」
「クレア、様?」
グライフ達が声をかけるも、クレアは答えない。一瞥もしない。ただただ静かに、広場を。そして少し離れた大通りの兵達を睥睨しただけだ。
違う、と感じた。それは表情を変えたわけでも、何かを言ったわけでもない。
セレーナ達はロナが若返ってもそれはロナだと感じられたが、今そこに浮遊している存在はクレアとは別の何かだとグライフやセレーナ、シルヴィアやディアナは直感していた。
「貴女は――何? クラリッサを、どこにやったの……?」
「――巫女は、ここに」
シルヴィアの問いに、それは初めて口を開いた。静かに自身の胸のあたりに手をやって答える。その声。その仕草。一つ一つがクレアとは違う。その存在を別の何かなのだと強く確信させるものであった。
「は、はは……はっははははッ!」
哄笑が響いた。足に傷を負い、地面に膝をついたままのトラヴィスの声だ。
「貴様……」
ウィリアムが敵意の籠った視線を向けるとトラヴィスはそれを手で押し留めるように言う。
「く、くく。いや、失礼。あれだよ。あれこそが、解放されて目を覚ました、ゴルトヴァールの根幹。ゴルトヴァールを支える神霊そのものに他ならない。こんなにも早く、運命の巫女を依り代に顕現してきたのは僕にも予想外だったけれどね」
広場にいた者達はその言葉に絶句する。運命の巫女。それを依り代に顕現することのできる神霊。それは――運命の女神そのものということだ。
つまりはゴルトヴァールの制御を受けた運命の女神にクレアの身体は憑依された状態、ということになる。
ゴルトヴァールの住民達は同じ場面を繰り返しているし、死ぬことなく同じ運命の同じ場所に回帰する。そもそも何故そんなことが可能なのか。ゴルトヴァールがどうやってそれを実現しているのかをグライフ達は理解した。
「後は――封印後にアルヴィレトで作られた、この統制のための宝玉を用いてやれば――」
トラヴィスが何かをしようとするよりも早く。ウィリアムが固有魔法を叩き込もうとする。いや、した。が――それよりも早く女神が静かに手を翳すとトラヴィスの周囲に光の膜が出来て固有魔法が弾かれる。
「そんな――」
女神がトラヴィスを守ったことに、イライザが声を漏らし、ウィリアムが歯噛みをする。そんな兄妹の様子を見て、トラヴィスは笑う。
「く、ははは! いいぞ! まずは僕の身体を癒してくれ! ああ。だが、ここの住民のように僕の自由意識には介入しないようにね! それぐらいはできるんだろう!?」
熱に浮かされたように言うトラヴィスに、女神は感情の籠らない視線を向けた。
「可能だ」
その言葉に絶望に似た感情が広がる。
だが。
「しかし――そなたは勘違いをしている」
女神の口から紡がれたのは、予想外の言葉だった。
「何……?」
「我は――我に仕えていた姫巫女達の血筋に、遠い未来で一つの運命が結実するように糸を紡いだのだ。我の因子魔法をその身に宿すもの。運命の子が、我が前に現れるように、と。その者を正しく導けば――この狂った都の定めも変えることができるだろう、と。我が紡いだのは、それだけ。因子魔法を宿す者が、我が前にやってくることだけ。後のことは、我に仕えていた鳥や預言の姫巫女達に託した」
女神は静かに空を見上げるようにして言った。大樹海の広がる空。しかし見ているのは遥か遠い過去だ。
「そして、この身には今、三つの意志が介入している」
そう言って、女神は周囲を睥睨する。
「一つは我自身」
クレアに顕現した運命の女神。それが自分を差して言う。
「一つは依り代の巫女」
次に依り代となっているクレア。では、あと一つは。
「そして最後の一つは神殿を守る王の守護獣――神々を縛るエルカディウスの権能の全てを与えられた魔法生物」
エルカディウスの作り上げた技術の精髄。それが女神をシステムたらしめているものの正体だ。
「三つの意志は今、均衡を保っている。故に最後に残された神族である我は、与えられた役割に従い、人の願いを叶えねばならぬ。そう……できるだけ――公平にな」
女神の手の中にゆっくりと廻るものがある。糸車だ。クレアも行使していた、運命を司る力。
自身の制御が女神に及んでいないと言うことは理解した。制御鍵なる宝珠がどれほどの効果を持つものなのかは知らないが、女神を目覚めさせ解き放つためのものというところまでは理解した。
つまりは、第三者がどのような目的で用いても、何も変わらない。アルヴィレトの預言にあった通り、運命の子を育て、導く必要があった。
「我は人の望みを叶える。であるならば、見過ごせぬだけの罪を背負った咎人は裁かねばなるまい」
冷たい視線がトラヴィスに向けられた。人の裁きという言葉とは違う。文字通りの、神の裁き。言い知れない怖気が、トラヴィスの背を伝う。
「な――。ま、待て……!」
トラヴィスは制御鍵に魔力を込めて女神を止めようとする。が、淡々と言葉を続ける。
「王都への無断侵入。無辜の民への攻撃。盗み出した制御鍵の使用。そして何よりも――度重なる生命と魂への冒涜。そなたの罪過、まことに度し難い」
女神は、一瞬ローレッタやオルネヴィアに視線を向けた。それはつまり、クレアの記憶も共有しているということだ。
だから、トラヴィスの行いを把握している。いつの間にか糸車の横に、何か黒い結晶のようなものが浮かんでいた。
「あれ、は――」
かつてトラヴィスが移植し、ルードヴォルグから分離した呪いの結晶。それから、エルンストから分離されたそれもだ。分かたれていた呪い――二つの結晶が混ざり合って、どす黒い気配を垂れ流す。
「そなたは自らの業を抱えたまま無窮の果てに墜ちて悔いよ。いくつもの生命と魂を徒に弄んだ罪。悠久の苦悶を以って罰となす」
「待――」
呪いの運命の糸をトラヴィスに向かって紡ぐ。ぐにゃりと歪んだ黒い結晶がトラヴィスの胸の位置に吸い込まれていた。
「おっ……ぶっはぁ……ッ!」
身を屈め、奇妙な声を漏らしたトラヴィスの身体が、ぼこぼこと内側から膨れるように変貌していく。呪法を操る領域主が死後に遺した怨念だ。肉塊となっても死ねない呪い。エルンストは寓意魔法によって獣を形作り、呪法を食わせることで生き永らえ、ガントレットの力で望みを繋いだが、トラヴィスにはそのどちらもない。魔力の回復を待って分裂体を作ったところで、同じように呪われた肉体が生じるだけだ。
トラヴィスの手から制御鍵が転げ落ちる。糸に引かれて、女神の手の中に制御鍵が収まった。
そして、女神が腕を振るえば、トラヴィスを閉じ込めた光球が真横に吹き飛んでいく。城壁の横。堀の下――無窮の海へと墜ちていった。




