第309話 重なる想い
ああ――。この香りは知っている。あの巫女達が漂わせていたような香り。この身を案じている。それが伝わってくる。
そんなものは嘘だ。間違いだと竜人の中の黒竜は自分に言い聞かせるように咆哮する。
そうだ。この生き物は悪意を以って同種を、他種を陥れて食い尽くす。そういう性質を持っていると、ここでの生活で嫌というほど学んだではないか。
第一、その場の気まぐれで同情されたからなんだというのか。
信じたからこそ彼らを許してやろうとし、選択を誤って囚われとなった。また騙されるようなことはしない。もう二度とは。
「どうか――もう一度だけ、信じてはくれませんか。私は――」
先に続く言葉は言わせない。力任せに人形ごと横に振り払って突き放す。
ああ。そうではない。何故壁に押し付けておきながら横に振り払ってしまったのか。抑えたままで叩き潰すように動けば。
最善手ではなかった。そう思いつつも少女に向かって鱗弾をばら撒く。それも違う。戦意を失っているのならブレスを浴びせればいいのだ。
混乱している。攻撃が精彩を欠いている。
そうだ。香りに嘘は、吐けないから。最初から、嫌な臭いはなかったのだ。分かっている。本気で言っているのだと、分かる。
ともすれば失われそうになる戦意とは裏腹に、背後にいる得体の知れない何かが自身の意識に絡みついてくる。そうだ。この器にいる人間も、こうやって戦いの技術だけ引き出されるようにして、意識を落とされたのだろう。
夢を見ているような。或いは意識せずに身体を動かしているような、遠い感覚に陥っていく。風景は見えているのに、意思とは無関係に身体だけが合理的な動きを見せていく。無理矢理励起させられた魔力が、操り人形のように身体を動かしていた。
竜人の動き。戦い方がまた変化したことをクレアは悟る。背後から立ち昇る魔力だ。それがまるで、操り人形のように動かしている。人と竜。その意識は眠らされているか、抑え込まれている状態かも知れないとクレアは思う。
涙を拭い、迫りくる竜人の動きに合わせるように迎撃に転じる。
鱗弾による偏差射撃とブレスを吐く構えを見せての牽制により、距離を詰めて鞭剣による斬撃。精密、正確な攻防ではある。だけれど、そこに感情のようなものは見えない。
正確な技術と理詰めの駆け引き。教科書のような動きだ。
鞭剣と糸鞭が空中で幾度も激突する。その様は嵐がぶつかり合うようで。その間を飛び交う弾幕も、嵐に吹き飛ばされる無数の木切れや木の葉のようだ。伸縮も変幻も自在。鞭剣が時折攻防の間をすり抜けて巨大な斬撃となってすぐ近くを掠めていく。
空中を流麗に踊るように踏み込んで激突。交差して遠ざかり、距離をとったかと思えばまた踏み込む。天地もなく、舞い踊るようにフロアの中を縦横無尽に切り結ぶ。
『……クレア。今から言う名前を、呼んでみて欲しい』
その戦いの中で、グライフの声が届いた。クレアと竜人の戦いの光景も、他の者達に見せている。何かが分かるかも知れないからだ。
「心当たりが?」
『ああ。今の戦いになってから、身体――技に染み付いた癖のようなものが顕著に出ている』
『そうですね――。あの方は――』
グライフとジュディスの声が重なって、一つの名を伝え、クレアは静かに頷いた。
飛び回りながら、攻防の中で再び間合いが詰まる。数度に渡って鞭をぶつけ合って、今度はクレアの方から更に踏み込んだ。
爪撃。予想していたとばかりにファランクス人形の盾で受け止めての至近距離。ぶつかり合う衝撃と共に、クレアのアメジストのような煌めきを宿す瞳が、竜人を見据える。
そして、その名を呼んだ。
「ローレッタさん。オルネヴィアさん。それが、貴方達の名前ですね?」
ルーファス王に付き添い、最後まで王都防衛の遅延戦闘に参加した近衛騎士ローレッタ。それから、かつて人間達に尊敬の念を以って名付けられたオルネヴィア。それが竜人の中に宿る、二つの魂の名だ。
クレアがその名を口にした途端、竜人の身体がガクガクと震えて動きを止める。自身を強制的に動かそうとする魔力を押し留めようとするように、竜人は胸のあたりに手をやって苦悶の声を上げた。
近衛騎士ローレッタ。自身は一際身体が大きく隻眼であるから、逃亡や潜伏に向いていない、と笑って脱出を断った女傑だ。
『気さくな、方だ。俺やジュディス殿も……剣の指導をしてもらったことがある』
『時折……オーヴェル殿との模擬戦も行って……。我らに戦い方の手本を見せるための、演武に近いもの……でしたが――』
グライフとジュディスが少し沈んだ口調で伝えてくる。そうした折に見せてくれた剣舞に、竜人の斬撃を繰り出す動きが重なるのだという。知識から引き出して操縦している動きであるが故に、そうした部分が顕著になっているのだろう。だから、2人には分かった。
『あなたが――生まれたことを……とても喜んでくれて、いたわ』
『別れの前に胸に抱いて、あなたが、指を掴んだのを、喜んで……この力強さなら、きっとどこに行ったって大丈夫、だって……』
アルヴィレトの者達にとってはローレッタの状況が衝撃的であるのか、シルヴィアとディアナの声も震えていた。結界を維持するために2人は歯を食いしばり、目を閉じてかぶりを振って術の維持に集中する。そうしていないと感情が抑制できないのだろう。
「そう……ですか。私と……」
クレアの最初の記憶は、オーヴェルの背中ではあるが、向こうは覚えてくれていた。
この目を。顔を。指を握った手の感触。きっと覚えている。
クレアは――目の前で自身を抑え込もうとしている竜人に言う。
「ローレッタさん、オルネヴィアさん。お二方とも、どうか……そんなものには、負けないで下さい。お二方の身体のことだって、何とかしてみせますから」
決意を秘めた目で、クレアは真っ直ぐに竜人を見て伝える。
「無、理ダ。コれ以上、ハ……。抑えられ、ナい。貴女ヲ、手にかケてシまう前に、我ラの始末を、頼み、タイ……申し訳、ない、ガ……」
私と我が分離するような。不思議な響きの言葉ではなく。竜人は「我ら」と言った。それは、ローレッタもオルネヴィアも、見解、感情や思考が合致している、と言うことでもあるのだろう。だからこそ、眠らされそうになる意識の中で、無理矢理にでも止まることができた。
ローレッタはクレアを手にかけるぐらいならば自分が消えるべきだと思っているし、オルネヴィアは、あの懐かしい、優しい匂いのする存在を、こんな魔法の強制力によって命を奪うぐらいなら、ここで終わった方がましだと。そう思っている。
匂いから感情を知る事のできない、クレアにだってわかる。二人は、そう。自身の身体が戻るとは思っていない。竜人の力が抜きんでているが故に、あんな戦い方をいつまでも続けていたら、解析や対策などが出来上がる前にクレアを殺してしまうと。そうなる前に、自分達が抑えている間に、自分達を殺せとそう言っているのだ。
軋むように竜人の身体が揺れる。魔力が竜人の身体に絡みついていく。
『手で抑えている――心臓の位置。魔力はそこから来ていますわ……!』
セレーナが言った。そこに、あの黒い何かがある。そうクレアは理解する。その上で、竜人を見据える。
「……できません。どうか、どうか諦めて、自分を手放さないで下さい。その呪縛も。その身体も。元に戻す方法を、見つけてみせますから。私を、信じて下さい」
クレアもまた、意思を曲げない。譲れない。ローレッタやオルネヴィアのような者達が、帝国のために犠牲になるなど。
竜人は――目を見開き。そして絡みつく魔力に全身が包まれようとするその瞬間に。天高く咆哮を響かせた。それは、記憶の中で見た、黒竜オルネヴィアの慟哭にも似て。
次の瞬間、黒い暴風となって踏み込んでくる。技も何もない。身体能力に任せた最短距離を潰すような軌道での突撃。組み込まれた制御の魔法は、ローレッタもオルネヴィアも無理矢理に封じ込めた。彼らの保有する知識、技術を十全に引き出せなくとも。殺すまいとしている今のクレアとならばいくらでも戦えるとばかりに。
重い衝撃。力任せ、速度任せのそれは、ファランクス人形の竜鱗の盾に亀裂を走らせ、クレアの身体を後方に弾き飛ばす。即座に転身。糸で跳ぶ。
人形への警戒も、駆け引きも。何もかもを捨て去り竜人は結界壁を蹴ってそれに追随した。凄まじい速度ではあるが、直線的だ。空中で軌道を変えながら遠ざかり、それを弾丸のように壁から壁、天井から床へと反射を繰り返しながら追いすがる。
巨大な魔力を込めた爪撃。竜の吐息とは似ても似つかない、物量でもって粉砕するような魔力の閃光を口から放出。力任せ。闘争本能や攻撃本能のみに任せたような攻撃。
すぐ至近を、魔力の衝撃波が通り過ぎていく。振動と結界壁との干渉音。破砕されて飛び散り、降り注ぐ何かの欠片。斬撃の風を間近に感じながらも、クレアの意識はそれらには向いていない。
当たらない。解析に力を割いていても大樹海で魔物達と戦い続けたクレアの領分だ。彼らよりも力が強く、速い。それだけだ。いつもとすることは何も変わらない。そんなことよりも。
内側から噴き上がる衝動。助けたいという強い想い。こんな理不尽を許してはならないという義憤。胸に渦巻く感情は尽きることはない。呼応するようにクレアの魔力が、感覚が、研ぎ澄まされて高まっていく。
力任せでは速度を上げても追随し切れないと制御魔法のシステムが判断したのか。首の後ろに器官から六角の鱗を翼状を広げようと射出した、その瞬間だ。
それは――竜の領分。オルネヴィアはローレッタと共に待っていた。言葉は交わせずとも、思うところは一つ。クレアが自分達を殺さないというのならば。始末は自分でつける。それでいい。治るも治らないもないのだ。今のこの器は、ただ一つしかない。一つの生命として、十全に機能している。してしまっている。分離させる手段などない。
展開された翼はオルネヴィアとローレッタの意志に従い、翼の形にはならない。一旦大きく伸びた後、自分の身体を切り裂くように背後から降り注いだ。
脇腹を、肩口を。掠めて切り裂く。制御システムの妨害。急所を外された。まだだ。再度引いて、何度でも切り裂いて――。
その、光景に。クレアが歯噛みをした。不甲斐ない。助けたいのに、言葉も術も、届かない。解析を進めたことで、制御システムの妨害よりも先に、竜人の身体が一個の生命として完璧に機能してしまっていることに気付いてしまった。
恐らく――いや、間違いなく、頼みにしていたシェリル王女の魔法では、治せない。あれで正しい生命の形と、なってしまっているから。それは――下の階にいる者達にしてもそうだ。
クレアは大きくのけぞるように振りかぶったかと思うと、全身全霊の力を込めて振り下ろす。その両の手から、奔流のような糸の渦が迸っていた。煌めく糸は四方八方から竜人の身体に、六角翼の器官に絡みついてその動きを封じる。軋むように竜人が、六角翼が拘束から逃れようと反発する力を返してくる。
破られないよう、翳す掌に力を込めながらもクレアは思考する。
どうすればいい。何とかして見せるなんて、絶望から救い上げることのできない、根拠のない言葉ではなく。何かを示さねばならない。方法を見つけなければならない。制御システムを解析で止めることはできても、その後は。
思考の中で、竜人が口腔をクレアに向けて開く。魔力の光が、そこに宿った。
どうする。二つの魂。一つの器。一つところに集められてしまった、運命。
運命。糸の寓意。前もどこかでそんな話をした。
器。肉体。魂。エルムは、一体どうして自分の手元に残ってくれた?
思考していたクレアが弾かれたように顔を上げる。目を見開いたまま、内から溢れる衝動と直感に従って、その力を解放する。
伸びた糸が眩い輝きを宿して、周囲は光に包まれた。




