第308話 願いと香り
竜は全体を把握できていたわけではないし、人間の事情を知るわけではない。ただ、あくまで竜の活動範囲で観測したものだけが記憶に残っている。流れ込んでくるのはこんな状態になっても尚焼き付いている、印象的な記憶だけだ。
だから――竜が気付いた時には人間達の支配者が帝国に変わっていたという、それだけのことしか分からない。
ただ、人々は最初竜のことを隠していたし、竜にはそんな彼らの不安も伝わっていた。何事かが起こっているのは分かっていたが、人の営みに何かができるわけでもないし、人の世に対して積極的に干渉してきたわけでもなかった。
だが、人の口に戸は立てられないし、支配した相手に従属の輪を用いる帝国相手では発覚も時間の問題だった。
街の人々や巫女達は竜を隠そうとした。守ろうとした。記憶の断片からそれは間違いない。供物を届けにきた巫女が、自身の鼻先に抱き着いて謝りながらさめざめと泣く、その姿が竜の記憶に焼き付いている。
大丈夫だというように竜は巫女に優しく喉を鳴らした。街やそこに住まう人々ぐらい、自分なら守ってやれる。黒竜は竜という強者であるが故に、そう信じていたのだ。
だが黒竜に目を付けた者は、竜の想像の埒外の狡猾さと邪悪さであったのだ。
巫女が洞窟に駆け込んでくる。竜はいつものようにそれを迎えた。だが――。
「お逃げ下さい!」
巫女が叫びながら訴えてくる。帝国が竜を捕らえようとしていると。そう訴えてきた。人間の言葉は完全に分からなかったが、巫女は自分に危険が迫っていると、そう伝えようとしているというのは理解できた。
「あれは――魔法の力で無理矢理貴方様に言う事を聞かせようと……! 護衛の者達の家族を人質にとって、呪いをかける手伝いをさせようとしているのです……!」
そう、訴える巫女の言葉は――竜には部分的にしか伝わらなかったし……伝わっていたとしても人間の術がどれほど自分に通用するのかと、竜は侮ったかも知れない。
それだけ竜にとって人の術というのは小さなものだった。竜の知る世界とは洞窟と森、大空から見る景色、そして人の住まう近隣の街や村。それだけであった。
だから、思った。思ってしまった。正面から人の仕掛けた策を打ち破れば、彼らが責められることもないだろうと。
歯牙にもかけなければいい。それで諦めなければ、その余所者に対して実力を見せつけてやれば良いと。
家族を、友人を、恋人を人質に取られた護衛の者達は、やってきた。苦渋の表情を浮かべながら。竜は静かにそれを見ていた。巫女は彼らを責めた。だけれど、男達は首を横に振る。
「この魔法道具を使うだけ。それ、一回だけなんだ……」
「それで、みんな助けてくれる。ここ出身の奴をこれから先も戦奴に取ることもしない……。そういう魔法契約なんだ。だったら、だったら俺達は……」
「そうだ。成功しようが失敗しようが一回限りって契約だ……。それに竜様ならあんな奴らの魔法なんて……効かねえよ、きっと効かねえ」
彼らはそう言いながらも――運んできた魔法道具を洞窟の床に置く。その言葉は自分に言い聞かせるようで。
巫女は「どうかお逃げ下さい!」と竜に縋り、竜は首を小さく横に振り、巫女を腕と翼で庇うようにしてそれを見守る。
「……すまねえ。すまねえ、竜様」
「どうか。どうか無事でいてくれ……!」
そう言って。男達はその円筒形の魔法道具を発動させた。金属でできた、銀色の樽のような形状。その表面に、緑色の魔力のラインが奔る。
そして――。
「そん、な……!」
クレアは記憶の中の光景という事を知りつつ叫んでいた。展開した銀色の樽。そこから噴き出したのは気体だった。毒ガス。地球側の記憶があるが故に、そんな単語が頭を過ぎる。捕獲するためのものではあるのだろう。だけれど、それは竜相手を想定したもの。そんなものが人のいる間近で、閉所でぶちまけられればどうなるか。結果は、火を見るより明らかだった。
間近にいた者達が昏倒する。一瞬だった。あっという間に絶望の臭いすらも途絶えてしまう。巫女は――竜が、大きな魔力の防御膜を展開して守っていたから直撃を避けていた。
だが。竜は単体で完結している、群れる必要のない幻獣だ。
手持ちの魔法や竜としての能力に、他者を守る結界のようなものはない。ましてや気密を保つような魔法や、他者を解毒する術など。
それ故に、巫女は気遣うように喉を鳴らす竜の腕の中で、どうか自分達を許して欲しいと謝り竜の身を案じ、泣きながら眠るように静かになった。
静寂。そして咆哮。猛り狂ったような長い長い咆哮は慟哭にも似て。
次の瞬間、竜は吐息で洞窟の天井を撃ち抜き、天高くへと一気に舞い上がっていた。その手に巫女を抱えて。
怒りに燃える双眸が視線を巡らす。目標は――街に駐屯している帝国軍。この嫌な臭いを纏う一団だ。激情に駆られるままに、竜は飛翔した。飛翔し、ブレスを叩き込もうと大きく息を吸い込んだところで。
失速する。身体がガクンと揺らぎ四肢から、翼から力が抜けて、飛翔してきた速度のままに、黒竜は地面目掛けて落ちていった。魔力が上手く扱えない。意識が朦朧とする。それでも抱えた巫女の身体を守るように、竜はその背から落ちていった。
そうして竜は、囚われの身となった。
それからの日々は、言うべきこともない。囚われ、繋がれ、縛られて。様々な魔法実験を施される日々。人に感じていた想いも薄れ、ただただ憎悪と憤怒が積み重なっていくような日々だった。
「――出土したあれを使うのに丁度いい素体が手に入ったようだよ。竜に見合う素体がなかったが……これで魔導強化兵の計画を進められそうだ」
「はは。何よりですな、殿下」
笑う男達。運ばれてきた黒い結晶。自身の身体から何かが剥離していくような感覚。薄れていく意識。その後はもう、黒竜は元の姿ですらなくなってしまった。
同じ器。同じ身体に、もう一つの魂が同居している。それは、かつては人間であったのだろう。自分と同じような立場。大切なものを守れなかった。そんな後悔の臭いを纏っているのは自分と同じ。
けれど、竜はその魂に心を開こうとも関わろうともしなかった。
その頃には人間そのものへの不信が募っていたからだ。
ただ――あの巫女だけは。最後の代の、あの娘だけは。最期まで嘘などなかった。裏切りもしなかった。その記憶は、煌めく宝石のようで。ただただ、眠りたい。眠りについて記憶の中の笑顔を、香りを、愛でていたい。
竜は、それだけを願う。
「ああ――」
最初に見た卵の姿は、そういうことなんだろうと。クレアはそう理解した。意識が飛んでいたのは一瞬にも満たない刹那だったが、それは竜人もそうだったらしい。
クレアが声を漏らしたのに対して、竜人が見せた反応は激昂だった。
互いの意識が途切れ、戻った直後。咆哮して間合いを一直線に詰める。詰めて、激情に任せて爪を叩き込んだ。
ファランクス人形が爪を受ける。構わないとばかりに竜人は力任せに押し込んだ。人形ごとクレアを押して、結界壁目掛けて詰める。
クレアは――俯いたままだった。反撃も回避も遅い。今ので戦意を喪失したというのなら、このまま押し切って――。
「ごめん、なさい」
紡がれたのは謝罪の言葉。竜人の身体がぴくりと一瞬固まる。顔を上げたクレアは竜人を真っ直ぐに見ながら、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「そこまでは。そこまでは見るつもりは、無かったのです。かけられた魔法の性質を……理解できれば、と。怒るのも――憎むのも、当然、です。だから、ごめんなさい」
何を言われたのか。何に謝っているのか。一瞬理解できなかった。ただ何か――とても懐かしい香りを感じた。




