第307話 煌めく欠片
クレアの展開した糸の内いくつかが、太く分厚いものとなり、その弾性と剛性を以って竜人の攻撃を撃ち落とすように唸りを上げる。切り込もうとした竜人の横合いから唸りを上げて迫り、爪撃とぶつかり合って互いの攻撃が弾かれた。
あくまで防御のためのものだ。竜人の攻撃に打ち負けず相殺するのなら、これぐらいの威力がなければならない。
しかし、太く強靭にすることで小回りが利かなくなったところを、すり抜けるように錐揉み飛行で突き抜けて肉薄。その前にクレアが手を握り込むような動作を見せれば、背後から太い糸が絡みつくように竜人の動きに追随した。
見ない。竜人はそれを見ないままに翼代わりにしていた六角鱗を変形。周囲に斬撃を繰り出すようにして切り払う。
飛び込みの勢いは殺さないままで。爪を突き出すその一撃をファランクス人形が受けた。竜鱗の盾に防殻を展開していたにも関わらず、人形が大きく吹っ飛ばされる。が、クレアは人形の陰に隠れるように視界を遮って跳んでいた。
それを追うように短く竜の吐息が空間を切り裂くも、魔力反応の大きい攻撃だ。クレアも身を翻して避けていた。クレアを引っ張っていた糸は吐息で断ち切ったはずが、その瞬間には別の糸に引っ張られてまた軌道を変化させる。
防御と回避、迎撃に専念。そうしながらもクレアの口が言葉を紡ぐ。
「私は――赤ん坊の頃の……オーヴェルさん達と一緒に、逃げていた時の記憶が僅かにあるのです。あの人の戦う背中を。大樹海の魔物を相手に美しい剣技を振るう姿を、今でも憶えています。何故そうしてくれたのか、そこまでしてくれたのかを、私はその後長い間知る機会がなかった」
だけれど。だからこそ、オーヴェルが守りたかったであろうものを、自分も守りたい。
そうクレアは竜人の目を見て伝える。竜人の獣じみた猛攻の只中に、その身を晒しながらも。竜人はクレアが防御に専念していると見るや、その言葉を途切れさせようと更に圧力を増していたが――。
「けれど、貴方達の中にいる――竜である貴方のことを私は、何も知らない。貴方がどうしてここにいて、何を望んでいるのかも」
そう、クレアが言った瞬間に、再び大きく魔力が揺らいだ。
どうしてここにいて。何を望んでいるか。人の意識と融合しているが故に、クレアの紡ぐ言葉は竜にも伝わる。理解できてしまう。
クレアと竜人の手首を繋いでいる糸が明るく輝く。その瞬間に。クレアの視界が白い光に染まっていた。
否。白く染まっているのは視界ではない。これは意識がそうなっているのだと、クレアは理解する。
それは……時間にすればほんの僅かな間だけのことだった。それこそ、走馬灯を見るような、そんな刹那の間の出来事。そこにクレアは記憶を垣間見る。
竜は静かで美しい森の奥深くにある洞窟に住んでいた。黒い成竜。その体色もあって周辺に住まう者達から畏れられてはいたが、恐れられてはいない。人を襲った事がなかったからだ。身体を維持するためならば洞窟に満ちる魔力と芳醇な魔力を宿す黒水晶で事足りていたし……縄張りの森は静かで、豊かで美しく、満たされていたのだ。
何より……竜は人間を観察するのが嫌いではなかった。
共感覚。生き物の感情や、そこに乗る魔力の微細な機微を香りとして感じ取る。黒竜の持つ感知能力は、そういうものだった。
初めて人間を知った時のことは、よく憶えている。何と複雑な香りを纏う生き物だと思った。興味は持ったが、あまり近寄りはしなかった。自分が姿を見せると、纏う臭いが不快なものに変わる。人間達も自分との接触を望んでいないのだろう。
けれど、ころころと変わるその香りを嗅ぐのは好きで、人間達が知覚できないような距離から眺め、香りを嗅いでその変化を楽しんでいたものだ。
ある時、山火事が起こった。原因が何だったのか竜の知るところではない。
火の不始末か。それとも乾燥による自然発火か。長く生きていればそういうこともある。竜の住まう森の方には風は向いていなかったし、洞窟に住んでいた。
だから、本来ならば関係のないことで終わっていただろう。ただ――風の吹いている方向が気になった。人間達の住まう土地がある場所ではなかったか。
そう思い至った時、黒竜はそちらに向かって飛翔していた。人間達が焼け出されて、香りが不快なものに変わるのは嫌だなと、そう思ったから。
火はかなり燃え広がり、竜が気付いた時には既に人間達の住処がある方面を広範囲に焼いていたようだった。
人間達はそれこそ、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。木を切り倒し、何とか延焼が自分達のところに到達するのを防ごうとしているようではあったが、斧や少々の魔法ではそれこそ焼け石に水といったところだろう。
すぐに逃げなかった理由は――記憶を見ているクレアには分かる。
街を見捨てて逃げるにしてもどこに行くのか。宛てなどない。それに街の後方には豊かな畑が広がっていた。それを失うのも、その後のことを思えばあまりに酷だ。呆然とする者。泣き叫ぶ者。怒号を響かせる者。火が届く前に逃げ出そうとする者。
反応は様々だったが混乱しているのは間違いなく、竜の不快に感じる臭いばかりだった。
竜の飛来に気付いた者達はいよいよこの世の終わりかというような反応を見せた。
だが――竜は上空から状況を見て取ると街の上空にまでは至らずにゆっくりと旋回。空中から既に燃えているエリアとそうでないエリアを分け、その中間となるエリアにブレスを浴びせたのだ。延焼が、森を伝い、人の住処にまで届かないようにするために。
黒竜が黒竜として空中から吐き出す吐息の規模、破壊力は凄まじいものだった。少なくとも攻撃範囲という一点においては、竜人となった状態の比ではない。森の木々を広範囲に吹き飛ばし、地面を抉り飛ばし、延焼を防ぐための緩衝地帯をあっという間に作り出していく。
人々は竜が最初、何をしているのかが分からなかった。猛り狂って暴れているのか。山火事の原因は竜ではないのか。そんな想像から恐怖が勝っていたが――誰かが竜の意図に気付いたのだろう。延焼を防ごうとしているのではないかと。
悲鳴や怒号はやがて歓声や声援へと変わった。黒竜の行動は空から見ながらのものであったから的確で、やがて町に押し寄せる火は押し留められた。
黒竜は――誰かから感謝や尊敬、畏敬の念を向けられること。そこの込められた香りを初めて知ったのだ。
それからは――かなりの長い時間。平和な時が続いたようだ。最初の方こそ供物が届いたりと、竜が別に求めていないものが届いたが臭いが不快にならないものだけ受け取るように生贄の類は突き返すなどしていたところ、竜の求めるところを理解したのか、季節に合わせて作物や果物、少し魔力の込もる鉱石類が届くようになった。
それは別に竜にとって拒否する理由もなく、感じられる香りも心地の良いものだったので受け取っていた。そんな記憶が瞬くようにクレアに見える。宝物のように煌めく、美しい記憶の欠片達。
仲良くなった者達もいる。供物を届けに来るのは巫女役となる村の娘とその護衛達。顔を合わせる事もあったが、無闇に恐れず、敬いの気持ちを向けてくる彼女らの香りは、心地のよいものだった。
ずっと、そんな時間が続くものだと思っていた。
そんな――人と黒竜との穏やかな時間を終わらせたのは、帝国の侵攻だったのだ。




