第１９４話　均衡の天秤

　虹色の鎖の正体は不明。

　あちこちの床から天井へと伸びているが動きは見せない。ただ、あれが普通ではないという事は分かる。

　高まる魔力とは別種の、ぴりぴりとした緊迫感が空間を満たしている。僅かな間だけの静寂。先に動いたのはネストールの方からだった。

　前触れもなく凄まじい速度で斧槍を振るえば、三日月状の横薙ぎの波が迫る。それがクレアに達するより前に。

　斬撃波に触れたか触れないかというタイミングで、虹色の鎖の一部が急激に膨れ上がって弾けた。

　魔法であれば機能停止、減衰させるはずのネストールの術とぶつかり合い、干渉し合って小さな火花を散らして更に弾ける。斬撃波はクレアに届く前にそれで大きく減衰して消えていた。

「これは――」

　ネストールが術同士をぶつけた時に、今まで一度として見たことのない反応だった。

　本来なら魔力の動き自体を停止させてしまえば性質によらず術も崩壊する。同じ固有魔法であればある程度抗えるという事考えれば、鍵の娘――クレアが使った術も固有魔法なのだろうが、ここまでのネストールの術と拮抗――干渉し合う術というのを見たことがない。

　であるなら、固有魔法をベースにまた別の術の性質を付与していると考えるべきだ。そういう、応用が利く性質を持つ固有魔法というのはある。ネストールの場合は性質上、集束と硬化、拡散と放出程度ではあるが、娘の場合はそうではないという事だ。

　思考を巡らせながらも踏み込む。爆発するような初速。踏み込んだ瞬間、クレア本体とあちこちに伸びた鎖からの攻撃が同時に飛来した。プリズムのように煌めく鞭と共に、鎖の一部が膨れて煌めく散弾を放つ。

　腕を振り、密度を上げた障壁を前方に形成して散弾を突破。鞭自体を切り裂くように斧槍を打ち下ろす。軌道は見切っていた。普通の鞭であればそれで切り落とす事ができただろう。だが、鞭自体が生き物のように絡むと斧槍の柄に絡む。絡んだ瞬間煌めく結晶が斧槍の柄に纏わりついた。

　プリズムのような輝きを放つ水晶状の物体だ。柄を伝い、ゆっくりと侵食するように範囲を広げた。得体の知れない技だが、それを無視して力技で鞭ごと引き寄せるように動くと、そうした勝負を嫌がったのかクレアはあっさりと絡ませた鞭を操って斧槍を放つ。

　半歩後ろに下がったネストールはそのまま斧槍に魔力を通し――再び前に出ると同時に魔力の刺突を放つ。放とうとして、不発に終わった。結晶が付着した部分で魔力が阻害された事を悟る。

　輝く結晶の正体。効果を理解した。魔力の動き自体を封じる。阻害する。そういうネストールの固有術に似た効果を持つ。結晶で覆われてしまった部分に魔力が通らない。放出そのものを封じる。

　それは鉱山竜が用いた魔封結晶の解析から生まれた術だ。クレアの糸からならば放つ事ができる。糸を鎖状に編んだのは表面積を増やす事により、魔力の蓄積量を上げ、どこかで断ち切られても結晶を炸裂させられるようにするため。ネストールの切断や拡散放出に抗うためだ。

　固有魔法に阻害術を付与。ネストールの固有魔法と原理は少し異なるが、似たような術だ。だから干渉し合って互いに無効化される。しかし、こういう形で一度固着してしまえば固有魔法となる前の魔力の動き自体を阻害されてしまう。

　思考を巡らせている間もクレアも座視してはいない。斧槍からの飛び道具が無くなったと見るや、鎖を撓ませた反動により、結晶の弾丸を物理的な原理で発射してくる。

「厄介なものだな！」

　雨あられと降り注ぐ弾丸を避け、斧槍で打ち落とし、獰猛に笑ったネストールは空いた手で黒い波を浴びせて付着した結晶を吹き飛ばし、右に左に跳んでクレアに向かって迫る。飛び道具は減衰や相殺される。効果が薄いならば懐に踏み込んで叩き伏せるまでだ。四方から放たれる結晶も、内側に入ってしまえば自爆の可能性が高まるために使いにくくはなる。

　時間稼ぎや看守達の援護は期待出来ない。そういう消極的な戦法を取れば、余裕のあるクレアは仲間達の援護にもあの力を回すだろう。先程ネストールがやっていた戦法をやり返される形になり、看守達が今度は圧殺される。先程までの手応えからするとそうなる。それだけの練度を感じさせられる敵だ。

　だから、クレアはネストールが抑えなければならない。包囲し、術中に嵌めた上でやり返されて食い破ろうとして来る。そんな相手はネストールの長い戦闘経験においても初めての相手だった。

　純粋な体術ではネストールの方が上。弾丸を弾き、掻い潜り、間合いを詰めて黒い渦を纏わせた斧槍を叩き伏せるように打ち込む。

　その軌道を埋めるように白い壁が生まれた。糸で編まれた防壁だ。林立する鎖から縦糸と横糸が伸びて、幕を形成するように防壁を形成した。弾性を持ったそれは完全には打ち破れない。拮抗して斧槍を弾き、生まれた隙を縫うようにクレアの鞭が迫る。

「くっはははっ！」

　ネストールが愉快そうに笑う。笑って黒渦を纏った裏拳で打ち払う。糸。鍵の娘が保有する固有魔法の正体は恐らく糸だ。糸自体を鎖状することもできる。別の術を纏わせられるし、鞭の中に通されて生き物のように操れる。糸自体を編み上げ、性質を変化させることで弾性を付与することもできる。

　クレアは糸の幕の陰に身を隠すように横跳びに跳んで、反対方向から影が飛び出す。

　飛び出したもの目掛けて斧槍の石突を叩き込む。硬質な音がした。

　違う。幕の裏側から飛び出してきたのは少女のシルエットではなく。

　鎧を纏った重装歩兵――ファランクス人形だ。仮面の無機質な顔がネストールに向けられていた。大盾と槍を構えてネストールに迫ると同時に、クレアが糸の反動で大きく反対方向に跳んで行くのが視界の端に見える。

　従魔の類ではなく、それは人形であった。

　であれば、相手をすべきは人形ではなく術者だ。固有魔法の正体が糸であるというのなら人形を相手にしても意味はない。クレアの跳んだ方向と、人形のいる位置。その間の空間を埋めるように黒い波を放てば、迫る人形がガシャリと金属音を立てて動きを止める。

　やはり操り糸を経由して魔法で操作しているのだろう。

　変幻自在にして奇怪。いくつの手札を持つかも分からず応用範囲も広い。魔術師として一番厄介な手合いでありながら、馬鹿げた魔力保有量と不可思議な固有魔法を有しているのかもわからない。

　それでも人形という手札は無効化ができるという事を見せた。跳躍したクレアを追うようにネストールも黒い風を纏って跳んだ。

　グライフもクレアの準備が終わるまで看守達が迫らないよう近くにいたが、完全に戦闘体制に入ったのを確認したからか、展開した糸の幕の陰から飛び出し、看守に向かって不意をつくように疾駆する。

　ネストールとクレアがぶつかる事で全体の戦局に変化が生まれた。両陣営とも二人の支援を受けにくくなったということだ。

　だが、ここまでクレアがしてきたことはネストールに妨害されにくいタイミングを知らせ、作戦や分析結果を小声で伝えるというものだ。ネストールの妨害が無くなった以上は問題なく戦える。

　加えて、戦場に林立する虹の鎖は敵の識別をしての自動発動に近い。

　味方の魔力反応が近くに存在していない時、味方以外の魔法が柱の近くに迫った時に魔封結晶をばらまいて妨害する、という条件での発動。実質的には敵の魔法弾を無効化しているに近く――形勢が逆転しているような状態だ。

　では、看守達との戦いもまた先程までのセレーナ達のように防戦一方になるのかと言えば。

　ニコラスの周囲に魔法の鞄から放出された何種類かの武器、盾が浮かぶ。剣、槍、斧、大鎌、杖、盾……種類はバラバラだが、どれも魔法が掛かっているニコラス専用の武装だ。それらがニコラスの周囲に、衛星のように輪を作る形で浮遊する。

　外部に魔法銀。鉄芯が通してあり、ニコラスの術で操る事の出来る専用武装だ。鉄以上の素材を使いながらも

「それじゃあ――ここからは出し惜しみは無しでいくよ」

「なんだ……あの術は？」

「まさか……固有魔法持ちが複数？」

　作戦は「情報を極力与えない」というものから、「固有魔法も何でも使って制圧する。一人として決して逃さない」というものに変化している。

　ニコラスは隠すこともなく固有魔法の行使を行った。

　クレアの影響も大きいのだろう。ニコラスの制御能力は以前より大きく向上している。全体が一つの生き物のように。空中を回遊する魚群のように魔法武器が看守達に殺到する。

「う、おおおおおっ！」

　立体的な斬撃、刺突。武器は迫っても反撃すべき相手すらそこにいない。下手に受ければ死角から別の武器が襲ってくる。加えて――。

「ぐあっ！？」

　迫る槍を回避しようとして、足に走った激痛に看守はもんどりうって倒れた。いつ飛来したのか、足の甲を短剣が貫いていた。

「飛行する武器に気を取られ過ぎではないかしら？」

　笑うルシアの掌の上に、風が渦巻いている。その風に乗って薄刃の短剣が複数枚、くるくると舞っていた。そこから飛ばした――というのは実は見せかけだけのものだ。

　同じものを所有するウィリアムが固有魔法で直接看守の足に叩き込んだ。ウィリアムの転移、転送は複雑であるが故にネストールの妨害下では迂闊に使う事も出来なかった。ウィリアム自身が帝国の者には察知される可能性がある事、脱出時の要という事情もあって積極的には力を行使せず、防御に徹していたが、ルシアの風やニコラスの武器群に気を取られている今ならば殆ど注意を払われずに術を行使できる。

「こ、この女――！？」

　セレーナも最早その特異性を隠しすらしていない。目の固有魔法による先読み。竜牙の細剣に乗せた魔力刺突により、魔法を発動しようとした看守に信じられないような距離から高速の刺突を見舞う。防具も防殻もものともしない、防御不能の高速貫通弾だ。

　一対一の集中できる状況ならいざ知らず、ニコラスの剣が飛び交う混乱の中で回避できるようなものではない。しかもそれは目の前で武器を振るう相手の動きを完璧に見切りながらだ。初動やフェイントを見てから対応しつつも後方の隙を見ているとしか思えない。頭数の不利をものともせずに一人、また一人と倒れていく。

「包囲どころではない……！　撤退許可と立て直しを……！」

　そう叫んだ看守は、天井の暗がりから飛来したスピカの衝撃波の直撃によって頭蓋を揺らされ、意識を刈り取られる。エルムも魔法を使える状況と判断したのか、牙と蔦を備えた小さな植物型魔物を模した傀儡(くぐつ)を放っており、足元をちょこまかと走り回りながら噛みつきや絡みつきを見舞って看守達の意識を散らして回る。

「後方は結界で閉ざされている！　撤退する場所はない！　獄長殿に敵を向かわせないためにも死守しろ！　間合いを詰めて身体強化と共に至近弾の発動で対応するのだ！」

　アストリッドの攻撃を捌き、反撃を繰り出しながらも副長のシグネアが檄を飛ばし、看守達も覚悟を決めたようにセレーナ達に向かい、咆哮を上げて突っ込んでいく。士気が崩壊しないのは精鋭部隊という自負があるからだろう。それでも、最早全体の戦局は逆転している状況であった。