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文芸コラム 『言葉の精練』 -魔法に変わる言葉-  作者: Kobito


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第77回 文芸対談・猫子とKobito『詩と歌詞の違い』

3月某日

猫子スタジオにて収録


猫子「皆様、こんにちは、美猫の古寺猫子です。お久しぶりですね。お元気でしたか?私の方はお陰様で、元気に過ごさせて頂いております。

今年に入って、何だか物騒なウイルスが世界中で流行していますね。(Kobito注※中国での新型コロナウイルス発生は2019年の11月頃だそうです。)

最近では私も、念のためにお出かけの際にはマスクをするようになったのですが、道行く方々がみなさん好奇の目で私の顔をじろじろ見るものですから、困ってしまいます。猫だって、こう世間がかまびすしいと、心配になりますから、マスクくらいしますよ。ねえ、Kobitoさん。」

Kobito「あ、皆さん、こんにちは。今日は対談という事で、猫子さんのレギュラー回に同席しています。」

猫子「あら、御免なさい。ご紹介するのを忘れていましたね。ジャーン!泣く子も笑う、Kobitoさんです。」

Kobito「(笑)ご紹介にあずかりましたKobitoです。という事で、まあ、気持ちは分かるけど、猫がマスク姿でうろつくのは、みんな馴染みがないだろうから、注目されたくないなら、人間に化けてから、マスクをするようにした方が良いと思うよ。」

猫子「そうですね。人間のマスクは猫の顔には大き過ぎますし。」

Kobito「ほぼ顔全体にマスクを被る事になったんじゃない?」

猫子「そうなんですよ。前が見えないから両目のところだけ丸く穴を開けて。」

Kobito「プロレスのマスクマンみたいだね。」

猫子「わぁ。そう考えるとカッコいいですね。じゃあ、リングネームは猫子・ザ・〝鉄の爪〟でお願いします。」

Kobito「マスクマンは名前を伏せないと。(笑)」

猫子「そうでした。じゃあ……『謎の美猫・ホワイトマスク』でお願いします。」

Kobito「了解した。(笑)」

猫子「マスクの話はこのくらいにして、そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか?」

Kobito「よろしいですとも。ところで、部屋のドアに、今日の対談のテーマが貼ってあったね。確か、『詩と歌詞の違い』って。うーん。これは難しいよ。」

猫子「難しいですか。ずっと疑問に思っていて、いつかKobitoさんにこうと思っていた事なのですけれど。」

Kobito「うん。例えば、歌詞というのは、歌うために作られた文章の事を指す、というのが、一般的な認識だよね。」

猫子「そうですね。」

Kobito「それはおおむね正しい。どうしてそう言えるかというと、純粋に詩として書かれた文章を、そのままの形で歌詞に用いた音楽作品はあまりないから。歌詞には、詩から転用、応用した物もあって、例えば、ベートーヴェンの交響曲第9番の第四楽章の歌の歌詞は、シラーという詩人の詩を下敷きにしているんだけど、歌いやすいようにベートーヴェンが加筆、翻案ほんあんして、歌詞として完成させている。」

猫子「へ~。そうなんですね。ベートーヴェンさんの〝大工〟というと、大晦日に年越しそばを頂きながらテレビで聴いた曲ですよね。」

Kobito「うん。日本では年の瀬に第九を聴くのが、毎年恒例の行事みたいになってる。でも、今ちょっと発音がおかしかったような……。〝大工〟ではなくて〝第九〟ね。語尾が上がる。」

猫子「だぁーいくぅー、ですかぁ?」

Kobito「何で外国人風になるの(笑)。で、話を戻すと、音楽のメロディに乗せないといけない関係上、歌うために書かれていない詩は、そのままでは歌詞に用い辛いという特徴がある、という事。」

猫子「では、それが詩と歌詞の違い、という事で、解決ではないのですか?」

Kobito「ところがね、問題は、詩を書く時に、『歌詞風の詩』を書く人がいるでしょう?音楽に乗せる意図はないけど、でき上がった文章は歌詞のような印象を受けるというパターン。そういう作品は、歌詞ではなくて詩に属する事になるよね。」

猫子「そうですね。歌詞として書いたのではなくて、ご本人が歌詞ではないと言えば、詩になるでしょうね。」

Kobito「という事は、詩と歌詞の境界線は、やっぱり曖昧あいまい、という事になるんじゃないかと思うんだけど、でも、一方で、感覚的には、詩らしい詩というものがきちんと存在していて、歌詞風の詩を詩というジャンルに含めてしまう事に対する抵抗感もある。」

猫子「うん。ここで妥協して曖昧にしては、きっと先々後悔しますよ。大いに抵抗しましょう。」

Kobito「詩らしい詩と、歌詞風の詩の、違いって何だと思う?」

猫子「うーん、やっぱり、曲が付けやすいか、そうではないか、の違いではないでしょうか?」

Kobito「そうなんだよ。で、曲の付けやすさが、どこから生じるのかというと、まず第一に、文字数がある程度定型的に推移するという条件が重要なんじゃないかと思う。」

猫子「ん?難しいです。猫でも分かるように説明して下さい。」

Kobito「例えば、俳句の五七五、とか、短歌の五七五七七みたいに、各文節の文字数に定めがあって、しかも一番の歌詞と二番の歌詞が、同じ定めに乗っ取って書かれている、というような事。なぜ、文字数の推移が定型的だと曲が付けやすいか、というと、たいていの音楽は、同じメロディを繰り返す事で、曲が進行して行く構成になっているから、文字数が定型的に推移する文章なら、メロディの繰り返しに当てはめやすい、という事になる。」

猫子「なるほど~。そういえば、音楽って、同じメロディを何度か繰り返す曲が多いですよね。では、曲の一番、二番みたいに、同じ定型的な文字数の繰り返しの形になっていれば、文章は詩というよりは、歌詞に近くなる、という事ですか。」

Kobito「ところがどっこい、そう簡単ではないからややこしい。」

猫子「もう、Kobitoさんは詩と歌詞、どちらの味方なんですか?」

Kobito「いやいやいや、敵も味方もない。私はノーサイドだから。」

猫子「本当でしょうか?どうも詩に肩入れしている気がそこはかとなくするのですが……。」

Kobito「(うっ、鋭い。)まあ、普段愛読するのは歌詞よりも詩の方だから、詩の側からの視点になってしまうのはいたし方ないよ。でも、中立に論じようとはしているから、そこら辺は大目に見てね。」

猫子「ん。良いでしょう。」

Kobito「宮沢賢治は、文字数がおおむね定型的に推移する詩を、いくつか書いているから、例示してみるね。」(賢治の詩は著作権が切れているので掲載しても大丈夫です。)



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『野馬がかってにこさえたみちと』


野馬がかってにこさえたみちと

ほんとのみちとわかるかね?


なるほどおほばこセンホイン

その実物もたしかかね?


おんなじ型の黄いろな丘を

ずんずん数へて来れるかね?


その地図にある防火線とさ

あとからできた防火線とがどうしてわかる?


泥炭層でいたんそう伏流ふくりゅう

どういふものか承知かね?


それで結局迷ってしまふ

そのとき磁石の方角だけで

まっ赤に枯れたかしわのなかや

うつぎやばらの大きなやぶ

どんどん走って来れるかね?


そしてたうたう日が暮れて

みぞれが降るかもしれないが

どうだそれでもでかけるか?


はあ さうか



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Kobito「この詩はね、面倒な道行きをあげつらって出かけるのを躊躇ちゅうちょさせようとする心の声に、屈しない自分という、おかしみを誘う内容だよ。」

猫子「あーっ、ほんとだ。言われてみれば、賢治さんのユーモアあふれる心の中が伝わって来て、じわじわと面白くなって来ますね。」

Kobito「でね、文字数を指折り数えてみると、主に、五と、七と、八の文節を組み合わせて、リズミカルに進行して行くのが分かる。『野馬がかってに』は八、『こさえたみちと』は七、という感じでね。

こんな風に、語呂がよくてテンポよく読める詩だから、メロディにも乗せやすそうだな、という印象があるよね。

では、この詩は歌詞的な詩、と言えると思う?」

猫子「どうでしょう?……、そういえば、歌詞らしくはないですね。」

Kobito「ね。私も、この詩は、歌詞に組させるにはあまりに詩的だと思う。もちろん、文節の文字数が定型的だから、メロディを付けるのは比較的簡単だと思うんだけど、歌詞として認識しようとすると、ちょっと無理がある感じになるよね。」

猫子「本当ですねぇ。どうして、文節が定型的なのに、歌詞らしくないと感じるんでしょうか?」

Kobito「分からない。」

猫子「ええっ。分からないんですか?」

Kobito「ちなみに、歌詞らしく感じる文章として、私が以前書いた小説『ブルース少年』の中から、自作の歌詞を紹介してみるね。」



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『ハーモニカ泥棒』


あいつはハーモニカを盗んだね

あいつはハーモニカを盗んだね

だけど

街であの娘に出会ったら

あわてて後ろに隠したね


悪びれてなんかいないはず

悪びれてなんかいないはず

だけど

あの娘の前に出りゃ

後ろから手は出せないね


あいつがハーモニカを盗ったのは

あの娘に聴かせたかったから


あいつはハーモニカを返したね

あいつはハーモニカを返したね

これで

街であの娘に出会っても

笑顔であいさつできるだろ




-----------------------------------------


猫子「ほんとだぁ。いかにも歌詞っぽいですね。賢治さんの詩と同じように、文節が五と七と八を多用しているのに、どうしてなんでしょう。詩というよりは、いかにも歌詞、という感じがします。」

Kobito「思うに、『ハーモニカ泥棒』の方は、Aメロとサビという、音楽の構成を意識した、より定型的な文章になっているよね。そこが、歌詞らしさを感じさせる一番のポイントだとは思うんだけど、一方で、賢治の詩が、定型的な文字数の文節なのにいかにも詩らしく感じられるのは、定型的であるか否かや音楽の構成感があるかどうか、だけが所以ゆえんではない、とも思う。」

猫子「定型的な文節や音楽の構成感以外で、Kobitoさんの歌詞になくて、賢治さんの詩にあるものとは、いったい何でしょう。」

Kobito「複雑さかなぁ。ほら、私の歌詞は、音楽が添えられて初めて完成する感じがするでしょう?音楽の構成を意識して作った結果、作品単独では、味わい深さの点で『純粋な詩』に引けを取ってしまう。でも、賢治の詩は、それだけでもう完成していると感じるよね。音楽が必要ない。むしろ、言葉の流れやリズムが楽しめるといった、音楽的な持ち味まですでに十分に備えている。」

猫子「ふむふむ。という事は、詩は、流れやリズムなど、音楽的な要素も備えた総合作品、という事で、歌詞は、音楽を付けられる事で初めて完成すると感じる作品、という事でよろしいでしょうか?」

Kobito「格助詞(『に』、『を』、『は』など)を省くという手法を使うと歌詞らしくなるとか、まだ、他にも要素はありそうだけど、今のところ、主にそういう点で感じ分けているんだろうな、とは思う。」

猫子「おお~。ちゃんと違いを説明できたじゃないですか。さすが文芸を語らせたら左に出る者のいないKobitoさんです。」

Kobito「いやぁ。照れるなぁ。ん、左?それだと、一番下っ端になる……。」

猫子「そうなんですか?じゃあ、右にも左にも出る者のいないKobitoさん!」

Kobito「それだと完全に孤立しちゃうけど……まあいいや。細かい事は気にしない!」

猫子「それが良いです。〝人間万次郎の最強の馬〟とも言いますしね。」

Kobito「それを言うなら〝人間万事塞翁にんげんばんじさいおうが馬〟……、もういいや、終了!(笑)」

猫子「終了!(笑)」



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